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文春オンライン 雅子皇后をアゲ、紀子妃殿下をサゲる。(3)

2021-04-14 23:32:16 | 紀子さま
「雅子妃が輝きを失っていかれたのとは対照的」 紀子さまはなぜ皇室で“自己実現”を果たされたのか
『日本の血脈』より #3 文春オンライン 4月13日
民間人が皇室入りするにあたっては、私たちにははかり知れないほどの困難があるだろう。しかし、紀子さまはそのような困難を乗り越え、皇統に関与する宮家の一員として、積極的に公務に取り組まれている。紀子さまの“強さ”はいったいどこから湧いてくるのだろうか。
 ここでは、ノンフィクション作家石井妙子氏の著書『日本の血脈』(文春文庫)を引用。紀子さまの母である杉本和代氏のルーツ、そして紀子さまの生い立ちを振り返る。(全3回の3回目/1回目、2回目を読む)

ここでも強さではなく”強さ”。記者は紀子妃殿下の強さを肯定しているだけではない。
#1では父方川嶋家のルーツを語り#2では川嶋家の評価を高める祖母紀子さんのルーツを書いた記者は、#3では紀子妃殿下を語る際にあまり語られることのない母和代さんの出自を書いている。

もうひとつのルーツ
杉本和代は杉本嘉助、栄子夫婦の長女として昭和17年、静岡に生まれた。

 当時、一家は満洲国の奉天で暮らしており、栄子は出産のために静岡に一時里帰りし、無事、出産を終えると、愛児を胸に夫の待つ奉天へと再び戻っていった。
嘉助の生家は静岡で箪笥や鏡台をつくる家具製造業を営んでおり、嘉助も家具職人となることを父に望まれた。だが、勉強がよくでき、また教師の熱心な勧めもあって、旧制の県立静岡工業を卒業すると、奨学金を得て横浜高等工業学校機械工学科(現・横浜国立大学理工学部機械工学科)に進んだ。その後、技術者として満鉄に就職して渡満し、同じく静岡出身で満鉄社員であった服部俊太郎の娘、服部栄子と結婚したのである。 

夫婦は最初に長男を授かったが、満洲の厳しい気候の中で病気になり、間もなく他界した。これを父親の嘉助は大変に悔やんだ。その後、長女の和代も満洲の寒さの中で長男と同じような症状を起こした。嘉助は医者に頼らずに自分の手で和代の背中をさすって介抱したという。この時の経験が、後の嘉助の生き方を決めることになる。

 敗戦を一家は奉天で迎えた。満洲での日本人の立場はその日を境に大きく変わった。さまざまな悲劇が起こった。だが、満鉄の技術者であった嘉助は、こうした他の日本人たちとは少し異なる戦後を送った。占領軍となった中国側が、その技術力を欲したためである。技術者だけ集められた地域に囲われて暮らし、中国の人々に技術を教えた。故に、略奪や飢えの恐怖を味わうことはなかったという。
 ようやく帰国の途に就くのは、2年後の昭和22年。嘉助一家は、家族全員がそれぞれリュックひとつを背負って引き揚げ船に乗った。満洲で築いた財産は全て失い、その後、故郷の静岡で新しい生活を始める。

満鉄の技術者であった嘉助は、医療器具の開発に取り組んだ。ようやく納得のいく機械が完成し、嘉助は日本とアメリカの両方で特許を申請した。昭和33年から、いくつかの特許が下りた。結局はコストがかかりすぎて、製品化には漕ぎつけられなかったが、そこで機械を販売するのではなく、機械をつかった治療をしようと考えて、整体の治療院を立ち上げる。
 その治療院は、かつて静岡駅近くの泉町にあった。東海道線が通る線路の近くで、ひっそりと営んでいたという。

→今でも、時折院長が自分で開発した機械を使って治療している鍼灸、整体の治療院がありますが、すごく流行っているか、患者がいないかの両極端。
杉本嘉助さんの治療院は成功していたようです。

杉本夫妻には娘がふたりいたが、慎ましい生活を送る中でも、教育費は惜しまず、静岡英和女学院というミッション系のお嬢さん学校に通わせた。その後、長女の和代は高校を卒業すると、東京の昭和女子大学短期大学部に進学する。
→慎ましいというのは生活スタイルで、経済的には裕福だったことが解ります。

紀子さまの誕生
この短大時代に東大在学中の川嶋辰彦と出会う。当時、辰彦は駒場祭での催し物の費用を捻出するために、同級生たちとダンス講習会を主宰していた。その講習会に、友人とともにダンスを習おうとやってきたのが和代だったという。
→当時の出会いの場の定番ですね。費用を捻出するため半分、他校の女子狙い半分。他校の女子も出会いを期待してこういう場へやって来たものです。

和代は短大を卒業すると、静岡に戻り、地元の企業に勤めた。だが、東京と静岡に離れても辰彦との縁が切れることはなく、ふたりは間もなく結婚した。とはいえ辰彦はまだ経済学を学ぶ大学院生、会費制でささやかな結婚式を挙げた。

→学生時代に軽いノリで出会い学生結婚するのは、紀子妃殿下の血筋だとでも言いたいのか?

