オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

小人閑居して不善を為す

2009年11月01日 | Weblog

本来小人は閑居できない。

 常に生きることにあくせくと働き続けなければならないし、目の前の障害を克服すべく常に努力を強いられるのが通常である。小人の端的な例は人間ではないが野生動物であろう。野生動物が閑居する事は考えられない。まずは動物の集団から離れて生きていくことができない。例え孤高のライオンであろうと一匹狼であろうと獲物である動物の集団に依存して生きている。そして生を全うするために精一杯で心静かに暮らすことも無理なことである。閑居するとは、世間の騒がしさから離れ、世俗を離れて静かに暮らすことで、周囲に惑わさられず自分を見つめて真実を探求する姿勢でもある。自分が正しければ正しい結論が得られるはずであり、周囲の意見は自分自身ではないし、真実かどうかも疑わしい。

小人が閑居できるのは世の中が極めて平和なのである。

 平和すぎるのかもしれない。毎日生きることに汲々している身には平和こそないが、とにかく生きる目標に困る事はない。毎日降りかかる生きるための対応に一生懸命過ごしていれば一日が過ぎてゆく。小人が生きることに汲々する必要がなく、閑居できるほど世の中が平和なのである。見渡す限り平和で満たされている。だからこそ閑居できるのかもしれない。大人(たいじん)は目先の欲望を抑制して閑居できる術を持ち、閑居している間に自分を客観的に冷静に分析して現実の有り様を見つめている。そしてもっと大きな目標を目指している。小人は閑居すると目標を失いやる気をなくして空虚な空しさだけで心を満たして途方に暮れる。

その小人が閑居して、さらに不善を為すのである。

 そんな世の中は、まったくをもって平和なものである。平和ボケしているくらい平和そのものである。本来小人は不善を為す勇気と能力がない。大人がすべて善を為すと思ったら大間違いである。善と不善の使い分けを心得ている。善と不善の違いを知り尽くしている。小人が閑居して不善を為すのは、閑居して途方にくれ、何かをせねばと節操も無くもがきあがくために、結果としてとんでもない不善を為すのである。小人も大人も閑居して善なり不善なりを為す世の中になると、大人が不善を為すと小人と勘違いされてしまう。結果として大人は常に善を為す事しかできず、不善を為すと失脚させられてしまう。平和ボケした国では大人も住みにくくなるし、大人が育たなくなる。いや大人となる素質を排斥してしまうようだ。困ったものである。

一般大衆が言う「不善」とは、女、金、酒、地位、名誉などに関ることとなろうか。

 この不善を為すものは「大人(たいじん)」ではないと言う論調となる。そして生身の人間に「聖人」を要求する。本当の大人はこれらの不善を適当に扱う技を持っているし、他人に迷惑をかけないで行う術を身につけている。そうであれば不善を為しても問題ないはずである。ハッキリ言うと人間の生存そのものが不善であり、不善を根底に人間が成り立っている。人間とは罪深き者である。そこに端を発して善を追求する情熱が生まれる。不善が善の土台になっている。ジャンピングボードかもしれない。そして大人は小さな不善は別として素晴らしい善を成し遂げる勇気と能力を持っている。「大」と「小」の違いは志の高さと能力、可能性の大きさであろう。大人はでっかい不善もでっかい善も成し遂げるキャパシティーを持っているが、不善に対する抑制力で最終的に不善のエネルギーでさえ善に集約させる事ができ、さらなるパワーを発揮する。

平和ボケした世の中で英雄は出現しない。

 平和ボケした一般大衆がみんなで足を引っ張り合って小人も大人も見境なく排斥してしまう。結局、それぞれの人々の努力の指向がバラバラでベクトルが合っていないのである。平和ボケが解消した時、ベクトルがよりよく生きるための方向に集約し、その先端に英雄が現れる。平和ボケを解消するためには大人に閑居してもらって、大いに強烈で素晴らしい善を為す事が必要なのである。そのためには小さな不善に目をつむる寛容さが必要となる。小さな不善で全ての評価を決め付けてしまう短絡的な思考は大きな善の遂行を一生懸命阻止している行為と同じである。いい事も悪い事も含めて人間の人格であり、理想的な人間は絵に描いた聖人君主ではなく、不善を根底とする現実に存在するより良い生き方を追求する人間でもある。


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