オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

自己決定責任

2018年04月10日 | Weblog

先日顔にできものができたので受診した。

 大したものではないので近所の適当な皮膚科の病院へ行った。診療した先生は症状について質問すると患部を子細に見もせずに検査しますと言い、カルテに書き込みながらこちらの顔さえ見ないで看護師にできものの治療と検査と投薬の指示をして診療は終わりである。診療すべき患部は目の前にあり、直接見てもらえれば症状がどうなのか、軽症なのか重症なのか悪性なのかのおおまかな判断はつくはずである。そして、その後で重症もしくは悪性の疑いがあった時に検査するのが当然だろうと思ったが、結局私は何も言えないまま診療は終わった。検査結果は1週間後だと言われた。

医者の先生様も毎日大勢の患者が押しかけて大変なんだろう。

 いちいち直接診察していたのでは身が持たない。ただのできものくらいは簡単に処置したいのだろう。しかし、患者は「もしかしたら質の悪い病気かもしれない」と不安になって病院を訪れているのである。まずはその不安を解消するのが最初の診断であろうし、そのくらいの診断は医者であれば初診で判断がつくはずである。その判断さえ自らやろうとせず検査に回してしまう考え方に腹が立ってしょうがない。それくらいの医療の知識はあってその知識を生かして自ら診断すべきであろうし、それが医者の仕事だろうと思った。結局はできものはいつの間にか治って、検査結果も聞かずにその病院には二度と行くまいと固く決心した。

この頃は自分で判断・決心する人が少なくなっている。

 何かと言うと周囲の状況やら情報やら検査や試験や分析結果に頼ってしまう傾向にあると思う。そして、判断・決心した理由は自分の中にはない。当然自分では納得する説明もできないし、結果に責任を取る気もない。その最たるものが数値情報である。数値情報を金科玉条のように絶対視するが、数値情報なんて今現在の局所的な測定値に過ぎないし、測定方法によってもいかようにも変わってくる。結局は参考情報にしか過ぎない。確かなものは目の前にある対象物でしか確認できない。これを直接確認できるのは現場にいる担当者しかいない。担当者が全身全霊で知識と能力を駆使して目の前の問題を何とか解決しなければならないのである。できない場合は他に助けを求めるが、いずれは誰かが最終的な担当者として責任をもって決心し解決しなければならない。

数値情報に基づいて世論が作られていく。

 これに異論とか違った見解を述べる人も少ない。数値情報を絶対視する人が多数派であれば少数派の人達が奮起するのはよっぽどのことがない限り無理であり、毎回反論するわけにもいかない。そうであれば、この多数派の人達が、少なくとも数値情報を鵜吞みにすることなく、これを単なる参考情報として、その他の情報も含めて総合的に個々人が自ら判断する姿勢を堅持してゆくことが求められる。そうすればより冷静で客観的な結論が得られる。この暴走に拍車をかけているのがメディアである。メディアは数値情報を根拠にした方が解りやすく大衆に受け入れやすいのではあろうが、金科玉条のごとく扱うのは反省しなければならない。

数値情報と同じように一つの事実をもって世論が作られることもある。

 世論の嵐が去った後、果たして何だったのだろうと検証してみると、本質的な核心の情報が欠落していることに気づく。そして本質的な核心の情報が得られた時、もしくは、話題が新規性を失って風化した時に世論の嵐は何もなかったように収まる。作られた世論は疑心と不安と不信などを増幅したもので、その実体は最後まで杳として解らないまま、もしくはくだらない些細なものに終わってしまう。警鐘を鳴らすのは結構だが、最終的な結論とそれに基づく解決策と対策ぐらいは明確にする必要があると思う。それも他人任せになっている。

官庁での文書改ざん問題が騒がれている。

 改ざん自体が問題視されているが、本質のところは、国会での根拠に乏しいかつ不適当な間違った答弁に対して配下の組織が筋を通そうとするまじめなお役所体質が表出しただけに見える。最初の高官や大臣の答弁がまずかったのであり、その後の対応もまずくて自分で墓穴を掘った格好である。何故改ざんしたのかと言われても組織としてはなかなか頭を下げる訳に行かないのが実情ではないかと思う。また、公文書と言われているが、その実は部内資料とかコンピュータ内の記憶データである。正式の公文書とは言えない気がする。

情報公開の対象になっている文書の性質をよく考える必要がある。

 情報公開の対象となる文書にもピンからキリまである。基本的には文書管理のリストに登録されたものであり、その中には単なる資料から議事録や通達・通知文書や契約書等まで、下級組織から上級組織まで種々雑多である。もうひとつ、コンピュータ内の記憶データは情報公開の対象ではない。理由は日々更新され文書として管理できないからである。文書もしくは外部の電子的記録として出力された「物」しか情報公開の対象になっていない。

また、情報公開するときに公開情報に手を加えることは通常のことである。

 公開できない情報もあるし、個人情報を勝手に公開することもできない。ただし、これにはしっかりとした理由が必要である。そこの部分の納得できる説明が抜けているもしくは説明できないのは問題である。情報公開の請求をする側も、何もかも公開せよと言うのは無謀であるし、そんなガラス張りにされた組織内で合理的な仕事ができる訳がない。信用に基づいて任せられた部分は自己の責任で職務を全うする気概がないと仕事なんてできるものでない。そこの部分は踏み込まないのがお互いのためでもある。

ただし、何度も言ううが、結果に対する説明責任は果たさなければならない。

 今問題なのは、文書の改ざんが悪いとか文民統制が機能していないとかいう前に、結果に対する納得できる理路整然とした法律規則に基づいた根拠のある説明がなされていないこと、また説明ができないことなのである。何となくとか成り行きに任せてとか上部組織の意向でとか誰も反対しなかったのでとかどこからかの天の声でとかのごとき説明しかできないのが問題なのである。そんなのは何の説明にもなっていない。そして責任もって誰も説明できない。そこが問題なのである。このことは今騒がれている問題だけではない。すでに決定されているもしくはこれから決定しようとしていることすべてに当てはまり、担当責任者による説明責任が果たされなければならないのである。他人事ではない。


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