goo blog サービス終了のお知らせ 

憂国の花束

右でも左でも無く、上でも下でも無く。

祖国日本よ! 誇り高くあれ。

文春オンライン 雅子皇后をアゲ、紀子妃殿下をサゲる。(2)

2021-04-14 19:39:08 | 紀子さま
「絶対に子どもを叱ったり怒鳴ったりはしない」秋篠宮紀子さまの父が語った“子育て”のモットー
『日本の血脈』より #2
ご成婚の当初、「東宮が男子に恵まれなかった場合をのぞけば、皇統には直接関係しない弟宮」と見られることも多かった秋篠宮家。しかし、悠仁さまのご誕生や、秋篠宮さまが皇嗣となられたことで、「皇統に関与する宮家」へと変貌を遂げられた。
 ここでは、ノンフィクション作家石井妙子氏の著書『日本の血脈』(文春文庫)を引用。運命に押しつぶされることなく、時代の変化の中で、自分の処し方を見つけていった紀子さまのルーツを紹介する。(全3回の2回目/1回目、3回目を読む)
(※年齢・肩書などは取材当時のまま)

<「皇統に関与する宮家」へ変貌した。>嫌みで失礼な書き方ですね。
で、続く記事に書いてあることはやっぱり失礼です。
#2では紀子妃殿下の祖母に言及している。

紀子妃殿下を語るとき、川嶋家の先祖より、祖母紀子の出自が語られることが殆どだと言ってもよくくらいですが、そのくらい祖母紀子さんは素晴らしいかただったようです。

紀子妃殿下の父方の祖母と祖母の父
 統計学に身を捧げ、最終的には奉職を投げ打ってしまった川嶋孝彦と結婚し、夫を支え続けたのが妻の紀子だった。紀子妃の名前の由来にもなった祖母である。
 この祖母、紀子には会津士族の血が流れていた。そしてまた、自分に流れる会津の血を非常に強く意識し、「会津人の気概」を貫いた女性であったという。 
紀子の父、池上四郎は会津藩士の子として生まれ、親兄弟とともに戊辰戦争を11歳で経験している。鳥羽伏見の戦いでは兄・友次郎が戦死し、続く越後小千谷の戦いでは井深宅右衛門が率いる遊撃隊に加わった父が負傷した。
 会津若松城の決戦では戦死した兄や負傷した父に代わって、兄の三郎とともに四郎が籠城して官軍を迎え撃った。 

この時、会津若松城に攻め込んだ官軍の中には佐賀藩士(多久領)であった美智子皇后の母方の曽祖父もいた。なお、雅子妃の先祖も佐賀藩士である。 

→因縁話か?

 兄弟はこの父の言葉に従い、斗南から出ることを決意する。それは見方を変えれば、貧苦と困難の中で、力を合せて土地を開墾しようとする仲間たちを裏切り、見捨てることでもあった。だが、老いた父は、「それは裏切りではない。新しい世の中で、会津藩士として学び鍛え上げて来た自分の能力を発揮することこそが侍の道である」と説き、自分は極寒の地に残るから、お前たちはこの地を離れよと、その背中を押したのだった。老いた両親や、仲間のことを思えば後ろ髪を引かれたことであろうが、ふたりの兄弟は東京を目指すと、身を削るような努力を重ねて、それぞれに道を切り開いていった。

兄の三郎は司法の道に進んだ。後には函館控訴院検事長となっている。弟の四郎は警察畑を歩んだ。警視庁に採用され20歳で巡査となり、その後、警部として石川や富山、東京、京都と目まぐるしく赴任し、大阪府警察部長となった。この時、警察行政の手腕が高く評価されて、大正2年に大阪市長となる。

→戦前の市長は今のように住民の選挙で選出されたのではない。
市会からの推薦者の内から内務大臣が選任するか、市会が市の職員か名望家の中から選んだ。
司法畑の兄、警察畑の弟助け合いながら出世して行ったのでしょうね。

その在任期間は3期10年と長く名声が高かった。財政改革や、都市計画に係わり、大都市大阪の基礎を築き「大大阪建設の父」と評されている。福祉という概念のまだなかった時代に、さまざまな福祉政策を打ち立てた。会津藩士として味わった貧苦の苦しみから、常に飢えの苦しみにある人々へと心を寄せたのだろう。
 末娘にあたる紀子は、父の思い出として、このようなエピソードを書き綴っている。
「父は平素御座敷にて一人で食事をなし、母や子供がお給仕をするのが常であつたが、日曜日に郊外の茨木の休み家へ参つた時だけは、私共も共に食事をしました。その折私が『田舎の子供が……』と話した時『土地の子供は田舎の子供と云はれては、いゝ気持がしないものだ』と話したので、父が此の村の子供の気持まで察して一言々々気をつけて話す人だといふ事を深く感じ、この一言は私の只今の生活の上にも大きい指針となつてゐる」(川島紀子「亡き父の思出」)

→池上四郎氏は並々ならぬ苦労の中で他者に対する洞察力を深められたようですね。
四郎氏の見識が紀子妃殿下にも伝わり、そして悠仁親王にも伝わると良いのですが。
眞子内親王、佳子内親王には全く伝わっていないようです。

