オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

日本語の曖昧さ

2007年05月26日 | Weblog

「あなたを愛していたなんて私とても愚かだったわ」

 という文章を英語に翻訳するとうまくいかない。手元に自動翻訳ソフトがあったら皆さんも試してもらいたい。そこで構文を変えて、「私があなたを愛していたのはとても愚かでした」とするとうまく翻訳できる。ところが、最初の文章と構文を変えた文章は微妙に意味が違う。どこが違うのだろう。まず「あなたを愛していた」人が私だけでないことである。最初の文章は、たくさんの人が「あなたを愛し」私はその一人だったということをほのめかしている。そして「私がとても愚かだった」のは、そんな一人に自分がなっていたことだとほのめかしている。

構文を変えた文章は、

 「他人はどうあれ私があなたを愛したことが愚かだった」と言う意味になっている。日本語の場合は「私があなたを愛していたのはとても愚かでした」という言い方はまずしない。文法的にはあり得てもこういう表現は非常にそっけなくて自分中心の印象が強く含蓄と広がりと余韻に欠ける。この含蓄と広がりと余韻の部分が曖昧さでもあるし、自分を埋没させるとともに客観的な目で表現する手法でもあるが、見方によっては無責任でもある。「自分が愛した」事実から目をそらしてごまかそうとしている。

そして、「愚かだったわ」という表現には独り言の雰囲気がある。

 自分に対しておろかだったことを反省して、その反省している言葉を相手(あなた)に聞かせて間接的に「その原因を作ったのはあなたで、全てはあなたのせいよ」という非難を暗にこめている感じがある。ここまで考えるのは私の考えすぎかもしれないが、少なくとも「私があなたを愛した」ことと「私が愚かだった」事実を淡々と伝えているだけではなさそうであり、そこには日本語独特の深みがあるようである。この深みを英語に翻訳することは不可能であり、日本語にはこのような曖昧な表現があちこちに存在するようである。

日本語の曖昧な表現は、

 受け取る側の現在の心情と周囲の雰囲気によって如何様にも変わることができる。まずは曖昧な表現をぶつけて相手の出方を伺い、相手の出方に応じて調和点を見出してゆくのが日本人的やり方かもしれない。曖昧な者同士が曖昧なやり取りをして互いに融合し曖昧なひとつの概念を作り上げ妥協点を見出しているのかもしれない。しかし、相手が曖昧を許さない異質のものである場合このやり方は通用しない。世界常識からすると相互理解は曖昧を排除するところから始まるのであるから、日本人も相手に合わせて曖昧を務めてなくす努力をしなければならない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« エコエネルギー | トップ | 優先順位の付け方 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事