昔、私がまだ30代前半で下っ端として仕事をしていた時、
上司の部長に個性的な人がいて、「私は下っ端は当てにしない。中堅以上を信頼して仕事をする。」と明言した。本人としては「中堅以上頑張れ」と叱咤激励したつもりかも知れないが、「下っ端」の我々までその話が聞こえてきて、早速下っ端同士が飲み屋に集まってよからぬ相談を始めた。実は下っ端同士はこれまでにもしょっちゅう行きつけの飲み屋に集まって萬相談や憂さ晴らしをしていたのである。
「当てにされていないならそれなりの仕事をしよう」
「当てにしないなんてけしからん文句を言おう」「仕事を本当に支えているのは我々下っ端だ」「いっそのこと仕事をボイコットしてみようか」などと無責任な会話が飛び交った。そこで決まったことは、まずは当てにされない下っ端グループで任意団体を作ろうと言うことになった。団体の名前は「X会」。「X」は開発コードのX(エックス)を表し未知数であり無限大の可能性を秘めていることの意味を込めた。反対に「X」はペケの×(バッテン)を表し部長の言うところの当てにされないグループを表す意味を込めた。
グループ内では「エックス会」と称し、
対外的には(特に部課長の前では)「ペケの会」と称して、公然と定例の飲み会を開催していた。入会の条件は「下っ端グループであること」だけで誰でも参加できた。定例会はくだらないおしゃべりから時には仕事の話、悩み事人生相談、趣味の話などで毎回盛り上がっていた。特に強制もしないのにみんな何かことがあると気軽に集まって情報交換していた。部長も「X会」の存在は承知していて話題がそのことになると苦笑いこそしていたが、特に拒絶や無視をするわけでもなく冷静に見守っていた。
当時の「X会」のメンバーは、今考えると個性的な人達ばかりであった。
ちょうど世の中の流れが変換点にあって、重要な決心事項が多く責任は重大であったが、各人淡々としかも着実に仕事をこなしていた。また、自分の仕事にやり甲斐を持って前向きに積極的に仕事をこなしていた。その頃の「重大な決心事項」の結果が今、現出しているわけであるが、本質的な部分では状況判断の誤りはなかったと自負している。そしてその成果が今花を咲かせている。
これらの成果は「X会」のメンバーだけの功績であると言えるだろうか。
私はそうではないと思う。当時下っ端だった頃は下っ端としてしか考えていなかったが、中堅以上になってみると、全体が見えてきて、例の個性的な部長が言われたことが理解できるようになった。下っ端はやはり見習いであり、これから世の中に出ていこうとして暗中模索しているグループである。当然知識も経験も少ない。この下っ端に将来を委ねてしまうような冒険はやるべきでないし、下っ端に期待して重責を負わせるのは酷である。
当時の下っ端が淡々と着実に仕事ができたと思っていたのは、
概略の方針は決まって、大筋の考え方を示されて、その中で細部の仕事をやっていただけである。確かに細部の具体的な仕事をやらないと現実に実行可能なものにならないが、重要なのは概略の方針と大筋の考え方である。例の個性的な部長が言いたかったことは、このことであろう。「概略の方針と大筋の考え方を決めるのは中堅以上の仕事だぞ。下っ端に任せては絶対ダメだ」と言いたかったのであろう。
世間一般でよく、「我々の時代は終わった」「これからは若者の新しい時代だ」
「若者に将来を託す」「若者は無限大の能力を秘めている」などと中年世代以降が若者を持ち上げた言い方を聞くが、中年世代以降が先輩としての責任を放棄して若者に一方的に重荷を負わせるのはいただけない。若者に将来を託しているのは、今現在の若者ではなく今現在の若者が将来大成することを期待して夢を託しているのである。そしてこの大成した姿は現在の中年以上の人達の姿として現出しているのである。将来を支えるのは若者かも知れないが、現在を支えているのは中年以上の人達である。責任を放棄してはいけない。
若者には経験がないのである。
中年以上の人達は自分達の経験に基づく知識やノウハウを若者に教えなければならない。将来は時代遅れになる知識であっても、現在の最先端の知識を教えなければならない。これまでの過去に蓄積された知識がなければ若者は未来の知識も築き上げることはできない。これが教育である。すぐに使える知識でなければ教える価値がないというのは間違っている。過去の知識はあくまで素材でありこれをもとに新たな知識を産み出すのである。この素材がなければ新たな知識は生まれない。明日すぐ使える知識を教えるのではなく、未来永劫知識を生み出せる素材と方法をできるだけたくさん教えてやるのである。
人間が生まれるとき、生物進化のすべてのプロセスを踏む。
1個の細胞から微生物、虫、魚、両生類、鳥、ほ乳類、人と短い間に生物誕生の太古の昔からの現在までの進化のプロセスをすべて体験して「人」として生まれる。「人」として生まれた後は人類史上の過去の体験をものすごいスピードで教え込まなければならない。これが教育である。人間は乳幼児からおおむね成人までこの教育がなされる。過去の経験は無駄だと言われても過去の経験の上に立ってしか未来は語れないのである。無駄かも知れないが「人」はこれまでずっとこの過去の経験の再現と再入力を繰り返してきたのである。この蓄積があるために生物界の頂点に立つことができていると言っても過言ではない。この蓄積とこの蓄積された経験を覚え込ます過程がなければ人類の進歩はなく他の生物と同様に退屈な無限の繰り返しがあるだけである。
若者にはこの過去の経験の蓄積を覚え込ませなければならない。
義務教育でもいい、家庭教育でもいい、社会教育でもいい、職場教育でもいい、大学教育でもいい、とにかく覚え込ませなければならない。この頃の教育は「すぐに役に立つもの」「わかりやすいもの」「手順としてのノウハウ」に偏重しがちであるが、過去の事実としての事例を断片的にたくさん教えることも重要である。その事例の中にヒントがあり、断片としての事例を自分なりに系統立てて新たな知識体系を創り出して行くのである。そのノウハウを身につけさせることが最も重要である。これさえ身につけていれば素材をもとに未来に向かって知識を無限に産み出すことができる。
知識は調べようと思えばいくらでも記録として残されており素材に困ることはない。
残されていないのは今現在生きている生身の人間が実体験として経験した知識でありノウハウである。これを若者に伝えて行かねばならない。これは過去の結果としての事実ではなく現在進行形の生きている知識でありノウハウであると思う。この過去と未来を結ぶ重要な接点の役割を果たすのは、今現在を支えている中年世代以降であり、これが彼らの仕事であり責任でもある。何故今こうしなければならないのか、どのように考えてこのようにしているのか、抱えている問題は何かなど伝えていかなければならないことはたくさんある。
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