草むしりしながら

読書・料理・野菜つくりなど日々の想いをしたためます

草むしり作「わらじ猫」中5

2020-02-29 12:13:23 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中5
大久保屋の大奥様⑤
お紺編3

―奥様になにかあったのでは。
 二杯目の水を飲もうとして、ハッとなった。さっき起きたときに、閉めて寝たはずの部屋の障子が三寸ほど開いていた。やはりタマが来たのだろう。暗闇の中でお仲の規則正しい寝息が聞こえていたが、何かが少し違っていた。不吉な胸騒ぎがする。
 
  暗闇の中で目を凝らしてみてみると、大奥様の部屋の前に部屋の前に誰かがいた。ぼんやりとしか見えないがあれはお紺だろうか。こんなところで何をしているのだろう。そういえばさっき起きたときにどうも部屋の様子がおかしいと思ったのは、同じ部屋に寝ているはずのお紺の気配がしなかったからだ。

    した働きのおなつやお仲は、ふだんは炊事場や裏庭での仕事が多く、お店はおろか奥の部屋さえもよっぽどのことがなければ行かない。寝起きする部屋も炊事場の隣の日の当らない納戸部屋で、お仲とおなつ、それに口入れ屋から雇い入れたお紺の三人で使っていた。

   歳も近く陰日なたなく働くお仲とはすぐに親しくなったが、お紺はちょっと苦手なところがあった。お紺は几帳面で仕事もよく出来たが、影でこっそりと手を抜くところがあった。おしゃべりでいつも誰かの噂話をしていたが、自分のことはまったく話さない。着物の襟を少し抜いて着る癖があり、どこか掴みどころの無い女だった。

   おぼろげな人影は縁側の雨戸の前に腰を屈めてすわりこんでいた。なにかを雨戸の敷居に近づけている。あれは油の入った徳利ではなかろうか。
―油を敷居に…。
 目が暗闇に慣れてくるに従って人影がはっきりと闇の中に浮かびあがってきた。やはりお紺であった。お紺は雨戸の閂をはずして、雨戸に手を掛けた。
「泥棒誰か来て」
おなつの背後からお仲の叫び声がした。
「もう遅いよ」
 その時お紺の足元を黒い影が横切り、ゴトリと音がした。同時に雨戸が押し開けられ黒い影のようなものが次々と押し込んできた。ところが縁側に入ったとたんに、黒い影が次々に倒れていった。
「何事だね」
お仲の叫び声に部屋の灯りがともされ、大奥様の声が聞こえた。
「やっちまいな」
お紺の声が響いた。
「大奥様逃げて」
お仲の叫び声がして、あたりがパッと明るくなった。
「御用だ、御用だ」
眩しい明かりにおなつは目がくらんで気を失った。

「おなつ、おなつ、しっかりおし」
 大奥様の声で意識の戻ったおなつが見たものは、縁側に倒れて起き上がろうともがいている男たちだった。中には手に持った匕首で自分の腹を刺して苦しんでいるものもいる。

「うう、気持ち悪い」
 口に手を当て走り去っていくおなつに、大奥様が声を掛けた。
「甘酒を四杯も飲む者がいるかね」

草むしり作「わらじ猫」中6

2020-02-28 12:23:07 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中6
大久保屋の大奥様⑥
娘心と男心1

 弥助が相生橋の辰三親分を尋ねたのは、大久保屋のようすを伺っていた二人組を見た翌朝だった。河岸での商売を早めに切り上げると、その足で親分を訪ねたのだった。

 親分にはずいぶんと世話になった。夜鳴き蕎麦屋の親方の後をついていって、弟子にしてくれと頼んだ迄は覚えているが、その後気を失って倒れてしまったのだった。その日は朝からすきっ腹をかかえ、賭場のやくざに散々殴られた末に、川に落ちたのだ。あれでよく親方の後をついていけものだ。気がついたときには親方の家の布団の中だった。

 弥助が賭場でこしらえた借金は、親兄弟の縁を切ることを条件に三人の兄たちが払ってくれた。それとて積もり積もった利子を入れればとても払える金額ではなかったが、利子の分は辰三親分の口利きで棒引きにされた。親分が袖の下などは絶対に受け取らないのは、ただ正義感が強いだけではなく、こういう時に融通を利かせるためなのかもしれない。
「お前、女の兄妹が居なくてよかったな。いたら間違いなく岡場所にたたき売られちまっていたで」
親分はそう言って、弟子入りのほうも親方に頼んでくれた。

