憂国の花束

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祖国日本よ! 誇り高くあれ。

文春オンライン 雅子皇后をアゲ、紀子妃殿下をサゲる。

2021-04-14 17:21:47 | 紀子さま
小室文書が公表されて以、国民の小室に対する嫌悪感は決定的なものになったが、秋篠宮殿下妃殿下へ不信感を持つ者も増えて来ているようです。
秋篠宮殿下に不信を持つ者の中には、悠仁親王にまで不信感を持つ者もいる。
愛子天皇擁立を推し進める一派はこの流れを利用して国民の間に「愛子天皇待望」のシュプレヒコールを一気に沸き起こしたいようだ。

文春オンラインはその流れにのるかのように紀子妃殿下と小室には共通点があると示唆するような記事を乗せている。
男系男子悠仁親王に希望を繋ぐ私のようなものには、眉を吊り上げたくなるような記事ですが。

「紀子さまスマイル」とも呼ばれるはにかんだ笑顔に、語尾には「ございます」をつけるやさしい言葉遣い。「3LDKのプリンセス」として国民の熱烈な歓迎を受け、秋篠宮妃となった紀子さまは、それまでいったいどのような環境で生まれ育ってきたのだろう。
 ここでは、ノンフィクション作家石井妙子氏の著書『日本の血脈』(文春文庫)を引用。秋篠宮紀子さまの“ルーツ”について紹介する。(全3回の1回目/2回目、3回目を読む)
(※年齢・肩書などは取材当時のまま)
書き出しは優しげですが、普通にルーツと書くところをわざわざ”ルーツ”と囲ったのは記者の皮肉でしょう。
例えば、馬鹿にしている相手の意見を「〇〇さんの”御高説”」と表記するようなものです。

“昭和天皇の喪中”、“礼宮は学生で留学中”…「異例中の異例」だった秋篠宮さまと紀子さまの“ご婚約発表” 
石井 妙子『日本の血脈』より#1  2021/04/13 

「絶対に子どもを叱ったり怒鳴ったりはしない」秋篠宮紀子さまの父が語った“子育て”のモットー
石井妙子『日本の血脈』より #2

「雅子妃が輝きを失っていかれたのとは対照的」 紀子さまはなぜ皇室で“自己実現”を果たされたのか
『日本の血脈』より #3

タイトルを並べただけで、読者をどの方向へ導こうとしているかが見えるような気がする。
以下、私が「小室を連想させる。」と書いた部分は、愛子天皇推進派が紀子妃殿下を貶める材料にしそうなところです。
しかし、女系天皇は本来の天皇では無いと開眼してしまった私は、これらの部分をもって秋篠宮殿下や悠仁殿下が天皇になるべきではないと言う者がいたら、大いに反論したいし、できると思っている。

当然、川嶋の先祖も紀子妃殿下も小室と同類ではない。

#1は川嶋辰彦氏のルーツを書く。
川嶋家
川嶋家の由緒については、これまで「和歌山市内に広大な土地を有した庄屋」あるいは、「有田屋という屋号の海運業」とマスコミに報じられてきた。文献などで、それを確認することはできないが、川嶋家の関係者によると、以下のように伝えられているという。
「川嶋家はもともと有田屋の屋号で蔵米船を持ち、海を中心とした商いをしていたのだそうです。江戸時代の半ば、もしくは後半から和歌山城下に居を構えて海運業で隆盛した。ところがある時、海難に遭って船が沈み、人も亡くなった。それを境に当時の当主が、海の商売から丘へと切り替えて、次第に財産を田畑へと移していったそうです。それで和歌山に農地や山林をたくさん所有するようになった。でも、終戦後の農地解放で全てを失ってしまい、今では、和歌山には先祖の墓の他に、何も残っていないのだそうです」

紀子妃の曾祖父
 紀子妃の曽祖父は、この川嶋家に明治の初期、婿養子として迎えられたという。当主の川嶋庄右衛門には女児しかおらず、その長女の志まと結婚したのが東京高等師範学校(現・筑波大学)を卒業したばかりの松浦力松だった。松浦力松は川嶋家に入り、名を川嶋庄一郎と改める。この庄一郎が紀子妃の曾祖父にあたる。 

彼は海に面して開けた和歌山市の出身ではなく、もともとは高野山に近い内陸の有田郡、当時は安諦村と言われた山深い村里に生まれ育った。 

この村に川嶋庄一郎こと松浦力松が生まれたのは、明治3年のことだった。貧しい農家の三男坊で5歳の時に父が亡くなり、生活はさらに困窮したという。
小室圭を連想させる。

だが、時代は明治の変革期、廃藩置県や地租改正が行われる一方で学制もまた整えられていった。義務教育制度が促され、この小さな村にも明治9年に小学校が出来た。ちょうど力松は6歳だった。それが、山村の貧しい農家に生まれた力松の生涯を大きく変える。力松の誕生がもう少し早ければ、彼がこの村を出て立身出世を果たすこともなかったであろう。 
→巧まずして這い上がるチャンスを得た幸運な男。これも小室を連想させる。

 当時は教師などいるわけもなく、村の住職がにわか教員となって、子どもたちの教育にあたったという。力松の聡明さは抜きんでていたようで『安諦村誌』(大正3年)には「天資英明」と讃えられている。力松は、この後、学業に励むことで人生を切り開いていく。
 村の小学校を卒業すると、詳しい経緯は不明だが和歌山尋常師範学校に進んだ。当時の師範学校は授業料が無料であった。そのため力松でも進学することができたのだろう。卒業後は同学校の訓導(現在の教諭)となる。だが、力松はさらに明治24年、東京高等師範学校に入学する。卒業後に見込まれて川嶋庄右衛門の娘、志まと結婚し婿養子となるのが明治27年のことだ。
 以降は、教育者として京都府尋常師範学校を振り出しに、富山や滋賀で教鞭を取った。明治34年には学習院教授となり、初等学科長も兼務している。後に孫の辰彦も学習院大学教授となり、また曾孫の紀子妃がこの学校に学ぶことになるのは奇縁であろう。

→貧しく生まれ何も持たない男が勉学だけを頼りに這い上がり上の階級の娘と結婚することによって自らも上の階級に潜り込んだ。これも小室を連想させる。しかし、言わせていただけば、雅子皇后の父君も似たような経緯で小和田家に潜り込んでいますから。

庄一郎は学習院を退官すると、再び佐賀県立師範学校長など日本各地の教育機関に赴任し、最終的には大正9年、故郷、和歌山市の視学(現在の教育長にあたる)となった。生まれ故郷において教育行政のトップに立ち、その後は主に和歌山市内で暮らして、昭和22年に没している。
 死後に、故人の強い希望として和歌山市内にある川嶋家の菩提寺の他に、安諦村にある生家の裏山にも墓を建てた。

庄一郎は明治の時代に生まれ、まさに学問によって貧しさの中から抜け出し、立身出世を果たした人物だった。養子にも行ったが、終生、自分の生まれ育った、貧しい山里を忘れることはなかったのだろう。貧農の三男として生まれ、平等に教育を受けるという新時代の学制に接し、学問によって自分の道を切り開いた。教育こそが全ての根本という思いが強かったのだろう。生まれ故郷の安諦高等小学校には、たびたび寄付をしており、昭和11年に来校した際には土産として児童全員に鉛筆を贈っている。

紀子妃の祖父
 貧しさの中から身を起こし、教育者として一生を終えた川嶋庄一郎の長男として明治30年に生まれたのが川嶋孝彦である。紀子妃にとっては父方の祖父にあたる。

