オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

自殺に込められたメッセージ

2006年11月15日 | Weblog

自殺とはそもそも何だろう。

 ただ単に現象的に言えば、自らの意志で自己の生命を絶つ行為であるが、生か死かの選択において、生の選択が可能なのにもかかわらず、あえて死を選ぶことであり、死を選んで実行した以上元に戻ることは絶対にできない不可逆的な性格を持つ。それでも死を選んだ結果が自殺である。自らの意志であえて死を選んだと言うプロセスを除けば、結果的には自殺も死には違いない。死には意味がない。単なる終焉である。生を全うしようとする人が最期まで生を謳歌し終焉を迎えるのが通常の死である。終焉がなければ引き続き生を謳歌することとなる。

自殺にはどういう訳かメッセージが込められる場合が多い。

 多くは恨み辛み、絶望感、虚無感、諦観などである。「あなたが憎い」「あなたが原因で」「あなたのせいで」云々と遺書に残されて自殺されたんではたまったものではない。問題の原因がその人にあるなら生きて解決することを選択すべきだと思うし、その人のせいにして自殺しても本来であれば何も解決しない。あとに残った人に遺志を継いで問題を解決して欲しいと言うのはあまりにも他力本願であるし、はっきり言って残された人は迷惑である。恨みを込めて死なれた人も迷惑である。本人は死しか解決策がないと考えていたのだろうが、それは大いなる思い込みであり、はっきり言って病的である。

自殺した人を責めるつもりはない。

 私的には、こんな考えを持っている。だから自殺なんてしないことだ。しぶとく生きることを選択できる強力な生命力を養って欲しい。死を選ぶことは安易な選択だと思う。死を覚悟することは大変なことだという言い方もあるが、自殺で命を絶つことは簡単である。この頃は簡単に苦しまないでできる自殺マニュアルなるものがあるらしいが、恨み辛みを込めるなら死の苦しみ(生の苦しみでもある)を長期間にわたって味わった後に死ぬべきであり、その「長期間」が長ければ長いほど、苦しみにのたうち回るほど恨み辛みを込めることができる(苦しんでいるうちに最終的には天寿を全うできる)。結局は、生きながらえることで恨み辛みを果たさなければならない。恨み辛みが嫌ならきれいサッパリと忘れ去ることである。

死ぬことよりも生きることの方が貴重であり絶大なる価値がある。

 生きることの方が奇跡的であり、希有であり、有り難くかつ困難を伴う。反対に死のうと思えばいつでも死ねる。そして前述したように死は生の終焉に過ぎない。死んでしまえば精神世界は別としてとりあえずは何も残らない。我々が存在することそのものも生のために存在し、生を受け生かされている。そうして悠久の過去から未来永劫まで壮大な生命樹を造り上げている。この生命樹を受け継いで後生に伝承してゆくのが我々の使命でもある。これを志半ばにして断ち切るのは無謀であり勿体ないことである。自ら命を絶たなくとも不幸にも命を絶たれる運命にある人は数多い。そんな大宇宙規模の生命理論の前で、「あなたが憎い」「あなたが原因で」「あなたのせいで」云々で自殺してしまうことは空しく儚な過ぎる。そんなことを思ってしまう。

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