オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「禁止」と「許可」

2009年05月15日 | Weblog

規制や統制をするときのやり方には「禁止」と「許可」がある。

 「禁止」により規制や統制をするのは何となく否定的で後ろ向きで消極的な感じを受け、「許可」により規制や統制をすることは肯定的で前向きで積極的な感じを受ける。しかし、よぉく考えてみると「禁止」されていること以外は「許可」されているのである。反対に「許可」の場合は「許可」された以外は「禁止」されていることになる。現実には「禁止」と「許可」の両方をうまく使って規制や統制をすることになる。

それでは、どういう規制や統制が望ましいのであろう。

 全面的な禁止や全面的な許可はそれほど問題はないし明確で解りやすく規制や統制は容易である。一部禁止で残りは許可、一部許可で残りは禁止の場合は、「禁止」と「許可」の割合によって使い分けることになる。割合の少ない方を定義してやるほうが解りやすいし表現しやすい。これでもってある領域の「禁止」と「許可」を明確に表現できる。領域内の構成要素のひとつひとつを「禁止」だ「許可」だと定義する必要はないのである。これは規制や統制を解りやすくやるための表現方法に過ぎない。

「またややこしいことを言い出した」と思う方に解りやすく説明すると、

 1から10までの10個の赤7個白3個の玉がありこれを赤白に区分する場合「1、3、4、5、6、8、9が赤で残りが白」と表現するより「2、7、10が白で残りが赤」と表現した方が解りやすいと言っているだけである。解りやすく表現しようとすれば全体を把握して赤と白のどちらが多いかを調べて、少ない方を定義してやって残りは他方とすればいい。少なくとも「1が赤2が白3が赤4が赤5が赤6が赤7が白8が赤9が赤10が白」と表現するような馬鹿な人はいないであろう。ところが、日本の政治ではこの馬鹿な表現法をやっているのである。しかもその中に「赤か白か未定」という曖昧な要素も含まれているのである。

以前、コンピュータセキュリティーについてプレゼンテーションした時、

 当該システムのセキュリティー機能の弱点に着目して説明したら、「弱点ばかりでなく長所も説明してくれ」と注意された。私としては弱点(問題点)さえ掌握していればあとは問題ないのであり、問題点が一部であとは問題がないのであれば、問題点に着目して説明した方が全体を説明するには効率的だと思っただけである。これこれさえ注意していればそれ以外は大丈夫ですというつもりであった。しかし、聞く側としては問題点ばかりを羅列されると不安になってしまうのも事実である。これを有効活用しているのがコマーシャルである。「あれもできますこれもできます」と言う宣伝ばかりで、いざ購入して使い始めると「あれもできないこれもできない」こととなる。欠点や不備はあえて宣伝しないのである。

日本の場合の規制や統制のやり方は、

 領域内の構成要素をひとつひとつをこれは禁止これは許可と定義し、定義していないのは「禁止」でも「許可」でもない「未定」というやり方をしている。「禁止」と「許可」と「未定」があるのである。この「未定」の部分は問題が起こったときに個別に検討することになる。この検討するかしないかを決めるのは政治の場であり、検討されるまでは国民側が勝手に解釈することは許されないことになる。これは国民の自由活動を著しく制限している。本来規則を決めるような場合、曖昧さを残す「未定」は許されないのである。問題はあっても「禁止」か「許可」かを明確にしなければならない。見直し・改善はこの境界を前提になされることになる。

規制や統制は必要最低限で残りは自由であることが望ましい。

 そうであれば、一部を「禁止」とし残りを「許可」とする表現方法が理想的であることになる。前述したように「禁止」は否定的で後ろ向きで消極的な感じを受けるが、反対に「禁止」された以外は「許可」されており自由に活動できるのである。最低限やってはいけないことを「禁止」としてそれ以外は「許可」するのが理想的な規制や統制のやり方ではないだろうか。規制や統制を「禁止」で解りやすく表現できるということは充分な自由度が確保されていることになる。「許可」で表現するとことは、「許可」された以外は「禁止」ということであり、自由度が著しく制限されることになる。

日本政府で問題になっている「許認可」はまさにこの弊害がある。

 日本の規制や統制のやり方は自由度が著しく制限された状態であることを如実に示している。しかも「許認可」されていない残りの部分はすべて「禁止」ではなく「未定」の部分があり、この解釈の仕方は政府が牛耳っている。当然ながら定義領域の全体を把握しているはずもない。把握されていれば「禁止」と「許可」しかないはずであり「未定」の部分は定義領域から除外して別個に検討しなければならないと思う。こんな規制や統制でも何となくうまくいっているのは国民が良識的に行動しているからであろう。それ故良識のない人が、時々良識では考えられないことを実行しても誰も規制も統制もできない状況が生じることになる。また、規則的には「許可」されていても良識を発揮してみんなで結果的に「禁止」と解釈している状況もある。

日本の法律に「禁止」が少ないことは有名である。

 「禁止」以外は「許可」で自由であるという考え方はあまりない。モノサシの持ち方が「禁止」と「許可」の境界の引き方ではなく、「日本人」個人の良識に任せられている部分があり、日本国内の場合はこれで何とか済まされている。だから、まだ人格の形成されていない子供や強烈な個性を持った人等からその部分を指摘されると説明ができなくなる。これが日本人の曖昧さでもあり、全体を明らかにしない欠点でもある。当然ながら外国人も強烈にこのことを感じているはずである。

「禁止」は決して否定的で後ろ向きで消極的ではない。

 「禁止」された以外は「許可」されており自由なのである。より自由を確保したければ「禁止」を最小限にすべきなのである。日本の「規制緩和」は「許認可権」の放棄であり見直しだと言うが、本来であれば「許認可権」ではなくて、「禁止」すべきものを明確に定義してその他は「許可」とし自由な活動ができるような環境を創り出すことであると思う。ひとつひとつを「許認可」で定義することは自由度を著しく制限していることと同じであり、すべての事項について「許認可」を与えることは困難で、いつまで経っても自由空間に広がる「自由」を獲得することはできない。我々は本来自由空間につながる自由を持っているのである。



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