オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

情報戦

2017年01月10日 | Weblog
「情報戦」と言った途端に敵と味方に分かれる。

 味方を防護し、敵を攻撃、攪乱、妨害する目的で行われるのが情報戦である。情報戦という言葉は日常よく使われるが、敵と味方に分かれて戦う意識はあまりない。どちらかと言うと得体の知れない巨大な見えない敵と戦っている感がする。本来であれば敵を特定して情報戦を繰り広げるのが集中的かつ効果的な成果を上げることができる。しかしながら、通常の情報戦はそこらに転がっている膨大な資料を無作為に分析して世間一般の傾向や兆候を見つける事に執心しているようだ。いわゆるビッグデータがまさにそのものであるが、私はあんまり期待していない。意図のないところですべての莫大な情報を集めて知り得ても意味がないし、膨大な情報をいかに分析して妥当な結論を得ていかに目的に合わせて活用するかが重要であり、コンピュータによる統計資料は現状を分析した単なる参考資料にしかならないと思う。

得体の知れない巨大な見えない敵に対して情報戦を挑むことは、

 得体の知れない不安感と不信感を生むことになる。何せ敵が何者かが特定されていないのである。しかも、いつ解明されるか、何を解明するかも不確かである。こんな情報に何の意味があるのだろう。たまたまビッグデータのそこら辺に転がっていた情報が役に立ったのであれば、それはビッグデータに頼らなくても遭遇できる情報ともいえる。情報戦をやるには、やはり「敵」を特定し、「目的」を明確にし、集中的かつ効率的に情報を収集して分析し、効率的に活用しなければならないと思う。そこには人間の意志があり、この意思決定は人間にしかできない。コンピュータの分析結果は人間の意思ではないし、何を敵とし何を目的とするか結果が正しいかなどの判断はコンピュータにはできない。

情報はどこまで行っても情報である。

 情報を分析した結果は一つの知識となるが、この知識は次の瞬間再び情報となる。日本の場合は何もかも情報で片づけてしまうが、情報にはinformationとintelligenceがあり、informationはただ単なる生の情報資料であり、intelligenceはinformationを分析して結論付けたひとつの知識である。そしてこの知識は目的を達成すればただ単なるinformationに格下げされ、新たなintelligenceを求めてさらなる情報戦が継続してなされる。この知識は有効に活用して初めて価値を生む。活用されない場合はただの一つの情報資料に埋もれてしまう。これらの埋もれた情報資料をすべて収集してもただ単なる膨大なデータベースにしか過ぎないし、このデータベースだけでは何の価値も生み出さない。やはりこれを有効活用するのは人間なのである。コンピュータに振り回されることがあってはならない。

情報戦は不信感を生む。

 情報戦を挑む敵とは解明されていない対象である。すべてが解明されていれば情報戦の必要はない。敵を解明することは不信感そのものである。何をやるのかわからない敵は不信感そのものである。情報戦をやればやるほど不信感は募るばかりである。信頼できるということは解明された部分をお互いに共有しその共有した部分において相互に信頼できるのである。信頼できる部分が少なければ少ないほど明白な敵であり、この敵に対する情報戦は不可欠であり、情報戦を展開すればするほど不信感が増大してゆく。また、情報戦は味方を防護する機能もある。そして、味方を防護すればするほどこれまた相互の不信感は増大するばかりである。そして、敵を攻撃、攪乱、妨害する機能においては、文字の如く「戦争」の様相を呈する。これが「情報戦」である。

情報戦は軍事的な意味合いが強い。

 もともとが軍事用語である。世間一般で使う場合はこの言葉は避けたほうがいい。威勢はいいが相手に喧嘩を吹っ掛けるようなものである。それゆえ、相手を特定しない情報戦が一般的には繰り広げられているのだろうけれども、表には出てこないが水面下では鎬を削るような情報戦が展開している。それが情報戦の真の姿である。見えないところで情報戦がなされているし、自分を防護するため誰も手の内を見せることはない。手の内を見せた途端、その結論付けられた情報はゴミ屑と化してしまう。そして、情報戦は相手を攻撃することであり、攻撃の目的は相手を撃破し屈服させることでもある。こんな情報戦は破壊的であり、何も生み出さない。相手を貶めることは自分が有利になるが、それは相対的なものであって、全体としての総量は変わらず生産性はない。

やるべきことは共存共栄の情報共有を図ることである。

 お互いに共有できる共存共栄の情報が何であるかを見つけるための情報活動であるべきである。自分が何を望み、相手が何を要求し、お互いに共存共栄するためにはどんな情報を共有すべきかを追求しなければならないと思う。そこをお互いにコントロールできれば「情報戦」ではなく、もっと先進的な未来志向の「情報活動」ができるのではないかと思う。過去の不信感を増大させるばかりの「情報戦」から、未来志向の「情報活動」に移行すれば世の中はもっと幸福になれるような気がする。世界の変革は加速度的に増大し、それこそ秒進分歩の勢いでスピードを増している。世界がより良い方向を目指して舵取りをしていかないと、瞬時に破滅してしまう危惧もある。幸福に向かって全世界の人々が共有できるイメージをこれからも見出していかなければならない。人間の特性は仮想世界を共有できる能力を有することである。全人類が共有できる新たな仮想世界を目指して科学の発達だけでなくあらゆる機能を統合するより良い政治・社会を追求することが我々の使命であろう。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 一億総活躍社会 | トップ | 運命の必然性と偶然性(おみ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事