紀子が生まれた昭和41年は、実は大変に出生率が低かった。その理由は干支にある。この年は丙午だった。丙午の女児を授かることを避けたいという親が、当時はまだ多かったのだ。だが、川嶋夫婦は、もちろんそのような旧弊な考えを持ち合わせてはいなかった。
 辰彦は紀子が生まれた翌年、東京大学大学院を修了し、アメリカのペンシルベニア大学大学院に留学することが決まった。一家はフィラデルフィアに移住する。

→何故此処で丙午の話?紀子妃殿下と同年という佳代さんも丙午。
 男を食い殺すといわれる俗説通りの佳代さんと紀子妃殿下は同じだとでも?

人種による差別感情などを持たない人間にという願い
その生活は6年にわたり、紀子はここで現地の幼稚園と小学校に、それぞれ1年ずつ通った。辰彦は子どもの教育を考えて、この時、日本人学校や白人だけが集まる学校を避け、あえて生徒や教師の多くが黒人である現地校を選んで娘を入学させたといわれる。肌の色や人種による差別感情などを持たない人間になって欲しい、との願いがあった。辰彦を知る人は語る。
「本当に学者タイプで、少し浮世離れした方です。穏やかで絶対に怒らない。どんな相手に対しても常に敬語で話します。また人間は常に対等であるという考えで、日頃から『自分は国籍や肌の色による差別、他、あらゆる差別意識に反対の立場を取る』と発言しています。
 親子関係でも親が子どもより上という考えは持ちたくない。一つの人格として子どもを見て、対等な関係で接するようにしたと聞きました。だから小さな子どもにも敬語で話すのだと。夫婦関係ももちろん対等、また生徒と教師の関係も、上下ではなく対等で平等であるべきだという思想の持ち主です。専門は計量経済学ですが、授業では、そういった問題意識から被差別問題なども取り上げています」
 そんな父と、学者肌で理想主義者である夫を支える母のもと、異国のアメリカで紀子は育った。家での親子の会話は全て英語だった。紀子は6歳まで英語を母国語として育つ。

紀子が小学1年生の時、父が日本で就職することになり帰国した。ちょうど母の和代が妊娠中だったため、紀子は母とともにアメリカから戻ると、まず静岡の杉本家で暮らした。静岡市立中田小学校1年に編入している。紀子は少しも日本語が話せず、アメリカとはシステムも文化も何もかもが違う日本の小学校に戸惑いを見せたという。当時を知る人が語る。

和代は、この静岡滞在中に紀子の弟にあたる舟を無事出産した。3か月の静岡滞在を終えて、3人は東京に移った。紀子は新宿区立早稲田小学校1年に入学し、約2年間通学する。だが、ちょうど父が学習院大学に就職したため、昭和50年4月からは豊島区立目白小学校3年に転校し、さらに同年、母、和代の考えにより学習院初等科の編入試験を受けて合格、翌年には、学習院初等科4年に編入した。
 その翌年には辰彦がオーストリアの研究所に赴任することになり、また転校を余儀なくされる。オーストリアはドイツ語圏であるため、現地ではアメリカン・スクールに通学した。紀子が通った小学校は、アメリカを皮切りに実に6校に及ぶ。しかも外国から日本国内、それも市立から学習院という特殊な私立学校まで変化に富んでいる。その後、2年間のオーストリア生活を終えて昭和54年に帰国、学習院の女子中等科1年に編入したが、2年間の外国生活によって、日本語はまた後退してしまったのだろう。大変にたどたどしかったという。

→雅子皇后は日本語が不自由だが、紀子妃殿下も同じだと言いたいのか?

それにしても、実に目まぐるしい幼少期である。外国に行けば東洋人の少女は異国人であったろうし、日本に戻れば言葉が通じなかった。「笑顔は万国共通」というが、「紀子さまスマイル」と言われた、その笑顔の原点は、この幼少期に起因するのかもしれない。どんな環境でも相手の感情を見抜き、周りに順応して異分子とならぬように溶け込んでいく。この特異な経験が紀子を鍛えた部分もあるだろう。
→紀子さまスマイルをさりげなくサゲてますね。

日本語力には相当なハンディがあり、それ故、学業には苦労した部分もあったことだろう。だが、高等科を卒業し順調に学習院大学に進学した。大学は男女共学であり、一学年の人数も一挙に膨れ上がる。その広いキャンパスの中で、礼宮と呼ばれていた、後の秋篠宮に出会う。 

礼宮は、昭和40年のお生まれ、紀子より一つ年長であった。
 構内の本屋で礼宮がたまたま紀子を見かけ、その後、ご自身が主宰される「自然文化研究会」というサークルに勧誘し、交際が始まったといわれている。

礼宮は愛車に紀子を乗せて葉山などへドライブに誘い、また、お住まいにもたびたびお招きになった。学習院近くのスナックでお酒を飲まれることもあり、自然文化研究会のサークル活動として、お二人はお仲間と一緒に木曾路や熊野などに泊まりがけの旅行もされた。そこに宮内庁の影はなかった。礼宮はいわばご自身の考えと行動力で、伴侶となる女性を見つけ、普通の若者がするような自由な交際を重ねていったのだった。 
→宮内庁の影はなかったが、マスコミはこのころすでに取材対象にしていた。
 <普通の若者がするような自由な交際を重ねる>何やら匂わせてます。

