さて、昨日からの続き。三渓園は内苑(元・原家の私邸部分)・外苑という二つのエリアがありますが、今回は内苑をご紹介いたします。
こちらは三渓園内苑の御門でございます。京都東山の西方寺にあった薬医門で、1708(宝永5)年頃の建築といわれております。
こちらは白雲邸(はくうんてい)。中は数寄屋風のこの建物は1920(大正9)年に建てられたもので、三渓は亡くなるまでの約20年間をここで過ごしたということです。
重要文化財の臨春閣(りんしゅんかく)でございます。そもそもは1649(慶安2)年、紀州徳川家の初代・頼宣が和歌山・紀ノ川沿いに建てた夏の別邸だった建物で、1764(宝暦14)年の取り壊しの際、泉佐野の長者飯野左太夫に与えられました。飯野氏はこれを大阪・春日出新田に別荘として建て、その後150余年を経て清海氏が所有し「八州軒」と称されていましたが、1906(明治39年)にこれを原三溪が購入。1915(大正4)年から約2年をかけて移築、改めて「臨春閣」と命名したものです。屋内には狩野派のふすま絵があったりします。
これまた重要文化財の旧・天瑞寺寿塔覆堂(きゅう・てんずいじじゅとうおおいどう)でございます。寿塔とは何かといいますと、長寿を祝って生存中に建てるお墓のこと。じゃあこれは誰の寿塔なのかといいますと、なんと豊臣秀吉の母なんですね。かつて大病を患った際、息子の秀吉が平癒を祈って京都・大徳寺内に天瑞寺というお寺を建てました。この祈りが通じて母の病気は治り、秀吉は母の長寿を祝って1592(天正20)年に寿塔を建て、この建物はその寿塔を文字通り「覆う」お堂なわけですね。ちなみに、寿塔はさすがに移せないので、ここにあるのは覆堂のみ、中は空っぽでございます。
右手に見えますのは、先ほどご紹介した臨春閣の一部でございます。この小橋の奥にあるのは…。
またまた重要文化財・月華殿(げっかでん)でございます。徳川家康が1603(慶長8)年に、将軍宣下を受けるために伏見城中に建てられ、諸大名伺候の際の控え室として使われていたと伝えられております。
先ほどから重要文化財ばっかりですが、これもまた重要文化財の天授院(てんじゅいん)。鎌倉・建長寺近くの心平寺という廃寺跡にあった地蔵堂だった建物です。近年の修理の際に発見された墨書銘により江戸時代の1651(慶安4)年に建立されたことが判明しました。
これでもかと重要文化財・聴秋閣(ちょうしゅうかく)でございます。1623(元和9)年に三代将軍徳川家光が上洛した際に、佐久間将監に命じて京都二条城内に造営させ、当時は「三笠閣」と称したと伝えられています。家光は後にこれを乳母の春日局に賜り、局はそれを夫の稲葉侯の江戸邸内に移築しました。その後この建物は1881(明治14)年に新宿・牛込若松町の二条公邸に移築、1922(大正11)年に原三溪のもとへと贈られ、三溪園に移築されて現在に至ります。
先ほどの臨春閣と小橋をまた別の位置から。ホント、京都っぽいですね。
いきなり出くわしたのは、なんと石棺!古墳時代のものだと言われておりますが、なぜなんの脈絡もなく…??
