オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

悪いことと良いことの判断基準

2023年12月14日 | Weblog

現役の頃中東で勤務していた時、

 ホテルの自分の部屋のテーブルに腕時計を置きっぱなしにしてしていたが、失くなることはなかった。部屋には何人もの従業員が掃除をしたり、ベッドメイクをしたり、テーブルの果物を入れ替えたり、消耗品や備品を補充したりしていたが、一度として私の物が失くなることはなかった。最初の頃は外国に来ている感覚から盗難の危険性を感じていたが、最後の方は全く気遣いすることなく過ごしていた。当然部屋には鍵もかけていなかった。まぁ、従業員はマスターキーを持っているだろうが、外部の人が侵入することもなかった。

私の赴任した国はイスラム教の国である。

 何人も悪いことはしてはならないのであり、悪いことは絶対に許されないのである。自分で悪いと思ったことは周囲がどうであろうと絶対やってはならないのである。反対に周囲から悪いと言われたり疑われることは絶対やらないのである。非難されたり疑われたりすることすら許されないし、そうならないように各人が最善の注意を払っているのである。これは子供の時から身につけられたもので、染み付いていると言ってもいい。そして、すべての人がその考えをしている。よって、嘘をついたり、盗んだり、人を傷つけたり、騙したり、周囲に害を及ぼしたり等はもっての外なのである。

炎熱の国であり、よく車が故障して道路沿いに放置されている。

 日本であれば夜の闇に紛れてハゲタカのごとく部品取りをする人がいて、車は無惨な姿になるのだろうが、この国では何ヶ月放置されていてもそのまま残っている。誰も人のものに手を出そうとはしないのである。公共の場所にあるものは人のものであり、たとえ落とし物であっても手を触れない。盗んだと疑われるのが耐えられないのである。「李下に冠を正さず」という日本古来の教えがあるが、まさにこの考えを厳正にきっちりと貫いているのである。ここの部分において日本とは文化が違うと思ってしまう。

海外勤務が終わって、ホテルを引き上げる時、

 要らなくなった物を捨てるつもりで、部屋の片隅に積み上げていたのだが、いつまで経ってもそのままなので、ホテル側に聞いてみると、お客の物には手を触れられないと言う。たとえ、ゴミ箱に捨てても、価値を認められるものは、選別されて机の上に置かれている。ホテルの管理人に、これは捨てる物だからホテル側で処分してくれ、と言って管理人に確認させ初めて捨てるつもりのものがすべてなくなった。そのぐらい厳格なことに感心を通り越して尊敬の念さえ抱いた。

悪いことをする者は子々孫々、民族、部族のため許されないのである。

 そういう者を生かしていては子々孫々、民族、部族が滅びるのであり、滅ぼす者でもあるのである。昔であれば悪いことをした者はそれが事実であれば民族、部族存続のため抹殺されたのである。許されたにしても、例えば、盗みをした人は、その場所へ行った足や、物を盗んだ手を切り落とされ、命だけは助かったという話を聞いた。なんとも野蛮ではあるが、そんな考え方が今でも明確に残っているようである。当然自分の子供にも徹底してそのことを教育しているのだろう。日本とは段違いである。

日本も明治時代以前は同じような文化があった。

 戦後の民主主義がその文化を駆逐しつつある。自分が悪いと思っても周囲が許せば、皆がやっていれば自分もやることに何の躊躇いもない。反対にこれを正当化の理由にして、それが認められているのである。それを「民主主義」という。間違いは、民主主義は「主」である「民」が正しいことが前提である。反対に「民」を正しい状態にする努力が欠かせないのである。「民」が間違っていれば、これを正す「個人」がいなければならないし、「個人」同士が議論を戦わせて正しい状態を維持しなければならない。

正しくても正しくなくても多数決で決めてしまうことは間違っている。

 正しいか正しくないかは多数決とはあまり関係ない。その規範は個人個人が持っている。その個人個人がお互いに議論し合って意見を集約し、その時点での正しい結論に導くのである。この議論の部分が必要で、この議論の中心は個人である。多種多様などんな意見であっても話し合い、議論し、あるべき姿を追求すれば、意見は正しい方向に向かってゆく。この段階で偏向した考え方を強要したり、誤魔化したり、扇動したり、誘導したりすると、正しい方向を見失うことになる。

正しいことを正しいと、悪いことを悪いと言える個人を育てるべきであり、

 正しいことが正しいと言え、悪いことは悪いと言える社会を作って行くべきである。悪いものを悪いままに放置していると、悪いものを正しいと主張する人達が増えてゆく。それが許されるのも民主主義である。正しいものも果たして正しいのかを常に見定めてゆくことも重要だろう。民主主義の制度に頼り切って、個人個人が正しい事と悪い事の判断基準を見失ったのでは個人も社会も改善されることはない。メディアを賑わしている様々な事件を見ていると、まさに個人の判断基準が混乱しているとしか思えないのである。


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