美智子妃や雅子妃の場合、皇太子からの強いアプローチがあったとはいえ、その過程には、宮内庁をはじめ、周囲の人々がさまざまな形で関与している。交際といっても、電話や手紙、あるいは、じかにお会いになるとしても、その機会は数えるほどであったろう。だが、礼宮と紀子の交際は、こうした皇室の伝統に縛られなかった。それが許されたのは礼宮が皇太孫ではなく、弟宮であったからだろう。

→皇太孫という言葉を此処で使用するのはおかしい。
 秋篠宮殿下が紀子さまに求婚した当時(1986)、まだ昭和天皇は御存命(崩御1989)でした。現上皇が皇太子ですから、浩宮も礼宮も皇太孫になることはない。その時点では浩宮も皇孫、礼宮も皇孫です。

皇室典範第八条 皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という。

ここにも、記者の紀子妃殿下を意図的に低くする姿勢を感じます。
 
「伝統を最も重んじなくてはいけないはずの家が、なぜ、昭和天皇の喪中に婚約など許したのか」
「長幼の序というものがある。先に弟宮のお妃が皇室に入っては、後からお入りになる皇太子妃がやりにくくなるのではないか」
「将来、皇太子妃が男子に恵まれなかった場合、皇統に関係する。その時のことを考えて、きちんと選んだといえるのか」
 そんな声を払拭したのは、国民の紀子妃への熱狂だった。
「伝統を最も重んじなくてはいけないはずの家が、なぜ、昭和天皇の喪中に婚約など許したのか」
「長幼の序というものがある。先に弟宮のお妃が皇室に入っては、後からお入りになる皇太子妃がやりにくくなるのではないか」
「将来、皇太子妃が男子に恵まれなかった場合、皇統に関係する。その時のことを考えて、きちんと選んだといえるのか」
 そんな声を払拭したのは、国民の紀子妃への熱狂だった。
国民は「3LDKのプリンセス」と呼ばれた女性が、果して皇室に馴染んでいけるのか、固唾を飲んで見つめた。それは幸い杞憂となった。紀子妃は折れなかった。 

→折れなかったとはなんですか?せめて「よく頑張られた」と書けないものでしょうか。
そろそろ紀子妃殿下への敵意を隠せなくなったようですね。
かえして雅子皇后の露骨な擁護が始まります。

紀子妃誕生に遅れること3年。皇室に、ついに皇太子妃が迎えられた。だが、すでに紀子妃誕生を経験した国民には、どこか既視感があった。華やかな宮中行事もすでに紀子妃の時、マスコミに散々紹介されていた。
 ご成婚前から雅子妃はマスコミにさんざん追いかけ回されるという辛い経験をされていた。紀子妃はお妃候補と騒がれる前に、正式に婚約者として紹介されている。婚約者と候補者では、報道陣の態度や報道姿勢がまったく異なる。
→いやいや、当時の映像を見ると雅子さまは結構追っかけられることを楽しんでいらしたようですが。
記者を指さし恫喝したカッコ良さといったら、なかったです。

それに、雅子さまの御成婚当時、国民は華麗な学歴と外交官キャリアを誇る美貌の皇太子妃にそれなりのフィーバーしました。
フィーバーが紀子さまより盛り上がらなかったのは、ひとえに御本人にフィーバーを盛り上げるほどの魅力が無かったからだと断言できます。


あくまでも一般人の、お妃候補の一人でしかなかった雅子妃は、そのため誰からも守られることなく、記者たちに追われ、たびたび雑誌やテレビで取り上げられては、無遠慮な批評を何年間にもわたり受けることになった。お辛かったことであろう。雅子妃はご結婚後、当時のトラウマから写真のフラッシュに恐怖をお感じになるようになったと言われる。ご病状は重くなり、やがて適応障害という病名が発表された。

ですから、お妃候補の一人であった期間も御婚約から御成婚後何年か、雅子さまはずっと強気でいらして、そのころはカメラの前でも平気で居眠りされていたくらいですから、フラッシュが苦痛で病気になったとは考えづらい。
病気になってからフラッシュが負担になったというのなら解る。

対照的に紀子妃は皇室に、見事に適応された。それだけでなく、自己実現を果たされていったようにも見える。公務には積極的で、色鮮やかな皇室ファッションで様々な行事に参加され、次々と新しいことにチャレンジし、現在は、日本学術振興会の名誉特別研究員として、お茶の水女子大学にて心理学の研究に再び取り組まれている(編集部注:2017年6月にお茶の水女子大学の人間発達教育科学研究所の特別招聘研究員に就任)という。悠仁親王を、それまでの前例を破って学習院ではなく、お茶の水女子大学附属幼稚園に入学させることができたのも、このことと無関係ではない。雅子妃が民間人であった時の輝きを失っていかれたのとは対照的だ。

→何でしょう。紀子妃殿下は民間人には理解出来ないこともある皇室に何の疑問も持たずに順応して思うがままに生きることができたが、皇室のありかたに疑問を感じた故に順応できなかったとでも?

