オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

カタカナ英語の間違いを正す

2008年11月08日 | Weblog

この前、ニュースを見ていたら「マネーローンダリング」という言葉が出てきた。

 何だろうと疑問に思って調べてみたら「money laundering」であり、日本語で資金洗浄と訳されている。「資金洗浄」と言う言葉もあまり一般的ではないと思うし、「資金洗浄」と言う言葉から概念の広がりはない。ただ単に「money laundering」を直訳しただけであろう。思わず鎌倉の銭洗い弁天を連想する。ということは、この概念は日本には全くない新しい概念であることが解る。概念にもないことは裏返すと全く無防備であることでもある。日本が「マネーローンダリング」(不正に稼いだ金の出所を解らなくするための資金洗浄)の絶好の標的にされ海外から悪用されていると言うことでもある。

これに似た言葉に「コインランドリー」がある。

 「コインランドリー」は日本語として定着している。この「ランドリー」と「ローンダリング」は元々の英語の意味は同じである。これをカタカナ英語にすると同じとは識別できなくなる。なぜかというと、片方を「ランドリー」と表記し片方を「ローンダリング」表記するからである。元々の英語は「launder:ローンダー」であり、「コインランドリー」は「コインローンダリー」が正しい。「ローン」と言うと「貸付」を連想してしまうが、こちらは正確には「ロウン」が正しい。「マネー」も正確には「マニー」が正しい。

英語をカタカナ英語に直すとき正確に変換してないのは誤解を招く。

 「ガール」と「ギャル」は語源は同じであるが、使い方も概念も全く違うことになる。この使い分けはたぶん日本人以外には通用しないであろう。ワイングラスと窓ガラスとステンドグラスは同じ「glass」であるが、片方を「ガラス」片方を「グラス」と表記しているために、「ガラス」と言えば窓ガラスかガラス素材そのものを連想し、「グラス」と言えば飲み物用のガラス容器を連想する。ところが、「ステンドグラス」は窓ガラスのことであり混乱するばかりである。「コップ」と「カップ」も同じで、「コップ」というと例の水飲み用のガラス容器を指すが、「カップ」というと陶器製のものを指す。英語の語源は同じで「cup」であり、カタカナ英語の日本語が混乱しているのである。一般的には冷たい物を飲む容器をグラス、熱い物を飲む容器をカップと言うのが正しい。「コップ」は廃止しなければならない。

「スナック」と「スナック菓子」も紛らわしい。

 話す場面によって、「スナック」を「飲み屋」なのか「簡単な食べ物」なのかを判断しなければならない。正確には飲み屋の「スナック」は「スナックバー」が正しく語源の「snack」は本来簡単な軽食の意味である。ピザとピッツァも紛らわしい。英語的に発音すれば「ピザ」であり、イタリア語的に発音すれば「ピッツァ」である。二つが混在している。しかも「ピザ」と言えば普通の物で、「ピッツァ」といえばしゃれた一流の高級な物という区別まで生じている。もともとは同じで発音が違うだけである。「プディング」を「プリン」と言うのも同じで、聞き間違って「プリン」と言い始めたのがそのまま訂正されないまま通用している。

「ママさんバレー」と「バレエ教室」も紛らわしい。

 「バレー」は「volleyball」でカタカナでは「ヴァリボール」が正しいかも知れない。「バレエ」は「ballet」でこのままで問題ない。「パンツ」も紛らわしい。中年男が使うと下着の「パンツ」となるが、若者が使うとジーンズやコットンパンツになる。中年男の言う下着の「パンツ」は形からすると「トランクス」が正しいかも知れない。昔の着物の下につける「下穿き」は確かに「パンツ」であったが、現在の褌代わりの下着は「パンツ」ではない。

「アイロン」とゴルフの「アイアン」も語源は同じである。

 鉄という意味の「iron」が「アイロン」と日本語化すると、「しわ伸ばし用の鉄製のこて」や「毛を縮らせる鉄製のこて」に意味が固定されてしまう。ゴルフで「アイアン」と言うと鉄製のクラブになる。果たして意識して「アイロン」と「アイアン」を使い分けているのかは知らないが、現状がそうなっているし、国語辞典にもしっかりと表記されている。アイアンマンレース(鉄人レース)も語源は同じである。発音からすると「アイロン」を「アイアン」に直すのが正しいと思う。

「トロッコ」と「トラック」も紛らわしい。

 「truck」と「track」の違いが無視されている。貨物運搬貨車を「トロッコ」といい、貨物自動車を「トラック」と言っているが、これはどちらも語源は「truck」であり、発音に忠実に表記すると「トロッコ」が正しいかもしれない。競技場の「トラック」は「track」であり、英語では発音が違うが、日本語表記では貨物自動車も競技場の走路も同じく「トラック」となっている。これでも通用しているのは、聞く側がその都度どちらかを判定しながら理解しているからだろうが、紛らわしいのに間違いはないし、何とかしなければならないのだろう。

「タレント」も使い方としてはおかしい。

 「タレント」は「talent」であり、才能もしくは才能のある人の意味である。ところが、「タレント」と言うと芸能タレントを表し、しかも本当の才能ある人は「タレント」と呼ばれず(呼ぶと反対に「そんなのと一緒にしないでくれ」と怒られるかも知れない)、有象無象のどうでもいい芸能人を「タレント」と呼んでいる。「タレント」を日本語にしようとすると当てはまる日本語の概念がない。外国でも多分カタカナ英語の「タレント」の使い方はないと思う。強いて言えば「エンターティナー」であろうが、日本の「タレント」は「エンターティナー」とは程遠い。降って沸いたような「タレント」というカタカナ英語はどこから生まれたのであろうか。

「グッズ」「アイテム」「マテリアル」も何かおかしい。

 「グッズ」は単に「商品」という意味で使っているが、「人気の商品」と言うのと「人気のグッズ」と言うのと雰囲気ががらりと変わるのは何だろう。「アイテム」も単に「品目」と言う意味であるが、「この秋必須のアイテム」とは言うけれども「この秋必須の品目」とは言わない。単に「物」を「グッズ」とか「アイテム」と言い換えただけで世界をガラリと変えてしまう効果があるようだ。

「マテリアル」も「材料」や「原料」の意味だが、

 このカタカナ英語を使うと雰囲気が今風に変身するようだ。正確に発音すると「マティーリアル(米)」または「マティァリアル(英)」となる。「インテリア」「イクステリア」も正確には「インティーリアル(米)」「イクスティーリアル(米)」または「インティァリア(英)」「イクスティァリア(英)」が正しい。米語と英語を区別する感覚は日本人にあまりないが、英語とは言えほとんど米語を使っていることも再認識すべきである。また、カタカナ表記は米語、英語のどちらを採用するかもはっきりしなければならないようだ。

ゴタゴタと雑多なことをくどくど書いたが、

 要は、カタカナ英語を統一してもらいたいのである。いろいろなカタカナ英語が好き勝手にしかも語源を無視して自分たちの感覚だけで使われている。しかも古い概念を捨てて新しい概念を勝手に作り出すための手法としてカタカナ英語が利用されている。ひどい場合はその概念すら存在しない詐欺に近い表現があちこちに氾濫している。そしてこれが放置されている。表現の自由と言えば好き勝手が許されるかも知れないが、秩序のない自由は混乱を招くだけである。

日本語のカタカナは便利な文字である。

 自国に概念として存在しない外来語でも、そのままカタカナ表記にしてとりあえずは取り込むことができる。新しい概念を取り込むのに抵抗が少ない。しかし本来の概念はしっかりと理解し定義しておかなければならない。これをおろそかにして上っ面だけの概念でカタカナ英語を振り回すと意味不明の世界が広がって行く。本来の日本語の概念に翻訳できるものは日本語で話さなければならないし、概念が定着したらいつまでもカタカナ英語のままにしないでその概念にふさわしい日本語を考えなければならないと思う。

「コンピュータ」を「電脳」、「ネットワーク」を「電網」というのは歓迎する。

 すでにしっかりと定着している概念をいつまでもカタカナ英語のままにしておくのは賛成しかねる。ただし、この変換は最終的には統一したものでなければならない。勝手に各人が使っては混乱を招く。外来語をカタカナに変換するときも同じである。できるだけ正確に変換しカタカナ英語同士で関連が解るようにしてもらいたい。少々面倒だとは思うが、「ヴァ」「ヴィ」「ヴェ」「ヴォ」や「クァ」「クィ」「クゥ」「クェ」「クォ」や「ヂ」「ヅ」「ヴ」「ヰ」「ヱ」「ヲ」等を使いこなして発音に忠実な変換ができるように工夫しなければならないと思う。この語源に忠実でないカタカナ英語が氾濫するために本来の英語とジャパニーズイングリッシュが混在し混乱してしまうと思う。

英語には発音記号という便利なものがある。

 しかし、一般庶民にはあまりなじみがない。そうであれば優秀な日本語のカタカナで発音記号の代わりをする表記法を考えたらいいと思う。そうすればカタカナ表記がそのまま外来語としても通用することになる。不可能ではないと思うし、少なくとも現在の混乱している状態を改善することはできると思う。日本人が英語をしゃべれないのは日本語的に英語をしゃべるからである。この日本語的な英語を作り出しているのがカタカナ表記ではないかと思う。語源に忠実な表記法とカタカナ英語(外来語)の統一を是非検討してもらいたいものである。

統一しろと言うとすぐに一方的に強制しようとする人がいる。

 統一と言っても国民の支持を得た標準化のことである。最初からAはB、CはDと言うように決めつけて強制しても定着はしない。「国電」を「E電」と言わせようとしたが国民にそっぽを向かれ「E電」は死語になってしまった。標準化は国民の側に立ってやるべきであり、最も良いものが自然に淘汰されて残り、それをもって標準化すべきである。それまでは自由に好きなように使ってもらって結構である。使い捨てのカタカナ英語は世の中をかき回すだけかき回していつの間にか消えてなくなってしまう。しかし、文化として定着したカタカナ英語は正しく扱わなければならないし、いずれは日本語への翻訳も考えてやらなければならない。


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