草むしりしながら

読書・料理・野菜つくりなど日々の想いをしたためます

草むしり作「ヨモちゃんと僕」後編のご案内

2019-09-25 05:56:40 | 草むしり作「ヨモちゃんと僕」
 草むしり作「ヨモちゃんと僕」後編の御案内

◎当草むしりブログにご訪問いただき、ありがとうございます。
さて当ブログは明日よりしばらくの間、お休みいたします。なお草むしり作「ヨモちゃんと僕」後編を投稿いたしましたので、読んでいただければ幸いです。

草むしり作「ヨモちゃんと僕」後1

2019-09-25 05:55:52 | 草むしり作「ヨモちゃんと僕」
草むしり作「ヨモちゃんと僕」後1

(夏)ネコは何かを我慢している①

 台風はぼく代わりに、停滞していた梅雨前線を連れ行ったようです。翌日は朝から青空が広がり、家中の窓が開け放されました。乾いた風が湿った部屋の中を吹きぬけ、夏がやってきました。

 久しぶりの青空に喜んだのもつかの間でした。お母さんがたまっていた洗濯物を干し終った頃には、寒暖計の針はグングンと上昇して、今年一番の暑さになりました。梅雨の雨空に慣れてしまった体は早くも悲鳴をあげ、雲一つない夏空をうんざりと見上げる始末です。

 梅雨明けと同時にハウスみかんの収穫が始まり、お父さんとお母さんは毎日忙しく働いています。まだ夜が明けきらない朝の涼しいうちに、みかんの摘み取り作業を始めて、午後からは出荷のための箱詰作業。それでなくても暑い夏場、ハウスの中の温度は四〇度を軽く超えます。その暑さの中で、みかんを一つひとつ手作業で収穫していく、きつい仕事です。

 真冬に加湿器で温めて、ハウスの中を春の状態にして花を咲かせます。ハウスの中で温度や水やりを調節して、春から夏そして秋へと、季節を先取りしてみかんを実らせます。収穫は一年間の仕事の集大成です。お父さんもお母さんも毎日忙しそうです。
 
 そんな中、ぼくたちも大忙しです……。ああ、ごめんなさい。嘘をついてしまいました。大忙しなのは、ヨモちゃんだけです。
 ヨモちゃんは夜になると倉庫の見回りにいきます。甘いハウスミカンは人間だけではなく、ネズミも大好きなのでしょう。ハウスミカンの収穫が始まって以来、ヨモちゃんは二日に一度くらいの割でネズミを捕ってくるようになりました。

「こんなに居るのか」
 お父さんは、ヨモちゃんがたくさんネズミを捕って来るのに驚いています。もしヨモちゃんがいなくなったら、家はネズミであふれてしまうのではないかと心配もしています。
「お前もヨモギみたいにネズミを捕っておいで」
 離れの仏壇の前で大の字になって昼寝をしているぼくに、お父さんが言いました。

 人間は汗をかくことにより体温を調節していますが、ぼくたちネコは汗が出ないので体を舐めて体温の調節をします。しかし唾液で体を濡らしたくらいでは、真夏の昼下がりの暑さを乗り切ることはできません。涼しい所に避難して、仰向けになって手足を大きく広げて、体内に籠った熱を発散させるのです。

ぼくの知る限り家の中で一番涼しい場所は、離れのお仏壇のある部屋です。だからお仏壇の前で一番涼しくなる恰好で寝ていただけなのですが、お父さんにはどんな風に見えたのかなぁ。
「………」
 ぐっすり眠っていたものだから頭がボーっとして、声を出すのもおっくうです。こんな時にはなにか食べるのに限ります。
「どうしたフサオ、黙ったままで。なんだ、お腹が空いたのか」
食べ残しのカリカリを食べているぼくに、お父さんが声をかけました。たぶんぼくが黙ったまま仏壇の部屋から出て行ったので、気になってようすを見に来たのでしょう。

「そうか、お前。ストレスを何か食べて発散するタイプかぁ」
「やっと頭がすっきりした」
「そうか、そうか。ネズミが捕れないこと気にしていたのか」
「あっ、お父さん何しているの」
「悪かったな、お前がそんなに気にしているとは思わなかったよ。そのうち捕れるようになるからな、今聞いたことは忘れろよ」
「うん。なんのことだが分からないけど、忘れるよ」

