物語性が高い利益率や大きな利幅になるというのは、披露宴への支出が典型でしょうか。
披露宴への憧れは、その人が、自分が大好きで人生の物語を大きく感じているほど
大きく、それが支出に割りに直結すると思います。
記号論は、うどんジムの書いてることのほとんどと関係があるので、ちょっとだけ、それ自体について書いておきます。
それに、人やお金や政治が動くのは、記号の物語化によるところが大きいと考えているからです。
別にうどんジムが独自に言ってるわけでなく、ありきたりなことだとは思います。
よくある言い方ですが、「宇宙のすべては記号である。」ってのは、まあ嘘ではないと思う。
星を見たことがある方っていらっしゃいますか?
あるといえばあるけど、誰も見たことがないともいえると思います。
たとえば、3光年の星を見るといったら、3年も前に反射した光を星だと認識しているだけでしょうし、宇宙船の人が、「地球は青い」といっても、だいぶ前に大気が太陽光の青い波長を反射したのを認識しただけでしょう。
「冬」というのも、人や場面によって厳しいものだったり、鍋を大切な人たちと囲む暖かさや幸せの象徴だったりするし、冬ってものを網羅して認識することなんか誰もできない。
「暴走族」という文字から受け取るものも、かっこいい憧れの先輩だったり、迷惑な甘ったれの社会のクズだったり、誰一人同じ文字を見て、まったく同じものを意味することはありません。
若者の音楽を高齢者がやかましい雑音と感じたり、演歌を子供がたいくつで気分が悪くなる音と感じるたりもあるし。
みな、文字だったり、音だったり、光だったり別のものをある意味にとらえて認識しているだけで、そういう意味で、宇宙にあるものはすべて記号だといえるでしょう。
「記号」というのは、日常使われる意味の記号というより、ある情報がある物や意味を表現するときの表現をすべてさします。
よくシニフィアン(言葉や光など記号情報として人が受け取るもの)とシニフィエ(受け取った情報から意味されるもの)といわれるが、単にフランス語で、「意味する」と「意味される」というだけのことで、記号論以外では聞きなれなくても、何も難しい言葉ではないと思う。
ちょっと実社会のことに移ります。
さて、イラクの内戦やテロやアフリカなどの飢餓で亡くなる人は、○○万人とか○○人という文字で表現され、その限りでは、その人の人生の物語は、無視されています。
ところが、ワイドショーで取り上げられる児童誘拐や殺傷事件などは、その登場人物の人柄や行動や生い立ちなど、物語性が着目されます。
同じ、一人の人でも、物語性のある命については、人の関心を集め、視聴率を呼び、お金を動かし、それがさらにメディアの着目を集め、世論となり、政治も動かす。
人が受け取る記号の意味情報が、人々の人情や琴線に触れる物語性に達したとき
記号→物語性+マスメディア→コマーシャリズム+世論≒お金+票→政治や行政も動く
だから、公園の遊具でこどもが怪我をすると、ワイドショーで一斉に取り上げられ、政治も行政も即反応し、一斉に、撤去されたりもするし、被害者が美人だったりすると、より、メディアとコマーシャリズムの経済効果が大きくなり、報道も多くなり、政治・行政へのインパクトも大きくなるという、いやらしい結果にまでつながります。
まあ、アフリカの飢餓やイラクのテロの犠牲者の人々のそれぞれの人生の物語性に着目すると、資本主義の矛盾や罪、大国の政権の思惑や至らないところなどがクローズアップされるので、情報を操る側の都合がわるいこともあるので、あまり着目されないというのもあると思います。
また、イラクのテロの犠牲やアフリカの飢餓は次から次へと起こるので多すぎて、物語にならず、雑多な情報の中で、意識の深くに入らないものとなるのだと思います。
自分を登場人物として有意な存在に置けないことに対しては、物語性は認めにくいと思います。
だから、徳島の犬なら救えるけど、一人救っても、次から次へと飢餓が続くのでは、自分を有意な存在に心の中で置くのが難しいのだと思う。
