オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

マスコミは物語を語らないでほしい

2008年08月23日 | Weblog

マスコミの報道を聞いていると、

 思いこみが激し過ぎるのではと思われる場面に多々でくわす。基本的には現在進行中の事件は真相は解らない場合がほとんどである。過去の重大事件でさえ真相が解らないままになっているものが多い。そして、「科学的」に考えると「ほんとうの真相」は最後まで解らないというのが事実である。真相に近い結果をもって公式発表としているだけである。ましてや、毎日際限なく発生している中小の事件は、徹底的な調査もされないままうやむやに終わっているのがほとんどであると思う。

人間の考えることは曖昧で、どれが真相なのか解らない。

 自分のやっていることでさえ、詳細にその動機と理由と思考過程を追求されると説明できないことばかりである。過去の重大事件に関係した張本人に真相を問うても同じであろう。あくまでも現実に起こったもしくは起こりつつある事実から類推するしかない。しかもその事実関係が完全に辻褄が合っていると思い込むのは幻想である。そんな訳がない。しかし、そこに事実と事実を結ぶ筋書きがなければ聞く方としては納得できないし不安である。こうして、あくまで類推であり推測にしか過ぎないひとつの物語が作られて行く。

マスコミの報道は真実を伝えるものだと思う。

 しかし、その真実が作り上げられたものでは「真実」とは言えない。辻褄の合わないことを人は「真実」とは言わない。辻褄の合わないことは虚偽であり、少なくとも「疑問を残した真実」である。ところが、現実に起こっている事実は辻褄の合わないことばかりである。見えないところで辻褄が合っているのだろうが、それを見つけて立証することは不可能に近い。不可能を可能にするためには類推や推測でもっともらしいこじつけをするしかないが、これは「真実」ではない。

真実や真相が解らないのであれば、判明している事実だけしか伝えられない。

 少なくとも、判明している事実は真実である。ところがサービス精神旺盛なマスコミは「視聴者のための解りやすい報道」に専念し無理な辻褄合わせをする。もっと悪い場合は視聴者数や購買者数を増やすためにでっち上げや興味本位の事件に仕立て上げてしまう。これは本来許されるべき行為ではない。この思いこみの激しい報道が目について仕方ない。もっと冷静に対応すべきであり、類推や推測であれば、類推や推測であることを事前に明言することと、その類推や推測をした本人を明らかにすることと、類推や推測した根拠を明らかにすることが必要であると思う。

事実だけしか伝えない場合でも脚色は可能である。

 事実は現実に起こったことであり、その解釈は無数に存在する。この断片的な事実をつなぎ合わせていくと、事実だけでひとつの物語ができる。この物語にふさわしくない事実を伝えようとしなければどのような物語でも作れるし、小さな事実をもとに曖昧な思いこみを膨らまして行けばどんな結末にでも誘導できる。このような物語の信奉者は事実を認めるか認めないかでその人の人格なり思想を判断する。事実は事実であり動かしようもないが、この事実を主張する人を無視(ひどい場合は抹殺)しようとする。「王様は裸だ!」といった人の勇気は尊重しなければならないし、「心の邪悪な人には衣装が見えない」と言われて、みんなで事実を歪曲してしまうのは愚かである。

類推や推測がさも真実であるようなごまかしや、

 選択した事実だけによる情報誘導は不義である。このごまかしや情報誘導が事実を歪曲してしまい、大衆をして感情的な思いこみの行動に走らせる。悪いものはすべて悪い、良いものはすべて良い、辻褄の合わないことは排除せよ、大多数が賛同する考えが正しい、というような危険な方向に突き進んでしまう。和歌山保険金詐欺事件やオウム事件等においても、例えば被疑者の自宅の塀に誹謗中傷の落書きをしたり、オウム関係者と言うだけで何もしていない人を一方的に排除したりという行為が発生し、しかもこの行為を止めようという主張は全くなされないで黙認してしまう。この行為に反対することは同じ穴のムジナと思われてしまいそうだ。しかし、このような行為は本来であれば許されるべきものではないし、相手が犯罪者であろうとなかろうとなされた行為は非合法の犯罪であり人権侵害である。

このような行為が間違っていると冷静に判断するためには、

 相手の立場になってみることである。もしも自分が相手の立場であったらどう思うかを思いめぐらすことである。「私は詐欺事件やオウムとは一切関係ない」と断言できる人であっても、例えば、交通事故の加害者となったとき自宅の塀に「人殺し」と無断で大書されたら・・・、自分の所属する会社の不正が発覚し、そこの社員と言うだけで立ち退きを強制されたら・・・、などちょっと観点を変えればこのような行為が理不尽であることが解ると思う。交通事故の加害者になることや、自分の所属する会社の不正が発覚することは当然誰の身にも起こりうることなのである。

マスコミの事件に関する記事には、当然その原稿を書いた人がいる。

 しかし、通常であればその原稿を書いた人は我々の前には現れない。我々の前に現れるのはその原稿を読む人でありその原稿が書かれた印刷物そのものである。場合によっては文責を明らかにしたものもあるが、それでもその人がどんな人なのかは知る由もない。そういう中で事件に関する記事が作られて行く。事件をどう扱うかはこの無名の原稿執筆者に左右され、それに加筆修正がなされて最終的な記事となる。考えてみればマスコミの力は凄いものであり、それだけの力が与えられているわけであるが、それだけに当然責任も重大である。そう考えると、現在のマスコミは安易な報道になりすぎてはいないかと心配になってくる。


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