川はいつから危険な地域として立入が禁止されたのだろう。
私達が少年だった頃は、川は解放されていて格好の遊び場になっていた。水遊びはできるし、探検はできるし、魚は捕れるし、清流であれば手で水をすくって直接飲んだりもしていた。不幸にして水の事故で亡くなる子供も居たには居たが、今で言うところの交通事故よりも極端に少なく、気をつけろと注意はしても、危険だから立ち入るなと言う大人達は居なかった。交通事故が危険だから道路に出るなと言わないのに、危険だから川に近づくなというのは矛盾している気がする。それとも、いつの間にか川を危険な地域にしてしまったのだろうか?
確かに川は隔絶された空間になりつつある。
いかめしい護岸工事や消波ブロックで接近するのさえ拒否しているし、入り込んだら危険な状態になっている。子供はもちろん大人でさえ近づけない。確かに川は増水して氾濫すれば危険な状態になるが、ほとんどは優雅な流れを湛えている。それなのに危険を回避するだけの施策だけを前面に出して、徹底的に作り変えてしまった。そして、汚染した川では泳ぐことさえできない。もっと人間と川が共存できるような形で整備できなかったものだろうかと思う。幸いに公園や運動施設として整備された河川敷の風景はとても自然で人間味あふれるほのぼのとした空間となっている。
この前、奥日光に行って来た。
途中に、岩盤の上を流れる清流があって、多くの鮎釣り客でにぎわっていた。鮎が釣れるか釣れないかは別として、清流はとっても澄んでいて冷たく、手ですくって直接水を飲むことができた。何年ぶりの体験だろう。水道管かペットボトルからしか水が飲めない生活は味気ない。大自然の中でお天道様に見守られながら豊かに流れる川から豪快に直接飲む水は格別である。こんな自然をいつまでも残したいものである。自然のミネラルが溶け込んだ水は何者にも代えられない価値があるし人間には作り出せない。たぶん森が作り出した水だと私は思っている。森を育てる事も大事で、当然川を汚さないことも大事で、人間の出す大量の汚水や汚染物質を流し込まないことも大事である。
そんな自然を満喫した経験をして東京に帰ってきた。
東京のお濠の水の汚いこと。ほとんど透明度はなくよどんでいるし、ヘドロのドブ臭いアンモニア臭がする。思わず鼻と口を押さえてしまうほどのひどさである。都会人はこれを普通のことと考えているのだろうか?私には信じられないし、何とかしようと思わないのだろうか?ドブ池も異常だが、これを見ても何も感じない都会人も異常である。こんなドブ池の存在を許しているから悪質な犯罪や汚職や詐欺、強盗、殺人などが絶えないのだろうと思う。仕方ないとあきらめたところから堕落は始まる。根本は同じような気がするし、汚いものには汚いものしか寄りつかないし、汚いまま放置していると汚いものは益々増殖してゆく。
東京のお濠でも子供達が自然に気持ちよく水遊びできる環境を目指したい。
荒川や多摩川の河川敷は整備されていてジョギングしたり散歩したり、子供達は水辺で遊んだりである。本当に水のある風景は心が癒される。水がふんだんにあることは豊かさの象徴でもある。中近東の砂漠の人々は日本を天国のような国だと思っている。水が豊富で緑が豊富で動植物も生き生きとして農作物も家畜もふんだんにあって何も困らないと思っている。油断すると死が待ちかまえていて生きることに必死の砂漠の民とは大違いである。この環境をいつまでも維持しなければならないし、人間と自然が共存共栄できる環境を整備しなければならないと思う。せっかくの恵まれた豊かな自然を台無しにしてしまうような過ちは犯してはならない。
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