敵側についた裏切り者と四郎を見る人もあったかもしれない。だが、四郎は「新時代の中で力を尽くすことこそが会津藩士の道だ」という父の言葉を噛みしめて働いた。利権を求めず、休息することさえ惜しんで働き続けた。大阪市長を務めた後には、肝胆相照らす仲であった田中義一が総理大臣となったために、朝鮮総督府政務総監に任命されて日本を後にした。しかし、過労が祟ったのだろう。在任中の昭和4年、東京で倒れてその生涯を唐突に終えた。休むことなく走り続けた、71年の生涯であった。
 四郎が家族や部下を叱りつけたことは一度もなかった。娘の紀子が語るように村の子どもたちにも細心の注意を払う、配慮の人であった。それは逆臣と言われ、流浪を余儀なくされる辛苦の中で得た視点、つまりは敗者の視点であったろうか。
 この四郎を陰で支えたのが、妻の浜であった。実は四郎と浜は、ともに再婚同士であり、その間を取り持ったのは西郷隆盛の弟、従道であったと、今回の川嶋家をめぐる取材の中でわかった。

→敗者の視点、あまり聞いたことがないが、要注意の言葉ですね。
 社会的に恵まれない場所に居るものを敗者と決めつけ、その意見を軽んずる危うさを孕む言葉ですが、小室も父を失った時点で世俗的には敗者になったわけですから、小室と四郎氏を並列で語り出しかねない危うさもあります。

この浜の父、小菅智淵も日本の近代史に名を残す人物である。陸軍参謀本部の初代陸地測量部長を務め、また日本全国の測量を推進して5万分1地図を作製する基礎を築いたことで知られている。

幕臣でありながら新政府軍に命を助けられ、その新政府に仕える。小菅の心には、池上四郎と同じように深い葛藤があったことだろう。小菅は池上四郎がそうであったように仕事に没頭し職務に命を削った。日本全国を歩いて測量し、正確な地図を作りあげることに邁進する。明治21年、基線測量の旅に出た途上で、チフスにかかり死去した。享年56。池上も小菅も、仕事中に亡くなっている。逆賊から新政府に徴用され、その中で適応し、出世を果たしていった者の背負わされた苦悩を感じる。

紀子の娘である佐藤豊子が手記でこう語っている。
「大阪市長を10年つとめた祖父池上四郎と、近代的測量術によって、5万分の1の地図を作った曾祖父の小菅智淵については、折々聞かされたものです。
 祖父や曾祖父を見習って人のために骨惜しみせずに働くように、そして礼儀正しく真っすぐな道を歩むようにと、母は子どもたちに言い聞かせていました」(佐藤豊子「祖父母、父母、こどもたち」『婦人之友』)
 紀子妃もまた幾度となく、祖母・紀子の口からこの話を聞いたことであろう。

→紀子妃もまた同じように眞子内親王、佳子内親王に繰り返し話したが、現代っ子で遊びたい盛りの御姉妹にはピンと来なかったかもです。
偉人であった御先祖を誇りに思い、自分もまたそのように生きたいと思う子供もいれば、御先祖を誇りに思って周囲を見下す子供もいれば、「そんな昔の話私には関係無い。」と思う子供もいる。
御姉妹は「私には関係無いわ。」というタイプ?加えて苦労した母方の御先祖より身位の高い内親王ですものね。

紀子妃殿下の父
紀子は昭和15年、紀子妃の父となる辰彦を産んだ。辰彦は疳の虫の強い子どもだった。川嶋家を知る人が振り返って語る。
「辰彦さんは今からは想像もつきませんが、道端に転がって泣いては、手足をバタつかせて我を通そうとするような子どもだったそうです。そんな時でも、紀子さんは何もいわず、ただ黙って抱きしめた。決して、叩いたり怒ったりしない。子ども本人が自分で行いを改めるまで待ち続ける。そういう辛抱強い方だったそうです
 紀子も孝彦もともに穏やかな性格で、決して子どもを叱ったり、手をあげたりすることはなかったという。

「紀子さんはたびたび『負けることはいいことなのよ。負けることでわかることがあるのよ』と柔らかい口調で辰彦さんに諭したそうです。喧嘩でも何でも、決して『相手を負かしてきなさい』とは言わなかった」
 敗者になることを勧める母。そこには逆臣とされた会津藩士の父、幕臣であった祖父の影響もあるのだろうか。
 二・二六事件の叛乱兵を前にしても動じず、その一方で敗者の視点を持つことの大切さを説いた紀子は、辰彦の人格形成に大きな影響を与えた。辰彦は母の自分に対する教育に感謝し、自分の子育てにおいても、それを踏襲したいと考えたという。ある人は辰彦から、「僕も絶対に子どもを叱ったり怒鳴ったりはしない」と聞いたと語る。

辰彦が17歳の時、父の孝彦が亡くなった。辰彦はその後、戸山高校から東京大学へ進学するが、父が法学部だったため、父と同じ学部は避けたいと思い、経済学を選んだという。だが、専門としたのは計量経済学で、気づかぬうちに父が愛した統計の要素を含む学問を選択していた。考えてみれば、父は統計学を専門とし、母・紀子の祖父である小菅智淵は測量の第一人者である。辰彦はその血を濃く受け継いだのかもしれない。 

紀子妃殿下を語るとき、祖母紀子さんとその御先祖の話ばかりが出ることに納得です。
祖母紀子さんの御先祖は有名人ばかりです。とはいえ、万人が知っているほどでも無い。紀子さまが妃殿下にならなければ知らない人のほうが多かったのでは?

続く


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。