オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

個人攻撃

2018年04月22日 | Weblog

あちこちで個人攻撃が絶えない。

 いわゆる有名人が標的にされている。標的にされたいわゆる有名人は一方的に攻撃に晒されて、攻撃する側は多くの場合大衆の前に現れることはない。大衆を隠れ蓑にしたり、大衆の代弁者であるメディアを味方にして対象のいわゆる有名人を攻撃する。通常であれば攻撃されたいわゆる有名人はなすすべもなく大衆の前から姿を消さなければならない。こんな理不尽なことが日常茶飯事化している。困ったものである。攻撃は一点に集中される。確かにその攻撃目標は正当で適切かもしれないが、果たして全体をとらえているのだろうかと疑問に思えることが多いし、疑問は最後まで払底できない。

果たして全周囲に弱点を持たない人間なんて存在するのだろうか?

 誰しも一つや二つの弱点は持っており、その弱点を攻撃されれば弱い立場に立たされることは必至である。と言うことはどんな人でも何某かの事で攻撃される可能性が皆無とは言えない。攻撃されないのはいわゆる有名人でなく攻撃しても意味がないもしくは攻撃する価値がない人間なのである。私自身いわゆる有名人でなくて良かったと心底安心しているし、たくさんの弱点を持ちながらも誰にも攻撃されることのない今の状態を感謝し、この安楽な生活が未来永劫続くことを切望している。いわゆる有名人の方々はご愁傷様である。有名であるがために攻撃目標とされ、苦労して営々と築き上げた名声を剥奪され追放される。まぁ、これで攻撃はされなくなるのだろうが、可哀そうで仕方ない。

人間が個人攻撃するのには特徴がある。

 一つは、同一の集団内にしか個人攻撃はないと言うことである。最初に個人を攻撃するのは個人である。それを大衆が賛同し支援し場合によっては扇動して問題が大きくなっていく。本来は個人と個人の問題なのである。そして、この個人は両方ともある特定の集団に属している。全然関係のない個人が関係のない個人を攻撃することはない。両者の関係において期待と信頼を裏切ったことによる恨みにより個人攻撃がなされるのである。全然関係のない赤の他人同士が個人攻撃しあうことはない。一蓮托生と言う言葉があるが、攻撃される側も攻撃する側も善くても悪くても行動・運命を共にしているのである。

二つ目は、攻撃の理由は極めて原始的なことなのである。

 人間の本能的な感性に訴える事象が攻撃の理由となりやすい。誰でも共感できる感性を武器に相手を攻撃すれば多くの人の賛同を得やすいし、わかりやすいので拡散もしやすい。メディアにも取り上げやすい。セクハラ、パワハラ、マタハラなどはその最たるものである。その事実を突きつけて相手を攻撃することができる。果たして事実か、違法か、不倫か等にあまり関係なく不快感をもって相手を攻め立てることが可能である。しかし、不本意であったらその場でその意思を相手に伝えて拒否すればいいのであるし、最悪その場から去れば問題は解決するはずである。それでも問題が解決しない場合には相手を訴えることになる。あくまで個人対個人の関係なのである。

個人攻撃の問題を分析してみると、

 ある一つの事象に端を発している。その事象はあくまで個人対個人の関係で解決されるべきなのである。ところが、これが大問題になり、国を挙げて大騒ぎしている。何故こうなるのか不思議でしょうがないし、何を騒いでいるのかも定かでない。たぶん、この問題をどのように収束させるかで大騒ぎしているのだろうが、本質のところをとらえていないので、騒ぎは空転するばかりである。個人的な問題であれば、個人に任せればいいのであり、訴えられた個人が責任を取って対処してもらえばいいのである。そこに組織や国が出てくるのでおかしなことになるし、周辺の取り巻き連中は組織や国を巻き込むことに躍起になっているし、巻き込むことができれば大成功である。

もし、問題があるとしたら、

 被害を受けた人がそのことを拒否できない状況にあったり、その場を立ち去ることができない状況にあったことである。何かを意思に反して強制させられていたのだろう。その強制が問題なのではなかろうか。誰が強制していたのだろう。たぶん仕事を請け負っていたために、また仕事のためにある程度の相手からの許容できない行為に対しても我慢せざるを得ないのだろう。それを強制していることが問題であり、この強制に便乗してやりたい放題をやる輩も問題である。そういう意味で被害者も加害者と同じ集団に属し同じ環境を共有していると言える。この強制さえなくなれば、これを拒否し、その場を立ち去ることが可能であり、個人対個人の関係で何も問題は生じないはずである。

セクハラ、パワハラだと言うのなら、

 「これはセクハラですよ」「これはパワハラですよ」「これ以上やると訴えられますよ」と加害者である相手に直接言ってやればいい。それでも辞めないならどこかに訴えるしかない。自分の職場に訴えるなら、その職場は自社の社員の問題として、組織で対応する必要がある。これも発端は被害者個人の申告であり訴えである。ところが、通常は組織側は穏便に済ませようとして問題をなかなか取り上げてもらえないのが実情のようである。そのために本人がメディアに情報提供しメディアが話題性があれば大きく取り上げて大々的に報道されることとなる。そうなると日本国中が大騒ぎとなる。なぜならば、加害者である話題の主がいわゆる有名人だからである。大物であればあるほど大騒ぎになる。


個人攻撃を回避するためには、

 同一の集団内から離脱すればいいのである。相手との関係性を消滅すれば攻撃する必要もないし、攻撃されることもない。そして、個人攻撃する側もされる側もその原因は極めて原始的で単純なことだと認識すべきである。きっかけは何であれ不快である、嫌いである、害を及ぼした、気に入らない、期待外れだったというような感情から個人攻撃に発展する。お互いにこの単純なきっかけのところでうまく対処すれば問題が大きくなることはない。個人攻撃される側はこのような原始的な単純なことを些細なこととして無視したり排除したりしないことである。道徳とか倫理とか哲学とか法律とか理屈や論理では解消できないのである。相手の不快感、不満感を何とか解消しなければならない。

うまくやるためにはスピード感が必要である。

 こじれればこじれるほど問題が深刻化してゆく。ところが、最初の対応が悪くて、さらに問題が大きくなった時の対処も後手後手で的外れでさらに問題を悪化させている。問題を無視したり排除したり無かったことにすることに躍起で、問題の発端の相手の気持ちを理解していないのではないだろうか。組織を挙げて相手の気持ちを理解するというのも困難である。相手の気持ちを最初に理解しなければならないのは加害者である個人そのものである。その加害者が被害者の気持ちを理解しようとしないためにいつまで経っても問題は解決しないのではないだろうか。個人同士の問題を国を挙げて騒ぐのはやめにしてほしいし、こんな話題で大騒ぎするメディアもいい加減にしてほしい。


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