弥助が訪ねていくと、辰三親分はおかみさんの飴屋で店番をしていた。親分は二人の弟の手を引いた女の子に飴を包んでやると、おまけだといって子どもたちの口に飴を放り込んでやっていた。店先に置かれた醤油樽の上には座布団が敷かれ、上で猫が気持ちよさそうに寝ていた。
 
 親分に昨夜のあらましを話すと、その夜から親分も一緒に大久保屋を見張るようになった。そして新月の暗闇に乗じて押し込むだろうと、あたりをつけていたのだった。
 
「タマ、お手柄だったな」
親分がタマに声をかけた。
もうじき河岸の開く時間だ、騒ぎを聞きつけて野次馬たちが店の周りを取り囲んでいた。
 
 小鮒でも釣ろうかと、何気なくたらした釣竿に大物の鯉が掛かったようなものだった。お縄にした盗賊一味は「木枯らしの宇平」と呼ばれる、手配書の回っている盗賊団だった。お紺はその引き込み役だった。お紺は目当てのお店に潜りこむと、まず手始めに店の奥のことを取り仕切る者を始末するのが手口だった。狙いを定めた相手にマムシを放つやり口から、仲間内では「マムシのお紺」と呼ばれていた。

 大概は店の奥ことを取り仕切るおかみさんや女中頭が犠牲になる。取り仕切る者のいなくなった家など、押し込みに入るには容易いものだ。頼りにしていた者がいなくなっただけで、戸締りや火の用心がおろそかになってしまう。

 だからお紺が引き込みに入ったお店は半年も経たずに、押し込みに入られてしまう。押し込みに入られた上に一家の中心人物を欠いてしまい、その後立ち直ることも出来ずに潰れてしまうお店の少なくはなかった。大久保屋では大奥様がマムシに噛まれそうになったのが一年前だという。お紺にしては随分と時間がかかったことだと思ったが、その後の経緯(いきさつ)を女中頭のお秀に聞いて親分はにんまりとした。

―タマにはお紺もお手あげだったようだな。
 タマにことごとくたくらみを邪魔されて、口惜しそうなお紺の顔が目に浮かんだ。タマは親分の足元でさっきから毛繕いに余念がなかった。

「おい、ずいぶんと油ぎっちまったな」
 タマがこぼした油に滑って腹を刺した大男は丑松といい、上州の赤鬼と呼ばれている。頭の中身は少々軽いが、はむかうものは拳骨で殴り殺してしまうほど凶暴だった。宇平一味の召し取りに誰一人けが人を出すことがなかったのもタマのお陰だった。
―それにしても不思議な猫だな。
 親分がそう思っていると、勝手口の方か騒がしくなった。誰かが大久保屋の事件を聞いて駆けつけてきたようだ。タマはその声を聞くなり勝手口の方に飛んでいった

草むしり作「わらじ猫」中7

2020-02-27 18:44:09 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中7
大久保屋の大奥様⑦
娘心と男心2

「だからね、あっしは怪しいものではありませんよ。大奥様、大奥様。太助が参りました」
 やっと検分が終わったばかりで、まだ外からの出入りが出来ないのだろう。外から男の声がきこえる。
「ずいぶんと騒動しい奴だな」
 親分が呆れていると、誰かがとりなしたようだ。男は片手に天秤棒を担ぎ、空いているほうの手でタマを抱きかかえて、炊事場に飛んできた。親分は男の持っている天秤棒を見て、弥助みたいな奴がもう一人いると思った。そういえば、弥助の姿が見当たらない。

「馬鹿やろう、もう四杯目じゃないか。なんて食い意地のはった奴だ…」
「静かにしねぇと、ばれちまうだろうが」
 大久保屋のむかいにある料理屋の二階の暗闇の中で、親分は弥助を静まらせるのに必死だった。ここ数日、二人で大久保屋を見張っていたのだ。弥助はおなつが甘酒を四杯も飲むので、ハラハラしていたのだ。

「危ないからおまえはあっちに行っていろ」と言う親分に、「子守のあの子やタマに 何かしやがったら、承知しない」弥助は天秤棒を握り締めて捕り方の後からついてきた。そんなに心配だったら一目顔を見ていけばいいのに、盗賊をお縄にしたとたん弥助の姿が何処にも見えなくなった。