川嶋家の家系を見つめてみると、貧しさと逆境の中から艱難辛苦を乗り越え、時代に適応していった人が多い。 

農家の三男として生まれ和歌山市視学になった川嶋庄一郎、会津城で戦い斗南に流されながら、新政府のもと、大阪市長となった池上四郎、同じく幕臣として五稜郭で戦い、その後、新政府で陸軍参謀本部測量部長という要職に就いた小菅智淵、あるいは満洲鉄道で働き、リュックサック一つで引き揚げた杉本嘉助。皆、ハンディを背負い、あるいは負け戦を体験し、時代に翻弄された人々である。だが、そこで運命に押しつぶされることなく時代の変化の中で、自分の処し方を見つけ、第二の人生を切り開いていった。

→どん底からひたすら高みを目指して這い上がりついには皇室へ。
 だから秋篠宮家は小室を容認するのだろうと言いたいのでしょうか。
 
  東日本大震災が起り、日本中が悲しみに包まれた、その年の秋、紀子妃の第一子、眞子さまが成人され、ティアラを頭に頂いた煌びやかなローブデコルテのご正装姿を披露された。その時、二十数年前に服喪の中、濃紺のワンピースを着て記者会見に臨まれ、たどたどしい言葉遣いで喜びを見せた、かつての紀子妃の姿が一瞬思い出された。

→今年成人の愛子さまはコロナの状況を見て、ティアラを辞退されたのに、東日本大震災の年に眞子さまはティアラとローブデコルテ姿で成人のお披露目をしたんだよー。って、何が言いたいの?
強烈な愛子さまアゲ、紀子妃殿下サゲ、眞子さまサゲの記事ですね。

不幸の中の慶事。喪を払う寿ぎ。それがこの宮家の、ひとつの宿命でもあるのだろうか。


→なんとも禍々しいことを言うものだ。
記者は秋篠宮家に何か恨みでもあるのでしょうか。
同じ事でも、「闇を払う希望となるのがこの宮家の使命なのだろうか」とでも書けば良いのにね。

 現行の皇室典範が改正されなければ、紀子妃がお産みになった悠仁親王が、天皇になられる可能性が高い。(編集部注:2020年、秋篠宮殿下は皇位継承順位1位の皇嗣となり、悠仁さまは皇位継承順位2位となられた)ご成婚の当初、「皇統には直接関係しない」あるいは、「弟宮だから」と見られたご一家は、「皇統に関与する宮家」へと、大きく変貌を遂げられたのだった。初めての記者会見で、恥ずかしげに言葉を選んだ乙女は、3人の親王、内親王の母となられた。

もしかして「皇室典範を改正しないと紀子妃が産んだ悠仁親王が天皇になってしまう。そうなっては大変だ。」と言ってません?言っているでしょう!

皇統には天皇の母は関与しません。
重要なのは悠仁親王にに貴種は伝わっているが、愛子内親王には貴種は伝えられていない。ということです。

文春オンライン 雅子皇后をアゲ、紀子妃殿下をサゲる。(2)

2021-04-14 19:39:08 | 紀子さま
「絶対に子どもを叱ったり怒鳴ったりはしない」秋篠宮紀子さまの父が語った“子育て”のモットー
『日本の血脈』より #2
ご成婚の当初、「東宮が男子に恵まれなかった場合をのぞけば、皇統には直接関係しない弟宮」と見られることも多かった秋篠宮家。しかし、悠仁さまのご誕生や、秋篠宮さまが皇嗣となられたことで、「皇統に関与する宮家」へと変貌を遂げられた。
 ここでは、ノンフィクション作家石井妙子氏の著書『日本の血脈』(文春文庫)を引用。運命に押しつぶされることなく、時代の変化の中で、自分の処し方を見つけていった紀子さまのルーツを紹介する。(全3回の2回目/1回目、3回目を読む)
(※年齢・肩書などは取材当時のまま)

<「皇統に関与する宮家」へ変貌した。>嫌みで失礼な書き方ですね。
で、続く記事に書いてあることはやっぱり失礼です。
#2では紀子妃殿下の祖母に言及している。

紀子妃殿下を語るとき、川嶋家の先祖より、祖母紀子の出自が語られることが殆どだと言ってもよくくらいですが、そのくらい祖母紀子さんは素晴らしいかただったようです。

紀子妃殿下の父方の祖母と祖母の父
 統計学に身を捧げ、最終的には奉職を投げ打ってしまった川嶋孝彦と結婚し、夫を支え続けたのが妻の紀子だった。紀子妃の名前の由来にもなった祖母である。
 この祖母、紀子には会津士族の血が流れていた。そしてまた、自分に流れる会津の血を非常に強く意識し、「会津人の気概」を貫いた女性であったという。 
紀子の父、池上四郎は会津藩士の子として生まれ、親兄弟とともに戊辰戦争を11歳で経験している。鳥羽伏見の戦いでは兄・友次郎が戦死し、続く越後小千谷の戦いでは井深宅右衛門が率いる遊撃隊に加わった父が負傷した。
 会津若松城の決戦では戦死した兄や負傷した父に代わって、兄の三郎とともに四郎が籠城して官軍を迎え撃った。 

この時、会津若松城に攻め込んだ官軍の中には佐賀藩士(多久領)であった美智子皇后の母方の曽祖父もいた。なお、雅子妃の先祖も佐賀藩士である。 

→因縁話か?

 兄弟はこの父の言葉に従い、斗南から出ることを決意する。それは見方を変えれば、貧苦と困難の中で、力を合せて土地を開墾しようとする仲間たちを裏切り、見捨てることでもあった。だが、老いた父は、「それは裏切りではない。新しい世の中で、会津藩士として学び鍛え上げて来た自分の能力を発揮することこそが侍の道である」と説き、自分は極寒の地に残るから、お前たちはこの地を離れよと、その背中を押したのだった。老いた両親や、仲間のことを思えば後ろ髪を引かれたことであろうが、ふたりの兄弟は東京を目指すと、身を削るような努力を重ねて、それぞれに道を切り開いていった。

兄の三郎は司法の道に進んだ。後には函館控訴院検事長となっている。弟の四郎は警察畑を歩んだ。警視庁に採用され20歳で巡査となり、その後、警部として石川や富山、東京、京都と目まぐるしく赴任し、大阪府警察部長となった。この時、警察行政の手腕が高く評価されて、大正2年に大阪市長となる。

→戦前の市長は今のように住民の選挙で選出されたのではない。
市会からの推薦者の内から内務大臣が選任するか、市会が市の職員か名望家の中から選んだ。
司法畑の兄、警察畑の弟助け合いながら出世して行ったのでしょうね。

その在任期間は3期10年と長く名声が高かった。財政改革や、都市計画に係わり、大都市大阪の基礎を築き「大大阪建設の父」と評されている。福祉という概念のまだなかった時代に、さまざまな福祉政策を打ち立てた。会津藩士として味わった貧苦の苦しみから、常に飢えの苦しみにある人々へと心を寄せたのだろう。
 末娘にあたる紀子は、父の思い出として、このようなエピソードを書き綴っている。
「父は平素御座敷にて一人で食事をなし、母や子供がお給仕をするのが常であつたが、日曜日に郊外の茨木の休み家へ参つた時だけは、私共も共に食事をしました。その折私が『田舎の子供が……』と話した時『土地の子供は田舎の子供と云はれては、いゝ気持がしないものだ』と話したので、父が此の村の子供の気持まで察して一言々々気をつけて話す人だといふ事を深く感じ、この一言は私の只今の生活の上にも大きい指針となつてゐる」(川島紀子「亡き父の思出」)

→池上四郎氏は並々ならぬ苦労の中で他者に対する洞察力を深められたようですね。
四郎氏の見識が紀子妃殿下にも伝わり、そして悠仁親王にも伝わると良いのですが。
眞子内親王、佳子内親王には全く伝わっていないようです。

敵側についた裏切り者と四郎を見る人もあったかもしれない。だが、四郎は「新時代の中で力を尽くすことこそが会津藩士の道だ」という父の言葉を噛みしめて働いた。利権を求めず、休息することさえ惜しんで働き続けた。大阪市長を務めた後には、肝胆相照らす仲であった田中義一が総理大臣となったために、朝鮮総督府政務総監に任命されて日本を後にした。しかし、過労が祟ったのだろう。在任中の昭和4年、東京で倒れてその生涯を唐突に終えた。休むことなく走り続けた、71年の生涯であった。
 四郎が家族や部下を叱りつけたことは一度もなかった。娘の紀子が語るように村の子どもたちにも細心の注意を払う、配慮の人であった。それは逆臣と言われ、流浪を余儀なくされる辛苦の中で得た視点、つまりは敗者の視点であったろうか。
 この四郎を陰で支えたのが、妻の浜であった。実は四郎と浜は、ともに再婚同士であり、その間を取り持ったのは西郷隆盛の弟、従道であったと、今回の川嶋家をめぐる取材の中でわかった。

→敗者の視点、あまり聞いたことがないが、要注意の言葉ですね。
 社会的に恵まれない場所に居るものを敗者と決めつけ、その意見を軽んずる危うさを孕む言葉ですが、小室も父を失った時点で世俗的には敗者になったわけですから、小室と四郎氏を並列で語り出しかねない危うさもあります。

この浜の父、小菅智淵も日本の近代史に名を残す人物である。陸軍参謀本部の初代陸地測量部長を務め、また日本全国の測量を推進して5万分1地図を作製する基礎を築いたことで知られている。

幕臣でありながら新政府軍に命を助けられ、その新政府に仕える。小菅の心には、池上四郎と同じように深い葛藤があったことだろう。小菅は池上四郎がそうであったように仕事に没頭し職務に命を削った。日本全国を歩いて測量し、正確な地図を作りあげることに邁進する。明治21年、基線測量の旅に出た途上で、チフスにかかり死去した。享年56。池上も小菅も、仕事中に亡くなっている。逆賊から新政府に徴用され、その中で適応し、出世を果たしていった者の背負わされた苦悩を感じる。

