アウトソーシングというと新しい概念だと思われている。
確かに言葉としては新しくて適当な和訳もなく、「外部委託」等という概念のわからない日本語になっている。本来の意味としては「ソース(souce)」を「アウト(out)」にすること、すなわち資源を外部に求めることである。私としては、外部に要求を満足する物があるならばこれを大いに活用する考え方だと思っているが、日本の一般的な考え方は、外部から部品を調達すること、業務の一部を外部に委託することとなっているようである。同じようであるがニュアンスは異なる。日本の場合は経費削減のための効率化・合理化の一環としてとらえているが、本来はよりよい物を作るための方策であり、複雑化・大規模化した製品作りの分業化の考え方であると思う。
何もかもアウトソーシングしてしまったら、手元に何も残らない。
自社の地位・役割をしっかりと認識して何をアウトソースに委ね、何を自社の任務と位置づけ、結果としてどのような製品を作り出すかが重要だと思う。経費節減のため、儲けがないから、製品コストを安くするためだけでアウトソーシングしていては、同一の製品を大量生産する場合は別として結果的に良い製品はできあがらない。また、自社の勝ち目の部分をアウトソーシングしてしまったのでは存在価値を失ってしまう。そしてアウトソーシングが手抜きの口実になっても意味がない。他人のふんどしで相撲を取ることとは全く違う。外部の優秀な能力を活用としているのだから自分のふんどしを引き締めてかからないと元も子もなくしてしまう。
わかりやすくするため、家計で考えてみると、
家族の食事をすべてアウトソーシング(出前か外食)してしまったらどうなるか。多分一般家庭であれば出費がかさみ家族の栄養状態は悪くなり、下手をすると家庭崩壊につながりかねない。アウトソーシングしないで済んでいるのは、家族思いの優秀な料理上手やりくり上手の主婦がいるからである。このような主婦がいない場合はアウトソーシングするか家政婦を雇わせざるを得ない。果たしてこれが効率的で合理的かというと疑問を抱いてしまう。主婦がいるにもかかわらずアウトソーシングをする場合は、主婦が別のことで忙しい(共働き)か、手抜きをしているのである。いずれの場合も家族の幸福のことを考えると推奨できることではない。
本来、日本の職人は与えられた仕事に関しては全て自分自身で直接やった。
自分で直接やらないと気が済まないのが職人気質である。ただし、自分の仕事の領分はわきまえており、様々な職人の分業によって製品作りがなされていた。たとえば扇子や足袋や着物等である。最初から最後まで一人で作り上げるわけではない。糸屋、染め物屋、裁断屋、縫子等に分かれている。そういう意味では理想的なアウトソーシングだったと言えると思う。与えられた仕事の領分は隅々まで自分の責任できっちりとこなしていた。この自分の責任でやるべき仕事の一部を他人に任せるなんて言語道断である。
最新の画像[もっと見る]
- 議員先生と学校の先生との違い 2年前
- SDGsともったいない精神 3年前
- 発想の転換 3年前
- 発想の転換 3年前
- ワンニャン仲良し 18年前
- ワンニャン仲良し 18年前
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます