オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

優先順位の付け方

2007年05月27日 | Weblog


我々一般社会人でも生活の場で優先順位をつける時がある。

 A、B二つのものに対して優先順位をつけるとして、①本人が勝手に優先順位をつけることができる場合と、②優先順位をつけられる方の了解を取って優先順位をつける場合と、③周囲の人も含めて納得させ優先順位をつける場合があると思う。我々一般社会人の場合は①の場合が多いが、社会性が強くなるほど③の場合が多くなるし、特に政治の場での優先順位の付け方はほとんどが③であると思う。ところが、あちこちで目にする政治の場での優先順位の付け方は①もしくは②の範囲に留まっており、何とも不可解で一般大衆は常に無視されている状態のままである。

沖縄サミットは何とか終わったが、この会場選びも①と②で優先順位が決められた。

 ①でもって「沖縄!」と決めたのは故小渕首相の一声であるし、②を考慮して大蔵・外相会談を福岡と宮崎で事前に開催した。ところが③に対する説明は不十分で一般大衆は「何故沖縄か?」「何故福岡か宮崎か?」はわからないままである。まず結論があってこれにみんなで後付で肉付けして行く手法が取られている。サミット参加の各国もその考え方が解らないのであれば対応に戸惑うことになる。ただ単なる「場所」としての選択であればどこでもいいのであるが、変な意味づけを後からされると困ってしまう。そして①と②の妥協の産物で歪められるとサミットの会議そのもの運営に影響が出かねない。主体は「サミット」であり「場所」ではない。米軍基地の沖縄でサミットを開催した日本の真意はいまだに解らないし、分散して会議を開催した意義も不明である。

地方自治体がいろんな誘致合戦を展開するが、

 最終的な優先順位を決定して、その決定に至った理由を明確にして、周囲の者がその理由に納得し、その理由にそって事業が展開され、本来の目的を効果的に達成することが重要であると思う。誘致合戦を見ていると、決定の前に既成事実を作ってしまったり、担当者のメンツを考慮してか何某かの配慮がされた曖昧な決定がなされる場合が多い。それで問題がないのであればそれでも良かろうが、多くの場合は政策が徹底せず、有耶無耶な効率の悪い事業展開となるのが常である。精力的に理路整然と説得して勝ち負けを明確に判定する姿勢はあまり見られないし、かえって意図的に有耶無耶にしようとしている。理路整然とした決定理由には異議を唱える余地はないが、有耶無耶には得体の知れない利害関係に基づく利権争いが陰で行われることになり、甘い汁を吸う輩が出てくる。

「判定」と言えば、プロ野球の審判に対する考え方がこの頃気になる。

 スポーツの試合においては審判は絶対であり、その判定には即刻従わなければならない。審判の判定に従わないのであれば試合は根本から成立しない。プロ野球の試合を見ていると、どうも監督やコーチや選手は審判を見下している感じがする。平気で審判の指導を無視したり判定を感情を露わにして直接非難したりする事に躊躇がない。そして、自分は審判と同等もしくはそれ以上の能力があり「審判よしっかりせよ」と言った態度でまとわりつくように審判に食いつく光景を良く目にする。判定に抗議することは許されるが審判を侮辱することは許されない。また、審判はこんな理不尽な行為に対しても毅然と対処し自己の確たる信念を貫いてもらいたいものである。

日本の伝統的スポーツの相撲は行司と勝負審判がいる。

 行司は勝負の判定役であり、たとえ勝敗が判定できなくても軍配団扇を勝方にかざさなければならない。ただし、勝負審判から「ものいい」がついて判定が覆されれば行司差し違えとなる。行司は現在でも腰に刀を差しており、昔から行司差し違えの時は責任を取って切腹する気概で土俵に立っているのである。野球の審判を見ていると頼りない行司といった感じを受ける。そして周りの監督、コーチ、選手が勝負審判と言った風情であるが、これではゲームは成り立たない。

再現性のあるスポーツの審判はじっくりと判定をすることが可能である。

 しかし、再現性のないスポーツは判定を変更することができない。判定に基づいて次の行動がすでに開始されているのであり、ゲームを止めることはできないのである。審判は直ちに判定を強いられ、その場での審判の判定は絶対でなければならない。例えばテニスで「アウト」を宣告した後で「イン」に訂正されてもボールはすでにどこかへ飛んでいっている。試合は流れており再現性はないのである。たとえ「イン」であってもその場で「アウト」と判定されたら「アウト」なのである。ただし、「抗議」は認められうまくいけばやり直しにすることはできる。しかしそれでも以前の「アウト」が訂正されたわけではないし、訂正されても困る。

政治の場で優先順位を決める場合もしっかりと判定すべきである。

 しっかりと判定するためには、まず「誰が」判定すべきかをはっきりさせて責任の所在を明確にすることだと思う。次に「何を」判定すべきかをはっきりさせることである。そして最後に「判定基準」を明確にすることである。これで判定結果に不服はあっても周囲は納得せざるを得ない。政治の場での抗議は通常検討段階でなされるべきであり決定直後に一方的に判定を覆すことは横暴である。所要の手続きを経て判定した人に対する不信任を表明し、判定基準の見直しを検討し、別の観点から次のチャンスを目指して新たな挑戦をし直さなければならないと思う。

政治の場での優先順位の決定において変な理屈が通用している。

 優先順位が「A次いでB」だとほぼ決定していても、これを強引に「B次いでAにせよ」又は「AとB同時にやれ」と圧力をかける人がいる。この圧力とは「天の声」である。この「天の声」をはねかえす「誰が」の人がいないし、判定すべき「何を」が不明確だし、「判定基準」もない。結局判定する人がいなくて、AでもBでもよければ、またAでなければならない積極的な理由を説明できる人がいないなら結果として「天の声」に従うことになる。果たして「天の声」とは一体何なのかが周囲に明らかにされることはない。まるでオウム真理教と同じような体臭を感じるし、教祖が不明確なだけにもっと始末が悪い。

結果として、

 何故Bになったのか、何故AとB同時にやらなければならないのかの理由が不明確で、担当者は今後事業を進めるに当たってもどうしていいのか皆目見当がつかなくなる事態に陥る。そして判定を受ける側は次のチャンスを狙おうとしても判定基準が不明確であれば対策のしようがないし、当然現在の事業と将来の事業がつながって行くこともない。その場限りの思いつきみたいなぶった切りの計画が進行して行くような様相を呈することになる。


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