紀子の娘である佐藤豊子が手記でこう語っている。
「大阪市長を10年つとめた祖父池上四郎と、近代的測量術によって、5万分の1の地図を作った曾祖父の小菅智淵については、折々聞かされたものです。
 祖父や曾祖父を見習って人のために骨惜しみせずに働くように、そして礼儀正しく真っすぐな道を歩むようにと、母は子どもたちに言い聞かせていました」(佐藤豊子「祖父母、父母、こどもたち」『婦人之友』)
 紀子妃もまた幾度となく、祖母・紀子の口からこの話を聞いたことであろう。

→紀子妃もまた同じように眞子内親王、佳子内親王に繰り返し話したが、現代っ子で遊びたい盛りの御姉妹にはピンと来なかったかもです。
偉人であった御先祖を誇りに思い、自分もまたそのように生きたいと思う子供もいれば、御先祖を誇りに思って周囲を見下す子供もいれば、「そんな昔の話私には関係無い。」と思う子供もいる。
御姉妹は「私には関係無いわ。」というタイプ?加えて苦労した母方の御先祖より身位の高い内親王ですものね。

紀子妃殿下の父
紀子は昭和15年、紀子妃の父となる辰彦を産んだ。辰彦は疳の虫の強い子どもだった。川嶋家を知る人が振り返って語る。
「辰彦さんは今からは想像もつきませんが、道端に転がって泣いては、手足をバタつかせて我を通そうとするような子どもだったそうです。そんな時でも、紀子さんは何もいわず、ただ黙って抱きしめた。決して、叩いたり怒ったりしない。子ども本人が自分で行いを改めるまで待ち続ける。そういう辛抱強い方だったそうです
 紀子も孝彦もともに穏やかな性格で、決して子どもを叱ったり、手をあげたりすることはなかったという。

「紀子さんはたびたび『負けることはいいことなのよ。負けることでわかることがあるのよ』と柔らかい口調で辰彦さんに諭したそうです。喧嘩でも何でも、決して『相手を負かしてきなさい』とは言わなかった」
 敗者になることを勧める母。そこには逆臣とされた会津藩士の父、幕臣であった祖父の影響もあるのだろうか。
 二・二六事件の叛乱兵を前にしても動じず、その一方で敗者の視点を持つことの大切さを説いた紀子は、辰彦の人格形成に大きな影響を与えた。辰彦は母の自分に対する教育に感謝し、自分の子育てにおいても、それを踏襲したいと考えたという。ある人は辰彦から、「僕も絶対に子どもを叱ったり怒鳴ったりはしない」と聞いたと語る。

辰彦が17歳の時、父の孝彦が亡くなった。辰彦はその後、戸山高校から東京大学へ進学するが、父が法学部だったため、父と同じ学部は避けたいと思い、経済学を選んだという。だが、専門としたのは計量経済学で、気づかぬうちに父が愛した統計の要素を含む学問を選択していた。考えてみれば、父は統計学を専門とし、母・紀子の祖父である小菅智淵は測量の第一人者である。辰彦はその血を濃く受け継いだのかもしれない。 

紀子妃殿下を語るとき、祖母紀子さんとその御先祖の話ばかりが出ることに納得です。
祖母紀子さんの御先祖は有名人ばかりです。とはいえ、万人が知っているほどでも無い。紀子さまが妃殿下にならなければ知らない人のほうが多かったのでは?

続く

文春オンライン 雅子皇后をアゲ、紀子妃殿下をサゲる。

2021-04-14 17:21:47 | 紀子さま
小室文書が公表されて以、国民の小室に対する嫌悪感は決定的なものになったが、秋篠宮殿下妃殿下へ不信感を持つ者も増えて来ているようです。
秋篠宮殿下に不信を持つ者の中には、悠仁親王にまで不信感を持つ者もいる。
愛子天皇擁立を推し進める一派はこの流れを利用して国民の間に「愛子天皇待望」のシュプレヒコールを一気に沸き起こしたいようだ。

文春オンラインはその流れにのるかのように紀子妃殿下と小室には共通点があると示唆するような記事を乗せている。
男系男子悠仁親王に希望を繋ぐ私のようなものには、眉を吊り上げたくなるような記事ですが。

「紀子さまスマイル」とも呼ばれるはにかんだ笑顔に、語尾には「ございます」をつけるやさしい言葉遣い。「3LDKのプリンセス」として国民の熱烈な歓迎を受け、秋篠宮妃となった紀子さまは、それまでいったいどのような環境で生まれ育ってきたのだろう。
 ここでは、ノンフィクション作家石井妙子氏の著書『日本の血脈』(文春文庫)を引用。秋篠宮紀子さまの“ルーツ”について紹介する。(全3回の1回目/2回目、3回目を読む)
(※年齢・肩書などは取材当時のまま)
書き出しは優しげですが、普通にルーツと書くところをわざわざ”ルーツ”と囲ったのは記者の皮肉でしょう。
例えば、馬鹿にしている相手の意見を「〇〇さんの”御高説”」と表記するようなものです。

