岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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宮柊二の代表歌集:「山西省」「日本挽歌」

2011年09月07日 23時59分59秒 | 短歌史の考察
斎藤茂吉以降の歌壇の中心にいたひとりに宮柊二がいる。宮柊二は北原白秋の弟子。白秋といえば「明星派」、浪漫派だが、宮柊二は第一歌集「群鶏」の中頃からリアリズムの傾向を強めていく。刊行は1946年(昭和21年)。近藤芳美の第一歌集に先立つことニ年。二人が「戦後短歌の旗手」「戦後短歌のリーダー」と並び称されるのは当然といえる。共通項は「リアリズム」。きっかけは戦争体験だろう。

 宮柊二は1939年(昭和14年)から1943年(昭和18年)まで華北・山西省(現・河北省)で転戦。ここは満州に隣接する地域にあたり、山海関(満州と華北の境界)のすぐ外側にあたる。いわば「日中戦争」の最激戦地にあたりその戦いは辛辣を極めた。その経験が「現実を直視するリアリズム」に近づく契機となったのだろう。だから宮柊二の代表歌集はと問われれば、僕は躊躇なく「山西省」と「日本挽歌」をあげる。「リアリズム」に移行しきったあとの歌集だからだ。


1・「山西省」

 第三歌集・1949年(昭和24年)刊。

 召集令状をうけ、入隊し華北・山西省で足かけ5年、激しい戦闘下に身をさらしたことを題材にした「リアリズム歌集」。山西省は中国戦線の最前線で中国軍の攻撃も激しく。いわば「殺す・殺される」を目の当たりにした期間だった。

 敵の攻撃を警戒しつつする野宿、夜明け前の渡河作戦、日本兵(或いは作者かもしれぬ)が中国兵を銃剣で突き刺すなど戦争の残酷さ、理不尽さといってもいいが、その中に自分の身を置くという忘れ得ない体験を詠っている。「もし宮柊二が浪漫主義的傾向の強い歌人のままでいたら、歌集< 山西省 >は生まれなかっただろう」とは高野公彦の言葉。いくつか抄出する。

・ねむりをる体の上を夜の獣穢れてとほれり通らしめつつ・

・軍衣袴(ぐんいこ)も渋も剣も差上げて暁渉る河の名を知らず・

・ひきよせて寄り添ふことく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す・

・おそらくは知らるるなけむ一兵の生きの有様をまつぶさに遂げむ・

 このように臨場感にあふれ、戦争詠の秀歌集と呼ばれる。最後の{まつぶさに遂げむ」で作者の考え方の基本がわかるだろう。それに対し近藤芳美の「吾ら兵なりし日に」はほとんど語られない。実際に読みと比べると作品の完成度の違いがわかる。


2・「日本挽歌」

 第五歌集・1953年(昭和28年)刊。

 戦後復員した作者は製鉄会社に勤務した。本社勤務になったが見下ろす東京はまだ荒涼とした感じが残っていたと本人が高野に語ったという。いわば戦後日本の断片をきりとった「リアリズム歌集」といっていいだろう。「日本挽歌」という題名に戦争をかいくぐった作者の感慨があらわれていると言えるだろう。

・つらなめて鴈ゆきにけりそのこゑのはろばろしさに心は揺ぐ・

・わがよはいかたぶきそむとゆふかげに出でてたちをり山鳩啼けり・

・あたらしく冬きたりけり鞭のごと幹ひびき合ひ竹群はあり・

・蠟燭の長き炎のかがやきて揺れたるごとき若き代過ぎぬ・

 穏やかな中に心の揺らぎが表現されている。この時代、日本社会も作者自身の生活も揺れていた。それが最後の「蠟燭の炎の揺れ」であり、その中で作者の「若き日」も過ぎて行った。情感あふれる作風である。


 土屋文明や近藤芳美・岡井隆とは違う「リアリズム」のありかたである。そこが作者の経験に基づく資質だろう。もっとも岡井隆の作品が「リアリズム」かどうか議論の余地はあるが。「ネフスキー」はスターリン批判の「思想詠」だし、その後、アララギ回帰と呼ばれる作風の歌集も出している。



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