懲りずに重要文化財、春草廬(しゅんそうろ)でございます。月華殿と共に宇治・三室戸寺(みむろどじ)の金蔵院にあった茶室で、当時は窓の数から九窓亭(きゅうそうてい)と呼ばれていたそうです。織田信長の弟・織田有楽斎の作と伝えられております。
二畳中板の小間と六畳の広間や土間などからなっている、蓮華院(れんげいん)。土間の中央に立つ太い円柱はもとは宇治・平等院鳳凰堂(10円玉のあの建物ですよ)の古材で、隣室との境に用いられている格子も鳳凰堂に用いられていたものということです。
梅林…なんですが、寒さで開花が遅れていると管理のオジサンが言ってました。本当は我々、梅目当てだったんですが…(汗)。
内苑はここまで。次回は外苑をご紹介いたします…。
こちらは三渓園内苑の御門でございます。京都東山の西方寺にあった薬医門で、1708(宝永5)年頃の建築といわれております。
こちらは白雲邸(はくうんてい)。中は数寄屋風のこの建物は1920(大正9)年に建てられたもので、三渓は亡くなるまでの約20年間をここで過ごしたということです。
重要文化財の臨春閣(りんしゅんかく)でございます。そもそもは1649(慶安2)年、紀州徳川家の初代・頼宣が和歌山・紀ノ川沿いに建てた夏の別邸だった建物で、1764(宝暦14)年の取り壊しの際、泉佐野の長者飯野左太夫に与えられました。飯野氏はこれを大阪・春日出新田に別荘として建て、その後150余年を経て清海氏が所有し「八州軒」と称されていましたが、1906(明治39年)にこれを原三溪が購入。1915(大正4)年から約2年をかけて移築、改めて「臨春閣」と命名したものです。屋内には狩野派のふすま絵があったりします。
これまた重要文化財の旧・天瑞寺寿塔覆堂(きゅう・てんずいじじゅとうおおいどう)でございます。寿塔とは何かといいますと、長寿を祝って生存中に建てるお墓のこと。じゃあこれは誰の寿塔なのかといいますと、なんと豊臣秀吉の母なんですね。かつて大病を患った際、息子の秀吉が平癒を祈って京都・大徳寺内に天瑞寺というお寺を建てました。この祈りが通じて母の病気は治り、秀吉は母の長寿を祝って1592(天正20)年に寿塔を建て、この建物はその寿塔を文字通り「覆う」お堂なわけですね。ちなみに、寿塔はさすがに移せないので、ここにあるのは覆堂のみ、中は空っぽでございます。
右手に見えますのは、先ほどご紹介した臨春閣の一部でございます。この小橋の奥にあるのは…。
またまた重要文化財・月華殿(げっかでん)でございます。徳川家康が1603(慶長8)年に、将軍宣下を受けるために伏見城中に建てられ、諸大名伺候の際の控え室として使われていたと伝えられております。
先ほどから重要文化財ばっかりですが、これもまた重要文化財の天授院(てんじゅいん)。鎌倉・建長寺近くの心平寺という廃寺跡にあった地蔵堂だった建物です。近年の修理の際に発見された墨書銘により江戸時代の1651(慶安4)年に建立されたことが判明しました。
これでもかと重要文化財・聴秋閣(ちょうしゅうかく)でございます。1623(元和9)年に三代将軍徳川家光が上洛した際に、佐久間将監に命じて京都二条城内に造営させ、当時は「三笠閣」と称したと伝えられています。家光は後にこれを乳母の春日局に賜り、局はそれを夫の稲葉侯の江戸邸内に移築しました。その後この建物は1881(明治14)年に新宿・牛込若松町の二条公邸に移築、1922(大正11)年に原三溪のもとへと贈られ、三溪園に移築されて現在に至ります。
先ほどの臨春閣と小橋をまた別の位置から。ホント、京都っぽいですね。
いきなり出くわしたのは、なんと石棺!古墳時代のものだと言われておりますが、なぜなんの脈絡もなく…??
懲りずに重要文化財、春草廬(しゅんそうろ)でございます。月華殿と共に宇治・三室戸寺(みむろどじ)の金蔵院にあった茶室で、当時は窓の数から九窓亭(きゅうそうてい)と呼ばれていたそうです。織田信長の弟・織田有楽斎の作と伝えられております。
二畳中板の小間と六畳の広間や土間などからなっている、蓮華院(れんげいん)。土間の中央に立つ太い円柱はもとは宇治・平等院鳳凰堂(10円玉のあの建物ですよ)の古材で、隣室との境に用いられている格子も鳳凰堂に用いられていたものということです。
梅林…なんですが、寒さで開花が遅れていると管理のオジサンが言ってました。本当は我々、梅目当てだったんですが…(汗)。
内苑はここまで。次回は外苑をご紹介いたします…。