ベトちゃんドクちゃんのように個人に特定してしまえば、解決に有意な力を発揮できたり、物語も見えるようになり、わが国でも着目されたのではないかと思いましたが、それでは、多くの人は救えないかもしれません。
高松の人は、国内で水害が起こったときなら、かなり物語性を感じて動くとは思う。
一方、わが国の個人消費についても、バブル以降、財布のひもが堅くなって、人生の物語に深くかかわるところ(マイホームやこどもの教育やオシャレな生き方をしたい人のファッション関係支出など)にはお金をしっかり使うけど、そうでないところは100円ショップですませるなどしてると思います。
消費の二極化というのは、所得の二極化の面と、物語性のあるところとそうでないところを差別するという二極化の面もあると思います。
セルフうどんは、物語性のない方の支出だろうなあ。
でも、超有名店にレジャーとかデートとして並ぶのは人生の物語に関係してるような気がする。
物語と自分がやる事業の関係について、すごく大雑把に即興で書くと
①人々に訴える物語を自分でつくるか
②既存の物語にからむか
③物語利用をあきらめて、多売に徹するか
今のところ、うどんジムは、③しか狙えないですね。
よく高級車や時計などに成功者の象徴としての記号や人生の物語を結びつけて、高価な買い物をする方がいますが、うどんジムは、物にはそれを感じないなあ。
バイクや車や高級時計を売って成功してる人ってやっぱり、それそのものが好きな場合が多いと思う。
うどんジムは、理論を考えるのは好きだけど、利幅の大きな物を自分で売るのは無理だろうなあ。
さて、物語性とか、3日ほど前にいろいろキーワード群を書いたのですが、人の気持ちを高揚させるようなマスメディアの戦略にもやはり情報の非対称性があるし、秘して花としているところがあると思います。
うどんジムの書いてることは、いつも、全部が全部と常に関係しているというイメージなので、よほど、長いことこのブログを読まれてないとわかりにくいと思います。
披露宴への憧れは、その人が、自分が大好きで人生の物語を大きく感じているほど
大きく、それが支出に割りに直結すると思います。
記号論は、うどんジムの書いてることのほとんどと関係があるので、ちょっとだけ、それ自体について書いておきます。
それに、人やお金や政治が動くのは、記号の物語化によるところが大きいと考えているからです。
別にうどんジムが独自に言ってるわけでなく、ありきたりなことだとは思います。
よくある言い方ですが、「宇宙のすべては記号である。」ってのは、まあ嘘ではないと思う。
星を見たことがある方っていらっしゃいますか?
あるといえばあるけど、誰も見たことがないともいえると思います。
たとえば、3光年の星を見るといったら、3年も前に反射した光を星だと認識しているだけでしょうし、宇宙船の人が、「地球は青い」といっても、だいぶ前に大気が太陽光の青い波長を反射したのを認識しただけでしょう。
「冬」というのも、人や場面によって厳しいものだったり、鍋を大切な人たちと囲む暖かさや幸せの象徴だったりするし、冬ってものを網羅して認識することなんか誰もできない。
「暴走族」という文字から受け取るものも、かっこいい憧れの先輩だったり、迷惑な甘ったれの社会のクズだったり、誰一人同じ文字を見て、まったく同じものを意味することはありません。
若者の音楽を高齢者がやかましい雑音と感じたり、演歌を子供がたいくつで気分が悪くなる音と感じるたりもあるし。
みな、文字だったり、音だったり、光だったり別のものをある意味にとらえて認識しているだけで、そういう意味で、宇宙にあるものはすべて記号だといえるでしょう。
「記号」というのは、日常使われる意味の記号というより、ある情報がある物や意味を表現するときの表現をすべてさします。
よくシニフィアン(言葉や光など記号情報として人が受け取るもの)とシニフィエ(受け取った情報から意味されるもの)といわれるが、単にフランス語で、「意味する」と「意味される」というだけのことで、記号論以外では聞きなれなくても、何も難しい言葉ではないと思う。
