オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

病院はサービス業ではないんですか?

2008年01月27日 | Weblog

何度も病院のお世話になったことがあるが、

 いつもサービスを受けているという感覚にはならない。「先生に有り難く診療して頂いた」というのが正直な気持ちである。歯科、眼科、耳鼻咽喉科などは命に大きくかかわることもないため、比較的サービスを受けているという雰囲気が感じられるが、内科、外科などは医者にまかせるしか方法がなく、一方的に指示に従わざるを得ない。

医者(看護師)が上で患者が下の関係である。

 病院はサービス業とは別物のようである。国家試験で医者の資格を持つお偉い先生が患者を診察し検査をし治療をし投薬をしてやっているという感じを受けるのは私だけではないはずである。患者は自分の命に関わることであり、痛みをどうかしてもらいたいという弱みを握られてはいるが、弱みにつけ込んだ人の気持ちを無視した応対や横柄な態度をとることは少なくとも許されない。

病院(特に総合病院、中でも内科、外科)はどこへ行っても、

 事務的でぶっきらぼうで、愛想がないのが普通である。医療器具は一流かも知れないが、待合室や治療室の施設や備品は質素を通り越して粗末なものしかなく、廊下は薄暗く、トイレも消毒臭はプンプンしているがお世辞にもきれいとは言えないところが多い。病院は儲けが少なく、そのような施設や備品に金をかけられないのであろうか?それとも他に理由があるのであろうか?全ての病院がそうだとは言わないが、一般的にこのような傾向にあるようだ。もっとサービス業に徹した病院もあっても良いのではないかと思うこの頃である。

民間企業が病院を経営できない制度の実態はつい最近知った。

 道理で病院はサービス業とは一線を画しているはずだ。患者を治療することが目的で、患者のサービスはついでのオマケである。しかし、金を出す方としては気に入らない。少なくとも患者である前に人間のお客さんであるはずである。「インフォームドコンセント」という言葉が叫ばれているが、そんなカタカナ言葉を振り回す前に、患者を人間のお客として扱う病院経営を目指してもらいたい。

これと似た応対は、

 かつて(30年以上前)交通局で最初に運転免許証の交付を受けた時にも経験した。受付窓口はどこも常に事務的で横柄で「気に喰わないと免許証は交付してやらないよ」と顔に書いてあるような応対ぶりであった。気の弱い人は泣き出すのではないかと思えるほどの悪態である。職場や家庭の不満を受付窓口で鬱憤晴らししているのではないかと思えるほどであった(現にどこかの上品なおばさんが書類の不備を責めたてられて泣き顔になっているのを目撃した)。

我々は通常健康保険証で病院の治療を受ける。

 国から負担してもらっている分の治療費は現金で支払わないが、この負担分も我々の納める税金でまかなわれている。我々は、この全額分(自己負担分+国の負担分)のサービス受ける権利がある。治療行為と料金を比較してみると、自己負担分として現金を支払った額で判断すると「まあこんなものか」と思うが、国の負担分を合わせて計算して再度考え直すとどう見ても「高すぎる」と思う。健康保険証を持たない人は、金持ちでもない限り病院にかかることもできない。医療費がべらぼうに高くて払えないのである。普通に支払えないような高額の治療費がまかり通っている。何かおかしいのではないか?

そんな高額の治療費はどんな根拠に基づいているのだろうか?

 病院が国に医療費を請求する根拠として治療の点数がある。この点数に基づいて医療費を請求する。我々患者はその中身は全く知らない。医者が必要だと言えば治療や検査や投薬を受けざるを得ない。患者が治療費を国の負担分も含めて全額現金で支払うのであれば、患者も自分の懐具合と相談することになり、無駄な検査や投薬を節約することも考えるが、ほとんどが国の負担で自己負担が少々であれば誰も断る人はいない。このようにして病院の言いなりの無駄な治療費が馬鹿みたいに膨らんでいる。国のやり方が悪いのである。

初診の場合、必ずいろいろな検査を強制される。

 「こんな検査必要ないんじゃないんですか?」と反論すると、「何かあった場合困るから一応検査して下さい」と言われる。「以前一度検査しました」と言うと、「最新の検査結果じゃないと困ります。」と言われる。家屋の修理などの事前検査は通常無料サービスで、検査結果に基づいた要修理箇所からお客の要望に応じた工事が発注される。病院でも事前検査は無料サービスでいいのではないか?悪いところが見つかれば、また儲け仕事が増えるのであり、これは病院の基本的サービスじゃないかと思えるのだが・・・。少なくとも悪いところ以外の検査は患者の要望にまかせてもらいたい。

国は金を出すばかりでなく、その金が適正に使われているか監視しなければならない。

 「いちいちそんなことをするのは不可能だ、そのためにはまた新たに組織と人がいる」と反論するかも知れないが、効率的に監視する方法はいくらでもある。労力が足りないなら検査のための必要な書類を病院に提出させればいい、そんなのは当然の受益者負担である。治療の内容と金額を公開させ国民に監視させる方法もある。医療費の補助金を直接国民に交付することも可能だ。抜き打ちの抽出検査で徹底して追及する方法もある。いずれも、不可能だからといってみんなほったらかしにしていたのでは壮大な無駄がはびこるばかりである(国も努力はしていると思うが・・・)。

各種の補助金の使い方もおかしい。

 補助金の申請書を審査するだけで、申請が受理されて補助金を支払った後はほったらかしである。補助金が適正に使われたか有効であったかなんてあまり追求されない。例えば、古紙回収の補助金が出された時期があった。業者は補助金目当てに古紙回収はしたが、古紙はそのまま野積みのままで放置され本来のリサイクルに回されたのはほんの一部である。そして、その言い訳が「古紙のリサイクルは採算が取れない」である。

「採算が取れない」からその分を国が補助金として出したのではないか?

 国も早々に手を引いて補助金をカットしてしまったが、本当にリサイクルが必要であり、その態勢整備を目指すという断固とした決意があるならば、さらに補助金をつぎ込むべきであり、古紙をリサイクルできなかった業者には補助金の返還を要求すべきである。リサイクルの必要性は環境保護の観点からは増大こそすれなくなったわけではない。

農業への補助金も同じである。

 実際に農業に従事している人よりも、農協や農業関連の団体や法人に勤務している人の方が多いというのはどういうわけであろう。農家は決して裕福ではない。その農家とともに農協などの組織が存続できるのは補助金や農業支援策のおかげである。大義名分は「国内自給率の向上」とはいうものの、その実態はほとんど有名無実化している。米だけ自給率を上げても仕方がない。日本の農業の実態は補助金漬けで弱体化している。いくら補助金をつぎ込んでも農業そのもののやり方を変えていかなければ何も解決しない。その芽が一部に徐々に出つつあるのは頼もしい限りであるが、国そのものが考え方を変えないとその芽も摘んでしまう。 

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