草むしりしながら

読書・料理・野菜つくりなど日々の想いをしたためます

良いお年を

2018-12-30 14:14:41 | 日記
良いお年を
 
 パチパチと竈の火が弾け、四角いせいろから白い湯気があがる。甘い匂いが漂ってきて、臼よし、杵よし。準備万端整って。さあ、餅つきの始まりだ。

 ごめんなさい。嘘をついておりました。

 蒸す、つく、タイプの餅つき機で餅つきしました。
 一番大きな鏡餅はお座敷の神様に、その次は仏壇の仏さまに。それから井戸の神様や台所の大黒様、庚申様や山の神様に用に小さな、お供えが十組。それからやっと人間の食べる分。鏡餅の大きさは、昔と比べるとずいぶん小さくなってしまった。

 それでも餅つきは餅つき、今年も無事に終わりました。年賀状もやっと書き終え、岩合さんの猫のカレンダーも、新しいのに掛け替えました。

 今年も後二日になりました。皆さま、よいお年をお迎えください。

 草むしり

いくつになっても

2018-12-29 14:34:47 | 猫自慢
いくつになっても

 猫のハナコがコタツの上に座っている。コタツやテーブルの上にあがると叱られるからだろうか、コチコチになって時々震えている。しかしおかしな座り方だ。もっとゆっくりと座ればいいのに、前後の脚をギュッとくっ付けている。震えているのはバランスが悪いからで、叱られるからではないようだ。
 
 私の視線を感じたようだ。ハナコはコタツの上から降りて、座布団の上に座り直した。後には私のピンク色の眼鏡拭きが残されていた。なんてピンクの好きな猫なのだろう。ピンクならこんな小さな布の上にでも座ってしまうなんて。もちろん今座っている座布団も、ピンクのお昼寝マットが掛けてある。

 子猫だったハナコが我が家にやって来てからか、もう十年以上になる。かなりいい歳なのだろうけど、ピンク好きは変わらない。もっとも私の方もいい齢をしてトレーナーばかり着ているから、猫のことは笑えない。トレーナーは高校生の頃から着ているから、中身の方もその頃と変わらないのだろう。

 新しい年が来ると、また一つ歳を取ってしまう。でも幾つになっても好きな物は好きでいいよね。お年玉を握って、新しいトレーナーとピンクのお昼寝マットを買いに行こう。


いい年でありますように

2018-12-25 13:53:59 | 日記
いい年でありますように

昨日今日と、すこぶる天気がいい。五日ほど雨が続いていたので喜んで洗濯をしたのだが、洗濯カゴの中をよく確かめもしないで、洗濯機に放り込んだのが間違いだった。お気に入りのセーターも一緒に洗ってしまった。

 よくもこんなにきれいに縮むものだと感心するくらいに縮んだ。縦横均等に縮んで、元の大きさの75パーセントくらいの大きさになってしまった。自分の物ならあきらめてしまうが、困ったことにこのセーターを気に入っているのは、今年九八歳になる伯母である。

 ただしこのセーターもともとは私の長女のものだった。長女は我が家の女性陣の中で一番大きく(身長のみ)伯母は親戚の中で一番小さい(縦横共に)。その上娘と伯母は六十以上齢が離れている。そんな物をお年寄りに着せるのかと。と思われそうだが、縮んでしまったセーターは伯母が着るにはちょうどいい大きさになる。
 
 もともと伯母は娘のお古はおしゃれだと言って、八月から通い始めたディサービスに着て行く。お世話をしてくれる職員さんに服を誉められると、嬉しそうに話してくれた。今回は縮んだセーターをますます縮ませてしまったのだ。伯母がいくら小さくても、さすがに無理だろ。叔母の悲しそうな顔が目に浮かぶ。

 「よしダメもとで試してみるか」と思いついたのは以前テレビで見た「縮んだセーターを元に戻す方法」だった。ネットで方法を調べて実行してみたが、成功した。あんなに小さかったセーターが、元の大きさになりしかもフカフカになった。伯母の喜ぶ顔が見えるようだ。
 
 子供のいない伯母は自分のことは何でも一人でやって来た。来年は白寿を迎える。長男と長女にも子供が生まれる。

 来る年がいい年でありますように。

草むしりの「手袋を買いに」

2018-12-22 14:11:36 | 草むしりの幼年時代
草むしりの「手袋を買いに」

 「これで手袋を買いなさい」母が差し出したお金を受け取った私の手は、霜やけで赤く腫れあがっていました。クリスマスにサンタさんがやってこなくなった年齢の、3学期のことだった思います。

 翌日の放課後、走って買いに行ったのは赤い手袋。ちょっと遠回りした学校からの帰り道、いつも横目でチラリと眺めていたお目当ての品でした。気持ちが母に通じたのか、それともおねだりしたのでしょうか。今は嬉しかったことしか覚えていません。

 おつかいではない、初めての買い物でした。お店の中に入るのもちょっと勇気がいりました。深呼吸して店に入り声をかけると、奥から女の人が出てきました。「あれっ」その時何だか変な気がしました。その人は階段を上がって来たのです。一階あるはずのお店なのに、階段を上がって来るなんて……。
 
 たぶん土地の段差を利用して建てられた家だったのでしょうが、子供心にとても不思議なお店のように思われました。手袋を買うことも忘れて、グルリと店の中を見回しました。

 あれから長い年月が経ち、長女がその時の私と同じくらいの齢になった3学期の時でした。国語の教科書に「手袋を買いに」というお話が載っておりました。霜やけのできた子狐が母狐にお金をもらって、手袋を買いに行く話です。黄色い尻尾のある小さな男の子が、赤い手袋を買っている挿絵もありました。

 私はなんだか不思議な気がして、その挿絵をずっと見ておりました。

未だに守っている母の言葉

2018-12-19 14:12:16 | 日記
未だに守っている母の言葉

 「あんたは、松は摘むなえ」。父の遺した庭の松の木に腹立ち紛れにパチパチとはさみを入れる私に、母が言った言葉だ。「松だけは人に頼みよ」という言葉が添えられていた。

 田舎の庭師はたちが悪いのか。パチパチと切り散らかしておいて、さっさと帰ってしまう。十時と三時にお茶を出し、安くはないお金まで払ってお礼を言った後で怒りが爆発した。たぶん頼んだ母がお金をケチって、私に後片付けをさせようとの魂胆だったのだろうが。

「松の周りであれだけ時間を潰すのなら、片付けて行けばいいのに」玉砂利の間に食い込むように切り散らかされた松葉を拾いながら「切るだけなら、私にだってできる」と思った。「まったく庭の掃除が嫌で、早く死んだンじゃなかろうか」庭を造ってすぐに逝ってしまった父に、文句たらたらだった。

 そして翌年。本当に松の枝をパチパチとやっていた時に、母に言われた言葉である。

 以来他の木は自分で剪定するのだが、松だけは本職に頼むようにしている。「それにしても金食い虫だ、いっそ切り倒そうか」とも思うのだが……。二本の小さな松にお金をかけただけで、庭の佇まいがぐんと引き立つ。

 「もうそろそろ自分で剪定してみようか」とも思うが、その度に母の言葉が脳裏に浮かんでくる。