 その日以来お父さんは、ぼくにネズミを捕ってこいとは言わなくなりました。それから毎日暑い日が続き、お父さんとお母さんは相変わらず忙しそうにしています。その間ぼくはすっとお仏壇の前で、大の字になって寝て過ごしました。

草むしり作「ヨモちゃんと僕」後2

2019-09-25 05:54:38 | 草むしり作「ヨモちゃんと僕」
草むしり作「ヨモちゃんと僕」後2

(夏)ネコは何かを我慢している⓶

  そんな日ある朝、お父さんが家中のカレンダーを破き始めました。実は七月はとっくに終わっていたのですが、カレンダーが七月のままだったのです。二人ともハウスの仕事が忙しくて、とてもカレンダーまでは気が回らなかったのです。

「今日でハウスも終わりだ」 
  八月のカレンダーを見ているお父さんはなんだかとても嬉しそうです。その日は二人とも夜明け前に出かけていき、帰って来たのはすっかり暗くなってからでした。

「遅くなってごめんね。今日が最後だから、後片付けしていたのよ」
 お母さんは慌ててぼく達のお皿に、カリカリを入れてくれました。
「これ、フサオ。もう少しゆっくり食べなさい。」
 お母さんがぼくに言いました。
「フサオたら、またこんなにこぼして。慌てて食べるからよ」
 ぼくは普通に食べているのですが、お母さんには慌てて食べているように見えるようです。ぼくはお皿に入ったカリカリを食べるのが下手で、半分はお皿の外にこぼしてしまいます。

「ほらそんなにこぼすと『お行儀が悪い』って弓子に怒られるわよ」
「ユミコ」
「そんなこと言ったってなぁ、しょうがないよ。小さい時からの癖だからな。親がかっぱらってきた食い物を、地面の上で大急ぎで食っていたンじゃないのか。皿ン中の物を上品に食うような躾は受けていないよ」
「それもそうだけど、お皿の中の半分はこぼしているわよ」
お母さんはこぼれたカリカリを拾ってぼくのお皿に入れてくれました。

「大変だ、フサオ。弓子に怒られるぞ。あいつは自分に甘く、人には厳しいからな。『こんなにこぼして、もっとお行儀よく食べなさい』ってな」
「うん、ユミコ……。誰のこと」
「大丈夫、気にするな。お前はお皿のカリカリはこぼすけれど、仏壇の湯飲みの中のお茶はこぼさずに上手に飲めるじゃないか」
「そんな、悪いことが上手に出来たからって、誉めてどうするのよ」
「いやいや、お茶なんか飲む猫めったにいないぞ。その上一滴もこぼさずに飲むンだから、たいしたものだ。いいかフサオ、弓子の言うことなんか気にしないでいいからな。それよりも問題は時生だよ。あいつは本当にやんちゃ坊主だからな」
「やんちゃで困るって。弓子がこぼしていたわ」
「だから心配なンだよ。あいつフサオの髭を切ったりしないかって。」

 心配だなんて言っている割には、お父さんはちっとも心配そうな顔はしていません。むしろ嬉しそうにも見えます。
「そんなことするわけ無いでしょう。フサオ、フサオって今から楽しみにしているそうよ」
「トキオかぁ」
「それなら安心だな…。あれっフサオお前もう食べないのかい。まだカリカリが残っているのに……。あいつ今の話、本気にしたのかな」

 ユミコは口うるさくてぼくを叱りつける。トキオはぼくの髭を切ってしまう。ぼくはどっちも嫌だなぁと思いました。そんなぼくの気持ちが天に通じたのか、翌日は朝から雨が降りました。

草むしり作「ヨモちゃんと僕」後3

2019-09-25 05:50:30 | 草むしり作「ヨモちゃんと僕」
 草むしり作「ヨモちゃんと僕」後3

(夏)ネコは何かを我慢している③

 久しぶりの雨は渇ききった畑や庭を潤し、暑さに疲れ切っていたぼくたちに一時の涼しさを運んできました。雨は一日降り続き、夕方になってやっとやみました。コンクリートのへこみの中に出来た小さな水溜りに、雲の隙間から遠慮がちに顔を覗かせたお日様の光が、キラキラと反射しています。

