草むしりしながら

読書・料理・野菜つくりなど日々の想いをしたためます

草むしりの「幼年時代」その7

2018-11-29 14:05:29 | 草むしりの幼年時代
草むしりの「幼年時代」その7

日本の首都

 お正月にもらったお年玉はすぐに使わず、からす市で使う。これは私が通った小学校の生徒たちのお年玉の使い方だった。からす市とは学校の近くにある小川(こがわ)という商店街のお祭りのことである。

 旧暦の十二月一日はからす朔日(ついたち)と言われ、私たちの地域ではこの日は台所にと祀られている大黒様が、出雲の国に相撲を取りに出かけるという言い伝えがあった。

 その日はおこわを炊いて大黒様にお供えし、家中で烏が啼く前に起きて、おこわを食べる風習があった。なんでもそうしないと大黒様が出雲に出かけられないそうだ。

 旧暦の十二月一日はちょうど一月の十日前後で、一番寒い時期になる。母は早くから起きておこわを大黒様にお供えすると、私たちを起こしにかかる。「あんたたちが早く起きないから、大黒様の出発が遅れる。遅れて行って相撲に勝つわけがない。だから我が家はいつまでたっても貧乏なのだ」と毎年のように言っていた。

 からす市はこのからす朔日にちなんで、始まった市のようだ。小さい頃は母に連れられて、大きくなると友達と待ち合わせて行った。
 
 私がまだほんの小学校の一年か二年の時だった。「日本の首都はどこだ」と上級生の男の子に聞かれたことがあった。誰かが「別府」と答えた。私も別府だと思ったが、私よりもっと小さな女の子が「小川」と答えた。さすがにそれは無いだろうと思ったが、当時確かに小川は賑やかな街だった。
 
 とりわけからす市の日には大勢の人で賑わった。瀬戸物の競り市が立ち、通りの両脇にはずらりと屋台が並んでいた。小雪のチラつくような寒さの中、たこ焼きのソースの焦げた匂が漂い、遠くで玩具のラッパの音が聞こえた。今でもカラス市は存続しているが、訪れる人もまばらな通りに、露店が一つ二つ。

 目をつぶると人ごみの中を縫うように、お年玉を握り締めて歩く幼い私がそこにいた。日本の首都は小川だと答えたあの子は今、何をしているのだろうか。あんなに居た人達は、何処に行ってしまったのだろうか。
 

◎いつも草むしりブロブを見ていただいてありがとうございます。明日よりしばらくお休みして、十二月十一日より再スタートいたします。ご期待下さい。

時間旅行

2018-11-27 13:56:57 | 平成
 時間旅行
 
 二十数年前に、滋賀県の近江八幡市に二年ほど住んでいた。今考えても残念なのは京都の近くだったのに、ほとんど行ったことがなかったことだ。たぶんいつ行っても混んでいるのが、当時はとても嫌だったのだろう。
 
 八幡に越してすぐの頃は琵琶湖が珍しく、子供たちと一緒に自転車で探索をした。ある時湖岸の道路を行き当りばったりで走っていたら、安土城跡に出たことがあった。
 
 田んぼの中の小高い山が、教科書に出て来る有名な場所とはとても思えなかった。当時の面影を残すのは石段と、聞いたことのある武将の住居跡に立っている看板だけだった。
 
 ハイキング気分で石段を登っていくと、森蘭丸の住居跡があった。信長の住まう天守閣のすぐ近くであり、天下に名を轟かせた武将たちよりも最も近いところにあった。いつも信長の傍近くにいたことが伺われる。
 
 今風に言えばイケメン。その人となりに思いを巡らしている時だった。不意に風が吹き抜けた。「蘭丸がいた」風が私の頬を撫ぜた瞬間、蘭丸の息づかいを感じた…。

 遠い過去に一足飛びに、時間旅行をした。 壮大な天守閣や、賑やかな城下の街並みが、木々の向こうに一瞬見えた。

草むしりの「幼年時代」その6

2018-11-25 13:03:42 | 草むしりの幼年時代
草むしりの「幼年時代」その6

母のドーナツ 
 
 小麦粉に砂糖とふくらし粉に塩少々を隠し味にする。今の時代だったら卵の一つくらいは入れるだろうが。量は全然適当で、ふるいでふるったりはしない。水を加えたら粉が少し残るくらいに混ぜ合わせ、手で棒状に伸ばす。それが倍くらいに膨らんでキツネ色になるまで、低温の油でゆっくり揚げる。揚げたてに砂糖をまぶして出来上がる。
 
 母のドーナツは噛みしめると口の中で小麦粉の味が広まって、油の染みた砂糖がおいしさを引き立てていた。それにしても昔の油はよく跳ねた。跳ねると言うよりも、走るという表現の方が合っていた。その油で母が初めてドーナツを作った時のことである。
 
 顔や手に手ぬぐいを巻き付けて、激しい勢いで跳びはねる油を鍋の蓋でよけていた。私と姉は少し離れたところでそれを眺めていた。なんだか母が月光仮面のような恰好で、ドーナツを揚げているのが面白かった。けれども母があんまり真剣なのと、油の跳ねる音が恐ろしくて、笑いたいのを必死でこらえていた。
 
