オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「プライバシー」の誤解

2008年11月22日 | Weblog


戦後日本に民主主義が入り込んできて、

 個人主義の思想が普及すると西欧からの新しい「プライバシー」という概念が埋め込まれていった。しかし、この「プライバシー」という言葉は「デモクラシー」と同じように日本人の中で勝手に一人歩きしている感じがする。「プライバシー」は人格権のひとつである。「人格権」とは、人格的利益に関する私権である。「人格」とは、人が一人の人間として存在するときに必要な資格である。プライバシーの本質は見たり知ったりしても本人の人格を尊重して見なかった知らなかった振りをしてやることであり、見えないように知らせないように全てを隠匿してしまうことではない。

「プライバシー」という言葉を日本人が使うとき、

 他人の侵害から私生活や私事が一方的に完全に離隔され保護されることをもって「プライバシー」と言っている気がする。しかし、白紙的に言うとプライバシーを守る自由がある反面、プライバシーを侵害する自由もあるのである。一方で表現(言論、報道、出版)の自由があり、その片方にこれに対抗するためのプライバシー保護があると言った方が適当だと思う。個人主義は本来権利と権利のせめぎ合いなのである。誰かに権利を認めてもらい保護してもらうのでなく権利は自分で勝ち取るものなのである。プライバシーを守ろうとすればプライバシーを侵害している張本人と直接戦うのであり、誰かに泣きついて守ってもらうわけではないのである。公共の司法や警察はその手助けをするだけなのである。

個人主義は「個人で何でもやる、個人のことは個人で責任を持つ」ことでもある。

 しかし、これをひっくり返すと、「他人には何もさせない、個人のことには一切口出しさせない」ことでもある。これをそのまま「個人主義」と認識し誤解している人がいる。何故誤解するかというと、周りに他人がいることを忘れているからである。他人も「個人で何でもやる、個人のことは個人で責任を持つ、他人には何もさせない、個人のことには一切口出しさせない」と思っているのである。そんな個人同士が集まって社会生活をしているのである。山奥で一人で誰にも迷惑をかけないで生活しているのとわけが違うのである。「プライバシー」の勘違いもこの辺にある。

この頃の若者は人と人との直接のコミュニケーションが下手だと言われる。

 その原因の一つが子供の頃から個室を与えることだという。「子供にもプライバシーが必要であり、自立心を育てるためには個室が必要である」と思っている親がほとんどだと思うが、これは「プライバシー」を誤解していると思う。本当にプライバシーの大切さを教えるつもりなら集団の中で教えるべきである。すなはち個室を取っ払って家族の中で、学校の中で、社会の中で教えなければならない。プライバシーを侵害しようとする他人とこれを守ろうとする自分との戦いの中でプライバシーの存在を確認させ育ててゆくのである。

自立心を育てるために個室は有用である。

 しかし、それは個室に閉じ込めさせて自由奔放にさせることではない。個室を与えたらその個室を自分でちゃんと管理させること、もしくは人に頼らないで自分でできることはやらせることが自立心を育てるために必要である。そうであれば、個室は与えても親は最終的にはしっかりと監視しておく必要があり、悪いところがあれば注意し是正してやらなければならない。個室を与えれば反対にもっと積極的に干渉しなければならないことが増えるのである。教育しなければならない機会が増えるのである。たとえ子供から文句を言われ嫌われてもその教育ができるのは親を除いて誰もいない。個室はそのための教材に過ぎない。

プライバシーを本格的に主張するのはしっかりした人格が形成されてからである。

 成長期にある若者は、社会性や常識や知識やノウハウをじゃんじゃん吸収している時期である。この時期はできる限り集団の中で教育する必要がある。学校が何のためにあるかは集団の中で教育するためである。ただ知識を詰め込むためだけなら学校なんていらない。家庭教師でも塾でもいい。社会性や常識や知識やノウハウを吸収させるためにはできるだけたくさんの多種多様ないろいろな人と接する機会を作る必要がある。極端に言えば善人も悪人も、奇人も変人も、年少者も高齢者も、健常者も身体障害者も全てひっくるめてつき合わせた方がいい。

社会性や常識や知識やノウハウを吸収する最大の場所は家庭である。

 その家庭で子供を大事に個室に囲っていたのでは、せっかくの教育の機会を逃してしまうことになる。もしくは親が教育すべきことを怠り放棄していることにもなる。確かに親は楽であり子供も自由気ままではあるが、ここには個人主義も自由主義もプライバシーもないし、バラバラの個人が同居しているだけで社会性も育たない。これはどう考えても間違っている。物理的に閉じこもって外部から見えないようにすることがプライバシーではない。

借り物の「プライバシー」は考え直さなければならない。

 形だけの物理的な「プライバシー」をもって本当の「プライバシー」だと思ったら大間違いである。新しい概念の「プライバシー」を取り入れるために無理をして日本の伝統的なすばらしい風習を放棄したり、時代遅れだとして無下に捨ててしまうのも考え物である。「プライバシー」の本家本元の西欧では、自分の子供に対しては日本で言うただ個室という隠れ家を与えるだけの「プライバシー」なんて言語道断だと思うだろう。

西欧では親は子供に隅から隅まで干渉し完全に管理下に置こうとする。

 その代わり親は子供の一挙手一投足について全ての責任を持つ。そして成長に伴い子供の人格が形成されるに従い徐々に子供のプライバシーを認めていく。当然子供は親からプライバシーを獲得するためにあらゆる努力をすることになる。この教育過程を踏まないと「プライバシー」は形成されない。完全な「プライバシー」が存在するのはしっかりとした「人格」が形成されていることが前提でもある。プライバシーは人格権の一部なのである。立派な人格を育てること自体は昔の日本の風習や伝統と本質的には同じなのである。何も時代遅れや古いと言って捨ててしまうことはない。自分のプライバシーは何か、守るべきプライバシーをしっかり堅持しているかもう一度考え直す必要がありそうだ。


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