孝彦は東京帝国大学法学部を大正12年に卒業、内務省に入省した。


 その後は、内閣官房総務課などを経て、内閣統計局長を務めている。在任期間は8年に及び、これは歴代局長の中でも大変に長い記録である。
「官吏と言うよりは学究肌の人だった」と言われるが、確かに彼は一官僚として統計学を勉強する中で、次第に深くこれに傾倒し、その中に人生の喜びまで見出していったようである。彼は随筆の中でこう語っている。
「私は統計の仕事にたづさはる様になって、非常に仕合せだと思って居る。統計の仕事には余徳がある。(中略)統計家は高邁な識見と明敏果断な判断力によって核心をつかまなくてはならない。一種の飛躍をやらなければならない。……だから、統計の仕事を一心不乱に努めて行くと知らず知らずに自分の能力が之に適応する様になる。細心にして大胆、・大きく撞けば大きく鳴り、小さく撞けば小さく鳴る。・即ち、西郷南洲の様な性格が、仕事をやりながら、ひとりで養はれて行く。何と大きな統計の余徳であるまいか」(島村史郎「川島孝彦と統計」『統計』)

内務省のエリートであったが、その業務の中で接した統計学に、自分の生きがいを見出していった孝彦の姿が浮かび上がってくる

→えええ?孝彦さん大丈夫かなあ。と思ったら、案の定・・・。

だが、同時に忘れてならないことは、孝彦が統計局長として従事していた期間は、まさに日本が軍国化を強め、大東亜共栄圏の確立のために統制経済を進めていく時代であったという点である。盧溝橋事件が勃発し、企画院が創設されたのが昭和12年。翌年には国家総動員法が制定された。それらを策定するために求められたものこそが、正確な統計データだったのだ。

 孝彦は世界の統計制度をいち早く研究していた。そのため日本の統計制度の欠点と問題点に誰よりも早く気付き、大東亜共栄圏を確立するためにも、あるいは高度国防のためにも、日本の統計制度を見直し、改革を至急進めなければ大変なことになると孝彦は周囲に説いた。

 危機感を募らせた孝彦は、近衛首相や東条首相ら内閣上層部に、たびたび意見書を提出している。だが、軍部や政界の上層部はいかに孝彦が工夫して説明をしても、統計学を重視しようとはしなかった。孝彦の意見は無視され続けた。統計を無視した結果が、その後、太平洋の戦場で、多くの餓死者を出した原因のひとつでもあろう。

昭和20年、終戦の日を迎えてから、内閣統計局もGHQの支配下に置かれた。そんな戦後の混乱期においても、食糧問題の解決などで真っ先に必要とされたのは、正確な人口調査や、それに基づく食糧の試算、すなわち統計であった。
 この時、孝彦は戦時下に提出した「統計制度改革案」を内閣書記官長に改めて提出している。生前の孝彦を知る人が語る。
「しかし、戦争中と同様、それが受け入れられることはなかったそうです。アメリカの統計学は分権主義を取っており、一方、孝彦が主張したのはソ連型の集権主義といわれるものだった。GHQは当然、これを受け入れようとはしなかったのです」
 GHQだけでなく大蔵省や厚生省、農林省もこぞって孝彦の改革案に反対した。孝彦を知る人が続ける。
「これに失望した孝彦は辞表を書き、昭和22年1月、内閣統計局長を辞してしまいました。妻の紀子さんには何も相談せず、辞表を提出したといいます」
 統計学に対する周囲の無理解に、強い怒りを覚えたのだろう。エリート官僚の立場を自ら捨てた。和歌山に広大な田畑を持っていたが、折しも農地改革によってその資産も失ってしまい、厳しい生活を余儀なくされた。その後は参議院常任委員会専門委員、国会図書館専門調査員などを歴任し、孝彦は昭和33年、61歳で没する。なお今日、孝彦の統計改革案は再評価される方向にあるという。

→と、いうことです。孝彦さんのような学究肌で己の信ずるところを真っ直ぐに主張するひとは、組織の中では重きを置かれないことが多い。
孝彦さんはそういう自分の生き方を南州公に重ねていたのでしょうが…。

己の信ずるところを真っ直ぐに、という傾向は確かに紀子妃殿下にも小室にもあるが、真っ直ぐに向かっている方向がそれぞれ違うんだなー。

<続く>


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