 以来母のドーナツを食べる度に、いつもクスっと笑ってしまう。油の品質は当時に比べ格段と上質になり、あんな恰好で揚げたのは後にも先にもあれ一回きりの、懐かしい思い出である。

草むしりのこだわり

2018-11-24 14:39:16 | 平成
 草むしりのこだわり
 
 畑の隅に落ち葉を広げる。広さは畳一枚半くらいで、その上に乾燥鶏糞を広げる。本当は湯気の出るような生の牛糞にしたいのだが、そんな物は無い。仮にあったとしても、近所迷惑だからやめたほうがいい。仕方がないから上から水をまき、土をかけて踏み固める。
 
 何度か同じ作業を繰り返し、米ぬかや椎茸の原木の朽ちたもの、風呂焚きの際に出た灰なども混ぜて、最後にビニールシートで囲って完成させる。今年の堆肥作りはこれで終わり。もちろんすぐには使えない。時々切り返して、二年寝かせてから使う。
 
 こだわりの堆肥はこだわりの畑に入れる。私のこだわりの強い味方は、カマキリやてんとう虫、他にも蛙や小鳥、蜘蛛たちである。意外なのがスズメ蜂で、以前オクラの葉の上についた虫を、団子のように丸めて飛び去ったのを見たことがある。強面の悪役のイメージを持つ昆虫の、別の一面を見た気がした。
 
 それからもう一つの悪役の雑草もそうだ。種を持つ前に引き抜いて枯らしたものを、敷き藁の代わりにする。野菜の収穫が終わったら、畑にすき込み土に返す。

 サポーターは家族や親戚の声。「味が違う」との声に気をよくして、何やかにやとこだわる一方である。


草むしりの幼年時代 その5

2018-11-22 13:26:57 | 草むしりの幼年時代
草むしりの幼年時代 その5

嬉しい日の弁当
 
 朝のテレビでクイズをやっている。チーズ、巻き寿司、ロールケーキ。この中でクッキングペーパーを使うと、きれいに切れる物はどれでしょうかと。巻き寿司だと思ったのに。残念、正解はチーズだった。障子紙だったら間違いなく正解は巻き寿司なのだが
 
 菜切り包丁の刃先の二ミリほど上から、水濡らした障子紙を貼りつけて巻き寿司切る。こうするとすし飯が包丁にくっつかず、どんどんと切れる。自分で考案したのだろうか、それとも婦人会で習ったのだろうか。母は何かある度に大量に巻き寿司作っては、いつもそうやって切っていた。
 
 朝寝坊の私だったが、運動会や遠足の日には早起きしていた。けれども母はもっと早起きで、私が起きたころには巻き寿司を切っていた。包丁にはいつものように障子紙を張り付けている。張り付けるのは厚手の障子紙で、同じ和紙でも習字紙では上手く切れない。

 巻き寿司を切る時の母のこだわりは濡れた障子紙で、私の楽しみは切った巻き寿司の端っこ食べること。前の日からおやつをリュックに詰めて、楽しみで眠れなかった遠足の日の朝。後にも先にも一度きり、リレーの選手に選ばれた運動会の日の朝。いつも巻き寿司の端っこを食べて学校に行った。

 卵焼きの黄色、椎茸の黒、三つ葉の緑色、桜でんぶの桃色と白い寿司飯と黒い海苔。切り口を上に向けるときれいだけれど、弁当の中に入る巻き寿司の数が少なくなる。だからといって巻き寿司を立てて並べると、海苔の黒いとこだけが見えてちっとも楽しくない。だから切り口を上に向けて2段に重ねる。これだと弁当の中に巻き寿司がいっぱい入って、見た目もきれいだ。母の苦心が伺える。

 小学校の春の遠足は、全校生徒で学校から四キロほど離れた海に歩いて行く。クラスごとに並んで歩き、海岸に着くと解散になる。「解散」の声で急に辺りに人がいなくなり、私一人取り残された。どうすればいいのかわからずその場に立っていたら、姉が迎えに来てくれた。

 姉は近所の仲良しさん達の所に連れていてくれた。いつも遊んでいる一つ違いの友達や、遊んだことの無い高学年のお姉さんもいた。砂浜の上に新聞紙を敷き、海を見ながらみんなでお弁当を広げる。どの子のお弁当もみんな巻き寿司だった。

 「こうやって二段に入れると、たくさん入ってきれいでしょ」姉が友達にお弁当を見せて自慢している。巻きずしを二段に重ねて入れるのは、姉の発案のようだ。お弁当は半分だけ食べて、残りは取っておく。
 
 帰りは地区ごとに歩き、途中で学校に寄ってひと休みして、二キロの道を歩いて帰る。靴脱ぎ場の簀の子上に腰を下ろし、残しておいたお弁当をみんなで食べた。人影のまばらな学校は、ちょっと怖かったけど、姉がいるから平気だった。姉とはいつも喧嘩ばかりしていたが、こんな時には仲が良かった。その上残しておいた巻き寿司は特別おいしかった。

 遠い昔の嬉しい時の思い出はいつも、弁当箱の中の巻き寿司と一緒にある。