“昭和天皇の喪中”、“礼宮は学生で留学中”…「異例中の異例」だった秋篠宮さまと紀子さまの“ご婚約発表” 
石井 妙子『日本の血脈』より#1  2021/04/13 

「絶対に子どもを叱ったり怒鳴ったりはしない」秋篠宮紀子さまの父が語った“子育て”のモットー
石井妙子『日本の血脈』より #2

「雅子妃が輝きを失っていかれたのとは対照的」 紀子さまはなぜ皇室で“自己実現”を果たされたのか
『日本の血脈』より #3

タイトルを並べただけで、読者をどの方向へ導こうとしているかが見えるような気がする。
以下、私が「小室を連想させる。」と書いた部分は、愛子天皇推進派が紀子妃殿下を貶める材料にしそうなところです。
しかし、女系天皇は本来の天皇では無いと開眼してしまった私は、これらの部分をもって秋篠宮殿下や悠仁殿下が天皇になるべきではないと言う者がいたら、大いに反論したいし、できると思っている。

当然、川嶋の先祖も紀子妃殿下も小室と同類ではない。

#1は川嶋辰彦氏のルーツを書く。
川嶋家
川嶋家の由緒については、これまで「和歌山市内に広大な土地を有した庄屋」あるいは、「有田屋という屋号の海運業」とマスコミに報じられてきた。文献などで、それを確認することはできないが、川嶋家の関係者によると、以下のように伝えられているという。
「川嶋家はもともと有田屋の屋号で蔵米船を持ち、海を中心とした商いをしていたのだそうです。江戸時代の半ば、もしくは後半から和歌山城下に居を構えて海運業で隆盛した。ところがある時、海難に遭って船が沈み、人も亡くなった。それを境に当時の当主が、海の商売から丘へと切り替えて、次第に財産を田畑へと移していったそうです。それで和歌山に農地や山林をたくさん所有するようになった。でも、終戦後の農地解放で全てを失ってしまい、今では、和歌山には先祖の墓の他に、何も残っていないのだそうです」

紀子妃の曾祖父
 紀子妃の曽祖父は、この川嶋家に明治の初期、婿養子として迎えられたという。当主の川嶋庄右衛門には女児しかおらず、その長女の志まと結婚したのが東京高等師範学校(現・筑波大学)を卒業したばかりの松浦力松だった。松浦力松は川嶋家に入り、名を川嶋庄一郎と改める。この庄一郎が紀子妃の曾祖父にあたる。 

彼は海に面して開けた和歌山市の出身ではなく、もともとは高野山に近い内陸の有田郡、当時は安諦村と言われた山深い村里に生まれ育った。 

この村に川嶋庄一郎こと松浦力松が生まれたのは、明治3年のことだった。貧しい農家の三男坊で5歳の時に父が亡くなり、生活はさらに困窮したという。
小室圭を連想させる。

だが、時代は明治の変革期、廃藩置県や地租改正が行われる一方で学制もまた整えられていった。義務教育制度が促され、この小さな村にも明治9年に小学校が出来た。ちょうど力松は6歳だった。それが、山村の貧しい農家に生まれた力松の生涯を大きく変える。力松の誕生がもう少し早ければ、彼がこの村を出て立身出世を果たすこともなかったであろう。 
→巧まずして這い上がるチャンスを得た幸運な男。これも小室を連想させる。

 当時は教師などいるわけもなく、村の住職がにわか教員となって、子どもたちの教育にあたったという。力松の聡明さは抜きんでていたようで『安諦村誌』(大正3年)には「天資英明」と讃えられている。力松は、この後、学業に励むことで人生を切り開いていく。
 村の小学校を卒業すると、詳しい経緯は不明だが和歌山尋常師範学校に進んだ。当時の師範学校は授業料が無料であった。そのため力松でも進学することができたのだろう。卒業後は同学校の訓導(現在の教諭)となる。だが、力松はさらに明治24年、東京高等師範学校に入学する。卒業後に見込まれて川嶋庄右衛門の娘、志まと結婚し婿養子となるのが明治27年のことだ。
 以降は、教育者として京都府尋常師範学校を振り出しに、富山や滋賀で教鞭を取った。明治34年には学習院教授となり、初等学科長も兼務している。後に孫の辰彦も学習院大学教授となり、また曾孫の紀子妃がこの学校に学ぶことになるのは奇縁であろう。

→貧しく生まれ何も持たない男が勉学だけを頼りに這い上がり上の階級の娘と結婚することによって自らも上の階級に潜り込んだ。これも小室を連想させる。しかし、言わせていただけば、雅子皇后の父君も似たような経緯で小和田家に潜り込んでいますから。

庄一郎は学習院を退官すると、再び佐賀県立師範学校長など日本各地の教育機関に赴任し、最終的には大正9年、故郷、和歌山市の視学(現在の教育長にあたる)となった。生まれ故郷において教育行政のトップに立ち、その後は主に和歌山市内で暮らして、昭和22年に没している。
 死後に、故人の強い希望として和歌山市内にある川嶋家の菩提寺の他に、安諦村にある生家の裏山にも墓を建てた。