 アレ、ヨモちゃんが水溜り覗きこんでいます。そういえば今朝から姿が見えませんでした。きっとどこか涼しいところで昼寝をしていて、目が覚めたばかりなのでしょう。水溜りに反射する光が面白いのかな、やけに熱心に覗いています。

「えーい」
 水溜りに黒い影が映った瞬間、ヨモちゃんは空に向かって大きくジャンプしました。空中で前脚を伸ばして、何かを捕まえようとしています。うん、あれはツバメだな。ツバメがヨモちゃんの頭の上を飛び回っています。子育てを終わったツバメたちは、親子で一緒にあっちこっちを飛び回り、遊んでばかりいます。春にはあんなに一生懸命に働いていたのに、今では泥で作った軒下の巣は空っぽになって壊れかけています。

「やあ、元気かい」
 ツバメたちに声を掛けられたとき、ぼくはちょうど脚の裏を舐めていました。雨に濡れた庭を歩いたものだから、脚の裏が泥んこになってしまったのです。爪を立てて肉球を広げて、間に入り込んだ泥んこをきれいにしている最中でした。

「うん、ぼくのこと呼んだ」
 顔をあげたぼくを見て、ツバメたちは必死に笑いをこらえています。どうしたのかな。
「バカなツバメの相手も疲れるわ。手加減してやっているのも知らないで、いい気なものよ。早く南の国に帰っちゃえばいいのに」
 その隙にヨモちゃんは庭に止めてあった軽トラの下に逃げ込みました。空から攻撃を仕掛けて来るツバメも、さすがに車の下までは行けません。お父さんのトラックの下は、ヨモちゃんのいい避難場所になっています。

「フサオ、さっきからずっと舌がでているわ。」
「えっ、嘘」
 しまった、舌を出したまま挨拶をしてしまった。一生懸命に舐めていた所に、急に声を掛けられたものだから、舌をしまい忘れてしまいました。恥ずかしい。
「秋になったらぼくたちは南の国に帰るよ。君は風に乗れそうかい」
「どうかな、でも見ていてね」
名誉挽回のチャンスです。ぼくは舌が出ていないか確認して、庭の梅の木の上に一気に駆け上りました。

「いいかい、見ていてよ」
 梅の木の一番高い枝の上から、空に向かって大きくジャンプしました。空中で尻尾を思い切り膨らまし、脚も思い切り横に広げました。体が空中で一瞬止まり、それから静かにゆっくりと下に落ちていきました。
「ずいぶんと上達したね。でも飛び降りる高さ足りないね。『残念さん』の大イチョウの木のてっぺんから飛んだら、本当に風に乗れるかもしれないよ」

「残念さんの大イチョウだって」
 残念さんとは近くにある神社のことで、本当の名前は「山神社」なのですが。ここら辺の人はみんな「残念さん」と呼んでいます。神社にはマムシに噛まれて命を落とした若いお侍さんが祀られています。お侍さんの名前は加藤何某(なにがし)とかいう、繁森藩の藩士でした。

 繁森藩は石高三万二千の小さな藩で、ぼくの住む山間の町も昔は繁森藩の領地でした。加藤何某は城下から山を抜け長州に向かう途中、今の残念さんの辺りでマムシに噛まれて三日三晩苦しんだ末に、「残念なり」と言って命を落としたと伝えられています。

 当時長州では徳川幕府を倒して新しい政府を創ろうとする長州軍と、そうはさせまいとする幕府軍との戦が始まろうとしていました。
「今は幕府だ、長州だと。国内で争っている時ではない。そんなことをしていたらこれからの発展は望めないどころか、外国の餌食になってしまう」。加藤何某はこの戦を何とか止めさせようと、密かに国元を出て長州に向かおうとしていたのでした。
 もちろん、長州や幕府につてがあるわけではないし、藩命を受けたわけでもありません。それどころか当時は藩士が許可なく領地を出ることは禁じられていました。もし見つかれば本人どころか家族まで処罰されました。それでも何某はこの戦いを何とかして止めさせたい一念で、長州を目指していたのです。