―もうあの子は子守の子どもじゃねぇんだが。あいつを見たって怖がりやしねぇのに。
―ついでだからこの弥助みたいな野郎のことをもう少し見ていこう。と親分は思った。

「大奥様太助でございます。大事ございませんか。おなっちゃん、お仲ちゃん。あっしが来たからには心配いりませんよ」
 男は片手に天秤棒、もう片方の手にはタマを抱いている。

「太助さん、タマが、タマが助けてくれたのよ」 
 太助の声を聞いてお仲が奥から飛び出してきた。泣いたのだろうか。タマのこぼした油のついた手で涙を拭ったようだ、顔がテカテカと光っている。

「お仲ちゃん、喋れるのか。喋れるようになったのかい」 
 太助は驚いて手に持っていた天秤棒を取り落としてしまった。カランカランと乾いた木の落ちる音が、土間に響いた。タマはその音に驚いて太助の腕の中から飛び出した。その拍子に太助の片方の頬を、後ろ足で蹴り上げてしまったが、太助はそんなことも気にならないようだ。両手で包みこむようにお仲の手を握っている。太助の頬はみみず腫れになって血が滲んでいた。

「おや太助、お前はいったい誰が心配でやってきたんだい」
手を握りあって見つめあう二人に、タマを抱いた大奥様が声をかけた。なんてことだ、あの大奥様まで油でギトギトになっている。

「大奥様、大事ございませんでしたか。お仲ちゃんが、お仲ちゃんが………」 
 お仲が声を取り戻した。そういいたいのだが言葉にならないのだ。太助はいつまでお仲の手を握ったまま放そうとはしなかった。
「なんだね、朝から。嬉しいのは分かるけど、いいかげんに手をお放し。相生橋の辰三親分が呆れているじゃないかい」
「いや、何………」
急に矛先が自分に向けられ、なんと言っていいのやら、親分は言葉が出てこなかった。

「どうした、おなっちゃん。顔色悪いぞ」
 太助は大奥様の後ろにいるおなつに、やっと気がついたようだ。
「…………」
「おいどうした。そんなに怖かったのか、それとも何処か具合が悪いのか…」 
 心配そうにおなつの顔を覗きこむ太助だったが、それでもまだお仲の手は離さなかった。
「…………悪い」
「うん、どこが悪いんだ。腹か胸か。なんか悪いもの食ったんじゃないのか」
「う…………」
「そうか食ったのか。何食って悪くなった」
「う太助さん………、…臭い親父………………気持ち悪……」
おなつは口を手で押さえて走り去っていった。

「おいらが、臭い親父で気持ちが悪いのか」
 太助は握っていたお仲の手を離してその場にうずくまってしまった。
「太助さん、あのね。胡散臭い親父に甘酒を飲まされて、気持ちが悪くなったの」
おなつは嘔(え)吐(ず)ながらも太助に話したのだが。
「太助さん、臭い、親父、気持ち悪い」としか太助には聞き取れなかったようだ。

草むしり作「わらじ猫」中8

2020-02-26 12:45:44 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中8
大久保屋の大奥様⑧
娘心と男心3
                                       
 おなつの言った胡散臭い親父こそが『木枯らしの宇平』だった。宇平は甘酒の中にたっぷりと砂糖と酒を入れ、裏口の戸締りを任されているお仲とおなつを待ち構えていたのだ。  

 宇平は引き込み役のお紺がその用を果たせないことに業を煮やし、二人を酒で眠らせて裏口から押し込もうとしたのだった。ところが調子に乗って甘酒を飲みすぎたおなつに比べ、お仲のほうはさすがに一杯で止めておいた。その上おかしな具合になってきたと思い、念には念を入れて裏口の戸締りをした。あわてたお紺が縁側の雨戸をこじ開けよとしたのが失敗の元だった。一味は庭に潜んで雨戸が開くのをしばらくまっていた。その間にとり方に囲まれてしまったのだった。

「………そろそろ引き上げるとするか」
 意外なことの成り行きになんと言っていいのか分からず、親分は大久保屋を後にした。
―あの弥助みたいな野郎、なんか勘違いしちまったな。いずれ誤解も解けるだろうが、しばらくは立ち直れないだろうな。男に臭いは禁句だぜ。男っていう奴は洟垂れ小僧から還暦すぎた爺さんまで、臭いって言われると傷つくからなぁ」
 
 寝不足の親分は頭をボリボリと掻きながら、しばらく風呂に入っていなかったのを思い出した。
―寝る前にひと風呂浴びないと、かみさんに嫌な顔されるな。
 頭を掻いた指を鼻に近づけて思わずクンクンとやってしまった親分は、誰かに見られてはいなかったかとあたりを見回した。

    騒動を聞きつけて集まった野次馬たちの間を通り抜け、親分の姿が通りの向こうに消えて行った。あれだけいた野次馬たちの姿もしだいに少なくなり、飯の炊けるいい匂いがしてきた。豆腐屋や納豆売りの声に混ざって、蜆売りの声も聞こえてきた。

   大久保屋の勝手口を威勢よく開けて、お仲がザルを手に持って飛び出してきた。蜆売りの声に向かって走って行くお仲の下駄の音が、朝の空に響き渡った。

「器量よしだなんて初めて言われたもので、嬉しくなってしまい調子に乗って甘酒を飲みすぎてしまった」
 おなつは蜆の味噌汁を旨そうに飲むと、恥ずかしそうに呟いた。
「今にお前のことを心底可愛いって思ってくれる人が、きっと現れるよ」
 大奥様はおなつに優しく声を掛けた。その場に居合わせた者たちはおなつのそんな日のことを思って、ほんわりとした優しい気持ちになっていた。

   ところがそんな中で一人だけ優しい気持ちにもなれずに、落ち込んでしまった男がいた。太助はおなつの言った「太助さん、臭い、親父、気持ち悪い」の言葉に深く傷ついていたのだ。

草むしり作「わらじ猫」中9

2020-02-25 16:16:48 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中9
大久保屋の大奥様⑨
もののけ

 『木枯らしの宇平一味御用。その影に猫の恩返し』の見出しのついた早刷りの瓦版が出たのはその日の夕刻だった。瓦版には、頭の宇平と引き込み役のお紺の似顔絵が載り、押し込みの手口から過去に押し入ったお店の名前まで挙げられていた。いずれも大店ばかりで、中にはその後つぶれてしまったお店も少なからずあった。
 
 なかでも、お紺のマムシを使った所業は人々の度肝を抜いた。お紺の放ったマムシを退治し、大久保屋どころかその人柄を知る者にとっては、心のよりどころのような大奥様を守った猫のことも取り上げられ、判官ひいきの江戸の庶民の話題になった。その後お大久保屋のタマの名は叩く間に広まった。まではよかったのだが……

「毎度、魚屋でございます」
 太助が大久保屋の炊事場に声を掛けると、タマが飛び出してきた。
「おやタマお前たしか、一昨日伊勢谷さんに行ったんじゃないのかい」
「伊勢屋さんからお払い箱になって、今朝返されてきたのよ」
タマに代わって答えたにはお仲だった。
「あれだけ大騒動してタマを掻っ攫(かっさら)っておきながら、たった三日でお払い箱とはね。うん、タマお前、臭うよ」 
「分かる。今朝おなっちゃんとお湯で拭いてやったんだけど、まだ臭うでしょう」

 ことの起こりは瓦版の隅に小さく載ったタマの出生にまつわる話だった。親にはぐれたのか捨てられたのか、乳離れもしていない小さな仔猫が雨に濡れていた。それを拾って育てたのが、大久保屋のした働きの女中おなつと書かれてしまったのだ。
 
 タマの名とともに育ての親のおなつの名前まで瞬く間に広まり、大久保屋にも多くの客が訪れるようになった。売り上げも伸びてそれはそれでいいことなのだが、困ったことにタマは自分の家からさらわれた猫だと言い出す者が現れたのだ。大概はそんな難癖をつけて、何がしかの小金をせしめようと小悪党だったが、中には証人を立てて奉行所に訴え出た者がいた。それが伊勢屋の夫婦だった。
 
 伊勢屋はこのところ急にのし上がって来た材木屋で、平たく言えば火事のたびに焼け太った成り上がりだ。木場のはずれにあった小さな材木問屋を居抜きで買いとって、商売を始めたのが十年ほど前だった。元は木曾の修験者だったとか、秩父の霊媒師だったとか胡散臭い噂がささやかれていが、定かではない。新しく立て替えた屋敷は木曾の総檜つくりだとも言われている。その檜つくりの新居で、趣味の悪い壷や皿に囲まれて暮らしている、絵にかいたような成金だ。
 
 何でもタマは一人娘が飼っていた猫の子どもだというのだ。娘の踊りの師匠だったというやけに艶っぽい女を証人にして、おなつを猫のかどわかしで訴えたのだ。奉行所からはおなつとタマに呼び出しがかかった。どうやらお白砂の上で決着をつけるようだ。
 
 最初のうち無視を決め込んでいた大久保屋は、これには驚いた。開いた口がふさがらないとはまさにこのことだった。奉行所もいったい何を考えているのだろうか、そんな訴えを真に受けるなんて。出るところに出て、白黒つけるのも面白いかもしれない。しかしおなつを奉行所のお白砂の上に上げるのもしのびない。 
「タマに本当の飼い主を決めさせようじゃないかい」大奥様はそう言って、タマを伊勢屋に渡したのが、一昨日だった。
 
 伊勢屋の夫婦は大喜びでタマを自慢の屋敷連れ帰り、これが仔猫のときにさらわれた猫だと親戚にお披露目までした。ところがタマは伊勢屋に来た早々自慢の屋敷の床柱で爪をとぐわ、鍋に蓋を開けて煮あがったばかりの煮しめに口をつける有様だった。おまけに鼠などには見向きもせずに池の中の錦鯉や、鳥かごの中の十姉妹を狙い始めた。
 
 腹に据えかねた伊勢屋の主人が、「タマお前さん、鼠捕りの名人だって聞いたが、あれはハッタリだったのかい」といった。するとタマがプイと表に飛び出して行き、夜になっても帰ってこなかった。慌てて店の若いものに探させたか見つからなかった。

「今夜は特別冷え込む、もうあんな猫ほっといて早く寝よう」と伊勢屋の亭主と女房が布団に入り、やっと温まったときだった。襖の向こうで小さな動物が走り回っているような音がする。猫の鳴き声も聞こえたのでてっきりタマが帰ってきたのだろうと亭主は思ったそうだ。

 放っておいて寝ようと思ったが、ガタガタとうるさく走りまわって寝られない。タマのやついい加減にしろと、亭主が部屋の襖を開けたときだった。黒い塊のようなものが部屋に飛び込んできた。てっきりタマだろうと思い、亭主が思い切り蹴飛ばしてやった…。

「じゃぁ、この臭いはイタチだったのかい」
 太助は改めてタマの臭いを嗅いで見た。自分も魚臭いといわれたら身も蓋もないが、ずいぶんと嫌な臭いだ。今までに嗅いだことのないような臭いだった。

 さて皆さまその途轍も無く嫌な臭い。どんな匂いだかご存知でしょうか。まああの時代に「わきが」なんてあったかどうかは知りませんが。あれのひどい奴だと思って下さい。もう皆さま、顔をしかめられたのではありませんか。

「タマなんてかすめただけだから、まだいいそうよ。伊勢屋さん夫婦はまともに食らっちゃって、この寒空に井戸の水で行水したそうよ。それでもまだ臭いが取れないらしくって、これから襖や畳の張替えをするそうよ」
 伊勢屋夫婦が震えながら行水をするところを想像して、太助は思わず噴出してしまった。

「お前の飼い主はおなつに決まっているじゃないか」
足元で毛繕いを続けているタマに話かけた。

「気の毒なのは番頭さんよ。タマけっこうに臭っているでしょう、でも途中で逃げたら大変だってしっかり抱いて返しにきてくれたのよ。御主人の尻拭いをさせられちゃって。なんだか疲れきった顔していたわ。でも本当にタマにそっくりだったみたいよその仔猫。奥様の思い込みが激しくってね、いくら言ってもあのときの仔猫だって聞かないらしいの」
「しかしよ、お仲ちゃん。別に伊勢屋の肩を持つ訳じゃないが、タマに似た猫けっこう見かけないかい。おいら早馬に蹴られて死んだ猫見て、てっきりタマだとおもった思よ」
 タマはまだ臭いが気になるらしく話しこむ二人の間に座ると、毛繕いに余念が無い。

「あらそれならわたしもこの間、乾物屋さんから干し鱈咥えて飛び出してきた猫見て、思わず『こらタマ』って言っちゃった。でもタマくらい毛並みが綺麗な猫いないわよ」
「おいらもそう思うよ。この腹のところの白い毛なんて、透き通っているじゃないかい」
「そう、それに背中の黒と灰色のしま模様がまた綺麗で、朝日に当ると銀色に光って見えるのよ」