ちょっと実社会のことに移ります。
さて、イラクの内戦やテロやアフリカなどの飢餓で亡くなる人は、○○万人とか○○人という文字で表現され、その限りでは、その人の人生の物語は、無視されています。
ところが、ワイドショーで取り上げられる児童誘拐や殺傷事件などは、その登場人物の人柄や行動や生い立ちなど、物語性が着目されます。
同じ、一人の人でも、物語性のある命については、人の関心を集め、視聴率を呼び、お金を動かし、それがさらにメディアの着目を集め、世論となり、政治も動かす。
人が受け取る記号の意味情報が、人々の人情や琴線に触れる物語性に達したとき
記号→物語性+マスメディア→コマーシャリズム+世論≒お金+票→政治や行政も動く
だから、公園の遊具でこどもが怪我をすると、ワイドショーで一斉に取り上げられ、政治も行政も即反応し、一斉に、撤去されたりもするし、被害者が美人だったりすると、より、メディアとコマーシャリズムの経済効果が大きくなり、報道も多くなり、政治・行政へのインパクトも大きくなるという、いやらしい結果にまでつながります。
まあ、アフリカの飢餓やイラクのテロの犠牲者の人々のそれぞれの人生の物語性に着目すると、資本主義の矛盾や罪、大国の政権の思惑や至らないところなどがクローズアップされるので、情報を操る側の都合がわるいこともあるので、あまり着目されないというのもあると思います。
また、イラクのテロの犠牲やアフリカの飢餓は次から次へと起こるので多すぎて、物語にならず、雑多な情報の中で、意識の深くに入らないものとなるのだと思います。
自分を登場人物として有意な存在に置けないことに対しては、物語性は認めにくいと思います。
だから、徳島の犬なら救えるけど、一人救っても、次から次へと飢餓が続くのでは、自分を有意な存在に心の中で置くのが難しいのだと思う。
ベトちゃんドクちゃんのように個人に特定してしまえば、解決に有意な力を発揮できたり、物語も見えるようになり、わが国でも着目されたのではないかと思いましたが、それでは、多くの人は救えないかもしれません。
高松の人は、国内で水害が起こったときなら、かなり物語性を感じて動くとは思う。
一方、わが国の個人消費についても、バブル以降、財布のひもが堅くなって、人生の物語に深くかかわるところ(マイホームやこどもの教育やオシャレな生き方をしたい人のファッション関係支出など)にはお金をしっかり使うけど、そうでないところは100円ショップですませるなどしてると思います。
消費の二極化というのは、所得の二極化の面と、物語性のあるところとそうでないところを差別するという二極化の面もあると思います。
セルフうどんは、物語性のない方の支出だろうなあ。
でも、超有名店にレジャーとかデートとして並ぶのは人生の物語に関係してるような気がする。
物語と自分がやる事業の関係について、すごく大雑把に即興で書くと
①人々に訴える物語を自分でつくるか
②既存の物語にからむか
③物語利用をあきらめて、多売に徹するか
今のところ、うどんジムは、③しか狙えないですね。
よく高級車や時計などに成功者の象徴としての記号や人生の物語を結びつけて、高価な買い物をする方がいますが、うどんジムは、物にはそれを感じないなあ。
バイクや車や高級時計を売って成功してる人ってやっぱり、それそのものが好きな場合が多いと思う。
うどんジムは、理論を考えるのは好きだけど、利幅の大きな物を自分で売るのは無理だろうなあ。
さて、物語性とか、3日ほど前にいろいろキーワード群を書いたのですが、人の気持ちを高揚させるようなマスメディアの戦略にもやはり情報の非対称性があるし、秘して花としているところがあると思います。
うどんジムの書いてることは、いつも、全部が全部と常に関係しているというイメージなので、よほど、長いことこのブログを読まれてないとわかりにくいと思います。