 しかしなぜ一小藩の下級武士が、そんな危険を冒してまで長州を目指したのでしょうか。話は何某がマムシに噛まれた時より、六年前の三月三日の朝にさかのぼります。その頃、繁森藩上屋敷は桜田門外にありました。そしてあの有名な「桜田門外の変」は、繁森藩上屋敷の門前で起りました。ところが突然斬り合いがはじまると、繁森藩は門を固く閉じてしまい、関わり合いになるのを避けしまったのです。

 当時、江戸詰になったばかりの何某も、この様子を門の中から見ていました。そして六年後、今度は繁森藩とは瀬戸内海を隔てた長州で国の行き先を決める戦が勃発しました。その時何某は思いました。もう目の前の一大事を、見て見ぬふりはしたくないと。そして長州に向かったのでした。

 ところがマムシに噛まれたのはまだ領地の中で、家を出てから一刻、今の時間にすると二時間しかたっていませんでした。ここから御城下のある町までは、元気のいい高校生なら自転車で通えるくらいの距離なのです。
 村人はその何某の崇高な志を偲んで。いや、領地さえ出ないまま命を落としてしまった何某の無念を偲んで……。いや、なんて運の無い奴、残念な奴なのだと思い、神社を建立したと伝えられています。今では『残念さん』と呼ばれ、みんなに親しまれています。

 神社自体は小さいのですが、御神木のイチョウの木はとても大きくて、根元部分の幹は大人三人が手をつないでやっと囲えるくらいの太さです。イチョウの木は「残念さんの大イチョウ」と呼ばれ、遠くの家からでも見えます。二階の窓から見えるイチョウの木のてっぺんを思い浮かべながら、ぼくはちょっと考えてしまいました。あんなところから飛んだら、それこそぼくが残念さんになってしまう。

「うん。でもね、まだまだ脚の広げ方が足りないンだ」
「そうなのか。秋までに脚をもっと広げることが出来たら、一緒に南の国に行こうね」
「う、うん。考えておくよ」
ツバメたちは河原の葦の中に帰っていきました。


草むしり作「ヨモちゃんと僕」後4

2019-09-25 05:49:29 | 草むしり作「ヨモちゃんと僕」
草むしり作「ヨモちゃんと僕」後4

(夏)ネコは何かを我慢している④

「あら嫌だ、大変」
 納屋からお母さんの声が聞こえてきました。お母さんはこの頃、上機嫌で家のお掃除をしています。もうじきユミコがトキオを連れてやって来るので、嬉しくて仕方ないようです。納屋の中で何かあったようです。ぼくたちは急いで納屋に走って行きました。
「お母さんどうしたの」
 納屋の中でお母さんがジャガイモを選り分けていました。仕舞っておいたジャガイモが、ネズミに齧られてしまったようです。
「ヨモギ、ここにネズミが出るわよ」
 お母さんはネズミの歯型の残ったジャガイモを残して、家に中に入って行きました。今夜はカレーライスかな、台所からタマネギを炒める甘い香りがしてきました。

「フサオおいで」
 台所でヨモちゃんがぼくを呼んでいます。さっき夜のパトロールに出たばかりなのに、やけに早く帰ってきました。納戸部屋で眠っていたぼくは、慌てて台所に行きました。
「あげる」
 ヨモちゃんは捕ってきたネズミをぼくにくれると、また外に出て行きました。この頃ヨモちゃんは、気が向くとぼくにネズミをくれます。ぼくは喜んで貰ったネズミをチョンチョンと突いてみました。でもネズミはピクリともしません。
「どうせくれるのだったら、生きている方がいいのになぁ」と思いましたが、自分で捕れないのですから文句は言えません。ぼくは仕方なくネズミを突いたり放り投げたりしていましたが、そのうちだんだんと面白くなってきました。

