情報は活用するためにある。
集めた情報を自分なりに分析して、一つの事実と思われるものに集約したあとは、これを活用しなければならない。活用しない情報は意味がない。活用するとは具体的な行動に結びつけることだと思う。そう考えた時、情報の洪水の中にいる我々は、どんな風に情報を活用しているのだろうと疑問に思えてくる。ほとんどが何かの参考に聞いておく、好奇心を満足する、知識として蓄積しておく、聞いたけれども忘れてしまうみたいなことに終わってしまう。そして、本当に具体的に行動しなければならない時には、あまりにも情報が多すぎて混乱して迷ってしまうことがほとんどである。何のための情報だろう。
一つの原因は、情報が多すぎることである。
情報を集める時に取捨選択しなければならない。何でもかんでも集めたのでは飽和してしまう。そのためには、目的、目標を持って情報を集めなければならない。端的な言い方をすると、ある程度結果を見越して情報収集するのである。ある行動を起こすために、どの様に行動をすればいいのかを明確にするための情報集めなのである。それ以外の情報は切り捨てなければならない。漫然と情報集めをしていても何も見えてこない。よって、情報の集め方は千差万別で各人の持っている目的、目標によって違ってくるのが当然である。その点、マスコミの情報がみんな同質の内容なのには疑問を感じるし、目的、目標が見えない、もしくは不明確なまま漫然と情報を集めて提供している気がする。一見間口が広そうで何でも扱っているように見えるが、種々雑多にしか過ぎない未整理の情報を垂れ流している印象である。
もう一つの原因は、情報を分析しないことである。
表面的かつ一面的な情報に左右されて本質的な事実を見出す分析を怠っている場合が多い。一つの事実で全てを判断する、もしくは一つの事実を普遍の事実に拡大解釈することによる誤解でもある。直感的、感情的な理解に訴えて一見説得力はあるが事実は歪曲されている。端的な例は、北朝鮮や中国に関する報道である。冷静な判断としては、様々な特徴を持つ国が存在するのは何も不思議なことではなく、世界各国にはもっと理解できない国が存在する。その相違する部分を取り上げて日本にとって理解できない国で、相容れない国だと決めつけることはおかしい。全く違うような国でも協調してゆく必要性もあるし、違うからこそより一層協調する努力をしなければならない。世界中に日本と同じような国は存在しないし、日本の国も世界各国からすると変わった国なのである。
最後に、まかりなりにも情報を自分なりに分析して活用する段階の不備である。
活用する部分を大規模な、状況によっては全部に適用してしまう。適用する部分は具体的になればなるほど狭く小さくなる。これらの個々の分析の寄せ集めもしくは集大成されたものが大きな変化へと結びつくのが普通である。具体的でなく抽象的な内容に留まるものは、早とちりの結論に結びつけないことである。右か左かではなく、右よりの左もあるし、左よりの右もあるし、真ん中もあるし、極端な左も右もある、と言った感じである。確定できないことは確定しないのである。日本人の几帳面さで、何でもかんでも確定しないと気が済まないようだが、意味のない性急な確定した結論は状況によって自分で自分の首を絞めることになり、結局は周囲の不信感を集めるだけである。いったん決めたことは守らなければならないのであり、守る自信のないことはむやみに決めないことである。
決めたことは絶対やり抜く人達がいる。
この人達は、絶対やり抜くことが正義だと考えている。決めたことをやり抜かないことは信義に反すると思っている。その代わり、やり抜く自信のないことは決めない。ただし、起こった事実は変えようがない。そして、起こった事実については未来永劫子々孫々忘れない努力をする。起こった事実に対する対応はある時は復讐であり、ある時は恩返しである。簡単に水に流したり、手のひらを返すように考え方を変えてしまう日本人には考えられないだろうが、これが彼らの民族性であり、正義であり、歴史であり、彼らを存在させる根本のアイデンティティーなのである。ただし、彼らに欠けているのは寛容の心であり、柔軟性だと思うが、これは民族の生い立ちに起因するものであり、簡単に変えられるものでもない。そして、彼らは今日も世界各地で正義の戦いを繰り広げている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます