「国家権力」というと生理的なアレルギー反応を起こす人が多い。
私は戦争を経験していないので、戦前、戦中の国家権力の乱用を知らない。国家権力の横暴の被害者となった人達は「国家権力」と聞くだけで体の中から怨念に近い拒絶反応が現れるという。「警察」という言葉を聞いただけで顔色の変わる人、警察官を見かけただけで機嫌が悪くなる人、強制されることに徹底して反逆する人、常に被害者意識を持って「体制」に抗議をする人、権力は民衆にありと文字通りの「主権在民」を主張する人、など「国家権力」なんてとんでもない、そんな必要性は絶対に認めないという意気込みである。
「国家なんて何もしなくていい、ただ飾りとしてあればいい」、
「国家に権力を与えるとろくなことはない」という主張である。戦前、戦中がいかに不幸な時期で、いわれのない国家権力の横暴に虐げられ屈辱を受けていたかを容易に想像できる。戦争の体験のない人でも「国家権力」に対するアレルギーが強いようである。戦争体験者の強烈な反省からくる教訓が有効に戦後世代にも伝えられている証拠であろう。
しかし、それでも「国家権力」は必要である。
国家にはリーダー(日本の場合は内閣総理大臣であり憲法では「首長」となっている)が必要であり、リーダーがリーダーシップをとるには絶大な権力が必要である。カタカナで「リーダー」と書かなければならないところに、日本に「リーダー」が不在であり、「リーダー」の概念を表現する日本語さえもないことが解る。「指揮者」「指導者」「首長」「元首」などの言葉はあるが、いずれも「リーダー」という言葉の包含する概念とは一致しない。
意味的には「指揮者」が妥当だが、
軍隊の「指揮官」を連想し、またぞろ拒絶反応を起こされかねない。「指揮者」は日本の場合はオーケストラの指揮者しか概念的に存在しないようだ。「オーケストラ」を「国家」に置き換えた「指揮者」が「リーダー」に最も近い概念ではないかと私は思うのだが。「指導者」というと共産主義国のリーダーを連想する。憲法に記述されている「首長」は言葉として残っているだけで概念の広がりもなく死語に近い。下手をすると「酋長(未開の部族・村などのかしら)」を連想する。「元首」は単に国家を代表する人でリーダーではない。
「大統領」はいい言葉だがアメリカ大統領しか連想しない。
概念的に国民が国家の首長である内閣総理大臣に理想として期待しているのは「大統領」ではないか。「内閣総理大臣」という職名も「リーダー」を連想させない。内閣を総じて理する(おさめる)大臣の意味で、権限に基づく強力な指導力は感じられないし、内閣を丸く治める人という印象しか生まれない。小渕首相は自分を自嘲して「掃除大臣」と講演したということを聞いたが、まんざら冗談だけとは思えない。別に言葉の遊びをしているわけではない。言葉の呪縛にとらわれて本来の機能を発揮していないことを警告しているのである。
「権力」と言う言葉には一方的に他人を支配し、
「力」で強制的に服従させるという響きがありどうしても抵抗があるというなら、別の言葉にしても結構である。とにかく、リーダーシップをとる人には国家を動かせる「力」を与えなければならない。「デモクラシー」とは、国家を動かす権限を持つ「リーダー」を国民が選ぶことであって、国民がリーダーシップを取ることではない。国民は選ばれたリーダーには従わなければならない。国民も自分達が選んだリーダーがすばらしいリーダーシップを取ることを期待しているのである。国民は民衆の寄せ集めにしか過ぎず組織化されていない民衆だけでは何も決められないのである。
その場その場で国民全員の多数決をもって決心することも可能である。
情報化社会・ネットワーク社会の発達によりますますこの可能性は高くなりつつある。しかし、それでは個々の断片的な決定が得られるだけで、全体としてはツギハギだらけ矛盾だらけになってしまい統一した一貫性を保持することはできない。やはり「リーダー」としての見識と能力と資質を持つ代表者を選定し、将来を見通した的確な判断を期待して政治を委ねざるを得ない。「リーダー」「リーダーシップ」「デモクラシー」とカタカナで書かなければ本来の概念が表現できないのは悲しい。いまもって本当の「リーダー」「リーダーシップ」「デモクラシー」が実現していない証でもある(少なくとも私の中ではそう思う)。
「デモクラシー」は「民主主義」ではないんですか?
と言う人もあるかも知れないが、「民(たみ)」が「主(あるじ)」である考え方は「デモクラシー」を正確に表現していない。これでは、単なる烏合の衆としての「民衆」しか存在せず組織としての「国家」が見えてこない。国家のピラミッド構造が逆転している。これでは国家の「リーダー」は「リーダーシップ」を発揮できない。国家として有効に機能する組織を創り上げるしくみが「デモクラシー」であるならば、どこかおかしいのではないか。前出の「主権在民」という言葉もおかしい。「主権」が「民」に「在」るとは誤解を招く。民衆が権力を取り戻す方策を具体的に実行するためのしくみとして、国民が「リーダー」を選び、「リーダー」に職を指定し責任を課し、その責任に基づく権限を与え、「リーダー」はこの権限を行使して国民を代表して政治を行う。国民も選ばれた「リーダー」の行う政策には従わなければならない。このリーダーシップを「国家権力」だとして拒絶することは矛盾している。
過去に国家の過ちによる不幸な時代があったことは事実である。
だからといって国家そのものを否定することはできない。まさか原始国家以前に回帰することもできないであろう。二度と過ちを犯さないようにしっかりとした国家を築き上げなければならない。そのために努力するのが我々の責務である。徹底的に痛めつけられた体験を持つ人達は、国家権力を生理的に受けつけない体質になっているかも知れないが、それは正常な感覚ではない。異常な時代の体験に基づく異常な感覚である。
戦争を体験した人達のこの感覚は貴重であり風化させてはいけない。
異常な時代の再来を動物的な感覚で察知できる。戦後世代の我々にその能力はない。しかし、国家としての存在さえも全否定するようなアレルギー反応と徹底的な拒絶反応を示すだけでは単に思考停止の状態になっているだけで何も前進しない。国家として前進しつつ何を改善すれば異常な時代の再来を阻止できるのかを模索し戦後世代の我々に教示し後世に伝えていかなければならない。
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