 チョンチョンチョン、ボーン、パッ。ネズミを突いたり放り投げたり、空中でキャッチしたり、もう面白くて仕方ありません。ぼくはいつの間にか自分でネズミを捕った気になって、そこいら中を駆けずり回っていました。ネズミには、ぼく達ネコの野生の血を呼び起こす力があります。大昔人間が収穫した穀物をネズミから守るために、野生のヤマネコを飼い慣らしたのが、ぼく達ネコの祖先だと言われています。その後長い年月を経て、今のぼく達があるのです。
 ヨモちゃんみたいにネズミ捕りの上手いネコや、ぼくみたいにへたくそな奴、中にはペットショップで売られている奴もいます。でもどんなネコでも、ネコはネコです。ネコにはネズミを見ると飛びかかっていく野生の血が、脈々と流れています。そして今まさにぼくの中の野生の血が、フツフツとたぎり沸点に達しようとしていた時でした。

「はいフサオ、ありがとう」
 爪の先にネズミを引っかけて大きく空中に放り投げ、落ちた所に飛びかかろうと、低く身構えた時でした。お父さんの声がして、目の前のネズミが無くなってしまいました。
「あっダメ、ぼくの」
お父さんが火箸にネズミを挟んで立っていました。
「ぼくが貰ったンだから」
 お父さんはぼくのことなんか無視して、外にネズミを捨てにいきました。でも一度騒いだ野生の血はすぐには収まりません。お父さんを追いかけて外に出たぼくは、お父さんの捨てたネズミを探して、そこいら中をうろうろしていました。

「フサオ、帰るよ」
 遠くでお父さんの声が聞こえました。でもぼくはまだ家に戻って眠る気はしません。お父さんとお母さんはもう寝たのかな。あたりは真っ暗になっていて、軒下の電灯だけがポッンと点いています。電灯のほの暗い灯りに誘われて虫が集まってきています。虫たちは灯りの下でクルクルと輪を描いて飛び交っています。カタカタと電灯に体当たりしているのはカナブンです。緑色のキラキラとした体が電灯の下で怪しく輝いています。

「いただき」
 ぼくは、カナブンが電灯にぶつかって落ちてきたところに飛びかかりました。
「どんなもんだい」
 チョンチョンチョン、ボーン、パッ。今度はカナブンで遊び始めました。ちょっと迫力にかけるけど、自分で仕留めた獲物です。そのうちだんだんと面白くなってきました。

「楽しそうだね」
空の上から声がしました。
「誰、母ちゃん」
 ぼくは空を見上げました。暗い夜空には母ちゃんの姿はなく、無数の星が瞬いているだけでした。ぼくは台風に連れて行かれそうになった時に、母ちゃんとはぐれてしまったことや、姉ちゃんが車に跳ねられて死んでしまい、ぼくだけ生き残ったことを思い出したのです。
「母ちゃん。台風の奴、また来るって。本当かなぁ」
 ぼくは星に向かって話しかけました。でも、星はチカチカと瞬くだけです。
 
 少し間延びした台風の声を思い出したのは、今年最初の猛暑日になった日の夕暮れ時でした。
 薄暗い台所でお母さんが夕飯の支度を始めていました。トントンとまな板の上で何かを切る包丁の音がして、グラグラとお湯が沸きました。静かだった家の中が急に賑やかになって、ぼくは長い昼寝からやっと目が覚めました。

「今度来た時には、必ず連れていくからね」
台風の声が、不意に耳元でささやき始めました。
「来るな」
ぼくの体中の毛が逆立ちました。
「来るな」
ぼくは家中を逃げ回りました。
「あっ………」
急に辺りが明るくなりました。ぼくは眩しくて目をしかめました。
「どうしたフサオ、何かいるの」
明るさに目が慣れると、お母さんがぼくの顔を覗き込んでいました。
「なんか怖いものが見えたのかな。もう電気つけたから怖いものいなくなったでしょう」
お母さんは目を瞬かせているぼくの頭を撫でてくれました。少しザラザラしたお母さんの指先で撫でられると、ぼくの喉はゴロゴロと鳴り、逆立ったぼくの毛は静かに元に戻りました。
「あんなの嘘に決まっているよね、お母さん」
「うん、もう怖いモンなんていないよ」
ぼくの喉はいつまでもゴロゴロと鳴り続けました。
 
 あれから時折台風のことを思い出します。思い出すたびに静かだったぼくの心にさざなみが立ち、ぼくを不安にさせます。
「ぼく、どうしたらいいの」
暗い夜空に星が一つ、光の尾を引いて流れていました。