オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

精神年齢とは何だろう

2006年06月01日 | Weblog

よく「実際は40歳ですが精神年齢は30歳くらいです」などと自慢気に言う人がいる。

 年輩の人ほど良く口にするようである。「自分はまだ若いつもりでいる」と言うことを表現したいのであろうが、この場合に「精神年齢」と言う言葉を使うのはまずいようだ。実年齢40歳で精神年齢30歳であれば、知能指数は通常の人が100であるが、この人は75と言うことになる。知能指数75と言うことは、20歳の成人が15歳の中学3年生くらいの知能しかないことになる。これは自慢できるものではない。

若者との世代差を埋めるためには、自分の精神年齢を下げなければならないのだろうか?

 そんなことはないと思う。しかし、成熟した考えを若者にぶつけても若者は聞く耳を持たないか無視されてしまう。それよりも、若者の立場になってまずは若者を理解することが大切だと主張する人がいる。私にはそれで問題が解決するとは思わない。先輩の意見を聞こうとしない若者の態度が問題であるし、そのような若者を育て是認してきた先輩達(特に教育者)に問題がある。心理学的な精神年齢以前に、若者の閉鎖的な没個性の考え方を改善しなければならないと思う。もっと柔軟で自由な考え方ができるような教育が望まれる。

世の中の現実社会には、普遍的に答えがひとつということは少ない。

 3+4=7の式を例にとると、「3」「4」が要素であり「+」が動作であり「7」がその結果である。日本の教育は「3と4を足したらいくつになるか?」ばかりを教育している気がする。求めるのは結果で、しかも正解はひとつしかない。現実社会ではまず目標が定められて、これを達成するためにどうするかが問われ、しかも正解はひとつではない。計算問題を例にとると、「何と何をどうすれば7になるか」になる。当然正解はひとつではない。3+4も正解のひとつであり、5+2でもいいし、9-2でも、21÷3でもいい。

日本式教育は教える側にとっては便利である。

 正解がひとつしかないので、正誤が簡単に判定できる。その典型的なものが真偽法や多岐選択法の客観的な○☓式テストである。しかし、教える側に便利と言うことと学力向上とは観点が全く別であり、便利と言うことは手抜きをしていることに等しい。結果の真偽を判定する、または列挙された結果の正誤を判定することばかりの教育では能力が偏ってしまう。自分で結果を案出し作り上げる、またはその方法を模索するという教育も必要であろう。この結果は各人毎違ってくる。一人一人に対応しなければならないので教える側は大変だ。しかし、今欠けているのはこの一人一人の個性を重視した教育なのである。

個性を重視した教育が徹底すれば、

 年輩であることもひとつの個性であり、そのままで若者にも受け入れられる。精神年齢を落としてやる必要もない。精神年齢が高いのもひとつの個性であり、天才(知能指数140以上)の複雑で理解しにくい考え方も理解しようと努力するはずである。聞く耳を持たないまたは無視されることもない。なぜならば、自分自身が個性の持ち主なのであり、その個性を発揮した時周囲が「聞く耳持たないまたは無視される」では自分自身が困ってしまうはずである。当然、知能指数が低いのも個性であり、その感性から表現された言葉は複雑で理解しにくい考えを単純化するヒントを含んでいる。

相手を理解することと年齢の違いはあまり関係ない。

 「年齢が違えば考え方も違い世代間の断絶が生じる」等と騒ぐ必要はさらさらない。年令の違いも個性のひとつであり、考え方の違いは新たな情報交換の絶好の機会である。同じ考えの人から得るものは何もない。異なる考えの人を自分なりに理解しようとするところに知的な向上が生まれる。これは老若男女それぞれに同じことである。断絶が生じるのはそれぞれが受け入れようとしていないか受け入れてもらおうとする努力を怠っているか、またはお互いに個性的な魅力を全く感じていない、すなわち自分の個性を全く持っていないかである。


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