庄一郎は明治の時代に生まれ、まさに学問によって貧しさの中から抜け出し、立身出世を果たした人物だった。養子にも行ったが、終生、自分の生まれ育った、貧しい山里を忘れることはなかったのだろう。貧農の三男として生まれ、平等に教育を受けるという新時代の学制に接し、学問によって自分の道を切り開いた。教育こそが全ての根本という思いが強かったのだろう。生まれ故郷の安諦高等小学校には、たびたび寄付をしており、昭和11年に来校した際には土産として児童全員に鉛筆を贈っている。

紀子妃の祖父
 貧しさの中から身を起こし、教育者として一生を終えた川嶋庄一郎の長男として明治30年に生まれたのが川嶋孝彦である。紀子妃にとっては父方の祖父にあたる。

孝彦は東京帝国大学法学部を大正12年に卒業、内務省に入省した。


 その後は、内閣官房総務課などを経て、内閣統計局長を務めている。在任期間は8年に及び、これは歴代局長の中でも大変に長い記録である。
「官吏と言うよりは学究肌の人だった」と言われるが、確かに彼は一官僚として統計学を勉強する中で、次第に深くこれに傾倒し、その中に人生の喜びまで見出していったようである。彼は随筆の中でこう語っている。
「私は統計の仕事にたづさはる様になって、非常に仕合せだと思って居る。統計の仕事には余徳がある。(中略)統計家は高邁な識見と明敏果断な判断力によって核心をつかまなくてはならない。一種の飛躍をやらなければならない。……だから、統計の仕事を一心不乱に努めて行くと知らず知らずに自分の能力が之に適応する様になる。細心にして大胆、・大きく撞けば大きく鳴り、小さく撞けば小さく鳴る。・即ち、西郷南洲の様な性格が、仕事をやりながら、ひとりで養はれて行く。何と大きな統計の余徳であるまいか」(島村史郎「川島孝彦と統計」『統計』)

内務省のエリートであったが、その業務の中で接した統計学に、自分の生きがいを見出していった孝彦の姿が浮かび上がってくる

→えええ?孝彦さん大丈夫かなあ。と思ったら、案の定・・・。

だが、同時に忘れてならないことは、孝彦が統計局長として従事していた期間は、まさに日本が軍国化を強め、大東亜共栄圏の確立のために統制経済を進めていく時代であったという点である。盧溝橋事件が勃発し、企画院が創設されたのが昭和12年。翌年には国家総動員法が制定された。それらを策定するために求められたものこそが、正確な統計データだったのだ。

 孝彦は世界の統計制度をいち早く研究していた。そのため日本の統計制度の欠点と問題点に誰よりも早く気付き、大東亜共栄圏を確立するためにも、あるいは高度国防のためにも、日本の統計制度を見直し、改革を至急進めなければ大変なことになると孝彦は周囲に説いた。

 危機感を募らせた孝彦は、近衛首相や東条首相ら内閣上層部に、たびたび意見書を提出している。だが、軍部や政界の上層部はいかに孝彦が工夫して説明をしても、統計学を重視しようとはしなかった。孝彦の意見は無視され続けた。統計を無視した結果が、その後、太平洋の戦場で、多くの餓死者を出した原因のひとつでもあろう。

昭和20年、終戦の日を迎えてから、内閣統計局もGHQの支配下に置かれた。そんな戦後の混乱期においても、食糧問題の解決などで真っ先に必要とされたのは、正確な人口調査や、それに基づく食糧の試算、すなわち統計であった。
 この時、孝彦は戦時下に提出した「統計制度改革案」を内閣書記官長に改めて提出している。生前の孝彦を知る人が語る。
「しかし、戦争中と同様、それが受け入れられることはなかったそうです。アメリカの統計学は分権主義を取っており、一方、孝彦が主張したのはソ連型の集権主義といわれるものだった。GHQは当然、これを受け入れようとはしなかったのです」
 GHQだけでなく大蔵省や厚生省、農林省もこぞって孝彦の改革案に反対した。孝彦を知る人が続ける。
「これに失望した孝彦は辞表を書き、昭和22年1月、内閣統計局長を辞してしまいました。妻の紀子さんには何も相談せず、辞表を提出したといいます」
 統計学に対する周囲の無理解に、強い怒りを覚えたのだろう。エリート官僚の立場を自ら捨てた。和歌山に広大な田畑を持っていたが、折しも農地改革によってその資産も失ってしまい、厳しい生活を余儀なくされた。その後は参議院常任委員会専門委員、国会図書館専門調査員などを歴任し、孝彦は昭和33年、61歳で没する。なお今日、孝彦の統計改革案は再評価される方向にあるという。

→と、いうことです。孝彦さんのような学究肌で己の信ずるところを真っ直ぐに主張するひとは、組織の中では重きを置かれないことが多い。
孝彦さんはそういう自分の生き方を南州公に重ねていたのでしょうが…。

己の信ずるところを真っ直ぐに、という傾向は確かに紀子妃殿下にも小室にもあるが、真っ直ぐに向かっている方向がそれぞれ違うんだなー。

<続く>