オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

戦後半世紀を過ぎて

2008年11月29日 | Weblog

この頃、常識を疑うような、人間性を疑うような、

 無思慮で傍若無人で無責任な常人には予測もつかないような事件・事故が起こっている。どうしてこのようになったんだろうとよくよく考えてみると、戦後約半世紀を過ぎた節目にあることに思いが至る。半世紀ということは、およそ一世代が過ぎたことになる。戦前戦後を苦労して生きてきた戦前生まれの世代が引退して、戦後生まれの世代が主力を占め始め世代交代が進んでいる。

戦争という重荷を担ってきた世代は、

 少なくとも自由奔放は許されず自制心をもって生きることを余儀なくされた。それに比べると戦後世代は戦争の後始末で苦労はしたが、戦争の重荷もなく、戦前の世代に守られて自由奔放に生きてきた感がする。その戦後世代が家庭を持ち子供を育て教育し、その戦後の苦労も知らない子供達が青年期を迎え始める頃になっているのが現在であろうかと思う。

戦後世代は、ある意味では甘やかされて育てられたのだろうか。

 戦前の世代に比べて、自制心とか、我慢強さとか、自立心とかが欠けている感じがする。明治・大正の人達はこれにもっと頑固さ武骨さがあったように思える。自由主義、平和主義、平等主義に裏付けされた戦後民主主義のいいとこ取りばかりして育ってきたのが戦後世代かも知れない。そして、敗戦と同時に戦前の生き方を全て否定された戦前の世代は、ある程度疑問を抱きつつも新しい戦後民主主義を容認し、従わざるを得なかった背景があるのではないかと思う。

その戦後世代の子供達が学校や社会で殺伐とした事件を起こしている。

 その子供達の家庭教育をしたのは、この戦後世代であり、核家族化が浸透し戦前世代が孫達を教育する機会はほとんどないし、敗戦で自信を失った戦前世代には孫達を主体的に教育できる気概も持てない状況にあると思う。孫達にはできる限りのご機嫌取りをし、甘やかすだけ甘やかして聞き分けのいい優しくて奥ゆかしい「おじいちゃん」「おばあちゃん」役を演じている。少なくとも厳格で頑固で信念に基づいて一歩も自己の主張を譲らないような「おじいちゃん」「おばあちゃん」は希有であると思う。最近の「おじいちゃん」「おばあちゃん」の扱いを見ていると、下手をすると対等な関係すら否定され、空気のような存在を強いられ、しかもこれに甘んじざるを得ない主体性のない影の薄い姿が連想されて仕方ない。

戦後民主主義がもたらした利点は数多い。

 諸外国から見れば日本はあっという間に形だけは理想的な民主主義社会を実現してしまった。あまりにも理想的すぎて現実を見失って脆弱なところもあるが、それがかえって無駄な浪費をすることなく最短距離で一応理想的な社会を実現している。しかし、これを支えているのは過去に築き上げられた文化である。しっかりとした文化があり、この文化を支える人がいたのである。少なくとも日本人の一人一人はこの文化を支えていこうという伝統を持っていたのである。戦後、その支えるものは変わったが、支えるものが変わっても人々はこれをしっかりと支えようとしたのである。そして一時的には理想的な社会が実現できたのである。

この支える人達の質がこの頃変わってきた。

 民主主義そのもの影響を受け、考え方が変わり、その欠点が芽を吹き、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を付け、その実からさらに新たな芽が吹き、葉を茂らせつつあるということであろうか。支えることしか考えていなかった人達から、支える支えないは個人の自由だという人達へと変わりつつある。そして、支えることを放棄する人達も増えつつある。ただ、諸外国と違うことは、支えることそのものをいやがって放棄しているだけであって、個人の価値観に基づいて積極的に前向きに自己の信念として支えることを放棄しているのではないことである。本来であればあるものを支えることを積極的に放棄している人は別のものを支えようとしているのである。支えるものは違うが、支え方が違うだけで最終目的は同じなのである。

この状況を打開するためにはどういう対策をしたらいいのだろう。

 日本の過去の歴史に立ち返って、昔の良さをもう一度考え直すことであると思う。戦前の世代が敗戦のために反省し懺悔し全て拒否された文化をもう一度再認識する必要がある。そして、その良いところを自信を持って取り入れて行く考えが必要であると思う。現在は過去の積み上げの上に成り立っている。敗戦によっていびつな積み上げ方をされた部分は何らかの形で改めて補修しなければならない。足りない部分は再度埋め直しをしなければならないと思う。外部から取り入れたものは自分の特性に合わせて仕立て直さなければならない。民主主義も日本の特性に合わせて作り直し、日本独特の民主主義に発展させなければならないと思う。

「顔の見えない日本人」と諸外国から言われるが、

 借り物の民主主義で仮面をかぶった日本人には、自分の意志をうまく表現することができないのではないか。また、敗戦のために自己否定された日本人には意思表示すべき「意志」を持ち合わせていないのではないかと思えてしょうがない。頑固で武骨な「おじいちゃん」や「おばあちゃん」は時代遅れの一言で否定されてしまっているのである。時流に逆らうことも無駄なことだと達観してしまっているのである。これでは「自分の意志」を持ちようがない。ただ流されるだけであり、過去現在未来をつなぎ合わせてみるとそこには「個人の信念や意志」「民族や国家」のような主体性が欠如しているのが見て取れる。これが「顔の見えない日本人」の正体ではないかと思う。

日本人としての自信と誇りを取り戻すべきである。

 外に向かって国際化することだけが日本の進む道ではないし、闇雲に国際化しても足下がおぼつかないようでは諸外国と対等に競争できない。国際化する前に日本の国を、歴史と文化を見直さなければならない。縄文時代から培われ積み重ねられてきた歴史と文化が第二次世界大戦を境に一旦途切れて無理矢理全く新しいものに入れ代わったというのは否定できないであろう。そして、これがまだ日本人に馴染んでいないのも事実であろう。全て過去に戻れとは言わないが、古いものの良いところは残していかなければならない。その古いものそのものが個人の、民族の、国の主体性であり、これがなければ諸外国から顔が見えないと言われても当然である。

ある人間の細胞を全て入れ替えてしまったらそれは全く別の人間である。

 会社の人と組織を全て新しいものに入れ替えてしまったらそれは全く別の会社である。人間や会社の主体性を表すものは「古いもの」「残されたもの」である。その「古いもの」「残されたもの」の上に新しいものが積み重ねられて行くのである。「古いもの」「残されたもの」を時代遅れとして粗末にし、新しいものばかりに夢を託して追いかけ回していると、自分たちの主体性が失われ、いつまで経っても積み重ね、積み上げることができないで堂々巡りを繰り返すことになる。永久に足踏みのままで前へ進むこともないし成果も生まれない。前へ進むにしても最低限基点がなければどっちが前かも判定できないことになる。基点は過去から現在に至る線上にあり、進むべき方向はおおむね今まで進んできた方向である。


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