草むしりしながら

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草むしり作「わらじ猫」前編 のご案内

2020-01-23 07:13:24 | 草むしり作「わらじ猫」
◎当草むしりブログにいつもご訪問いただきありがとうございます。
さて当ブログは明日よりしばらくお休みいたします。その間草むしりが以前書きました、小説「わらじ猫」前編の投稿をいたします。
 この「わらじ猫」を書いた年はAKB48の総選挙が巷の話題になり、「恋するフォーチュンクッキー」が大ヒットしました。その頃の私は藤沢周平の短編小説のあらすじを書いておりました。
 この話に登場する猫のタマのモデルは、私の飼っている猫のハナコです。ハナコを有名にする方法はないものかと考え、この小説を書きました。私にとってはやっと小説らしいものが書けたという、思い出があります。よろしければ読んでみて下さい。

草むしり

草むしり作「わらじ猫」前1

2020-01-23 07:12:13 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」 前1

㈠裏店のおっかさん ①

 掘割を吹き渡る風が冬の気配を運んできた。昼間のあいだは小春日和の暖かさだったが、日が西に傾き始めたとたんに風向きが変わった。おなつの住む裏店にも冷たい風が吹きぬけ、雨雲をつれてきた。開け放されていた長屋の戸が一斉に閉じられた。おなつが妹のおみつと、弟の幸吉の手を引いて長屋の木戸をくぐったころには、あたりはもう薄暗くなってきた。
 
 お酉さまの市が始まるころには江戸の町も寒さが本格的になってくる。今年は三の市まであるので火事が多いだろうと、大人たちが話していた。湯屋を出たころにはポカポカとしていた体が、ちびた下駄を履いた爪先から冷えてきた。いつもなら井戸端で噂話に余念のない長屋のおっかさんたちも、この寒さで慌てて家に戻ったようだ。薄暗闇のなか表戸の閉じられた長屋は、いつもと違ってなんだか少しよそよそしかった。

 木戸から路地に向かって風が吹き抜け、軒下に吊るされた誰かが取り込み忘れた洗濯物を、ふわりと揺すった。吹き溜まりに集まった落ち葉がカサカサと乾いた音を立て、井戸の奥に祭られたお稲荷さんの祠(ほこら)の奥で、何かがチラリと動いた気がした。おみつと幸吉の手をにぎり締めると、おなつは慌てて家に向かって走っていった。

 後ろから何かに追いかけられている気がして、おなつは家の戸を思いきり引いた。
「おっかさん、急に寒くなったよ」
 ただの薄暗闇を怖がってしまったのが照れくさくて、大声で母親に声をかけた。とたんに家の中がぱっと明るくなった。母親のお松が行灯に火を点けたようだ。
「ちゃんと肩まで浸かったのかい」
 行灯を覗きこんだままお松が答えた。背中に負ぶった赤ん坊が振り返ると、言葉にならない言葉をなにやら喋り始め、少し湿気た家の中は暖めた味噌汁の匂いが漂っていた。おなつはなんだかホッとした。

 家の中は思ったより暖かかった。まだ昼間の暖かさが残っているのだろ。それでもおみつと幸吉は姉のおなつの真似をして「寒い、寒い」と母親にまとわりついた。
「おお、やけに寒くなっちまいやがったな」
少し遅れて父親の甚六が家に入ってきた。
「なんだよ、もう冷めちまっているじゃないか。ちゃんと肩まで浸ったのになぁ」
言い訳がましく甚六が子どもたちに声をかけた。
 おなつたちは甚六に連れられて湯屋に行ったのだが、のんびりと自分だけ長湯に浸かる父親を待っていられずに、先に帰ってきたのだった。

「明日はおっかさんが連れてって、ちゃんと肩まで浸からせるからね。さっさっとおまんま食べて寝ちゃいな。湯冷めするよ」
 お松は温めた汁を子供たちによそい、甚六には燗のついた徳利を渡すと背中の赤ん坊を降ろした。
「ありがてぇな」
 甚六は猪口に手酌で酒を注いで、旨そうに飲みむと目を細めた。向かいに座ったお松は、自分の茶碗の中の冷や飯に温かい汁をかけて赤ん坊に食べさせている。
 
 赤ん坊は母親の持っている小さな匙(さじ)に興味があるようだ。手を出して匙を握ろうとしては、出した手を跳ね退けられていた。
「ほらちゃんと食べないと、おっぱいやらないよ」
 お松が赤ん坊の口もとに匙を持っていくたびに赤ん坊が手を出すので、思うよう食べさせることが出来ないのだ。
「おっかさん、代わるよ」
 赤ん坊はおなつに抱かれると、急におとなしくなった。おなつが慣れた手つきでさじを口もとに持っていくと、今度は素直に口を開けて食べ始めた。
「竹坊はおなつ姉ちゃんが好きだね」

 茶碗の汁かけ飯を食べ終わった赤ん坊は、今度はお松に抱かれて乳を飲んでいる。乳を吸いながら目をつぶり始め、眠ったのかと思えばまた目を開け、慌てて乳をすい始める。するとすぐにまた目をつぶる。何度か繰り返すうちに口から乳首が外れて、すやすやと寝息を立て始めた。
 赤ん坊に乳を飲ませながら、あらかた夕飯を食べ終えていたお松は、赤ん坊を座布団に寝かせると、空いた飯茶碗になみなみと白湯をそそいで、ゆっくりと飲み干した。



草むしり作「わらじ猫」前2

2020-01-23 07:12:00 | 草むしり作「わらじ猫」2
草むしり作「わらじ猫」前2 

㈠裏店のおっかさん②

「姉ちゃん読んで」
 行灯の下でおみよと幸吉が肩を寄せ合って、おなつの持っている本を覗きこんでいる。甚六は明日の仕事の準備だろう。土間に下りて鉋(かんな)の刃を研ぎ始めた。

 今年八つになるおなつはこの春から手習いに通っていた。いろはから始めた読み書きも、この頃では子ども向けの御伽草子くらいは読めるようになった。母親のお松はそれが嬉しくて、貸本屋が来るたびに何かしら借りてやっていた。最初は一字一字指で追ってやっと読んでいたが、それでもおみつや幸吉は喜んで聞いていた。それが嬉しかったのか、すぐにすらすらと読めるようになり、この頃では抑揚をつけて読むようになった。
 
 読んでいるのは桃太郎だった。話が鬼退治の場面になると、食い入るように挿絵を見ていた幸吉が、急に立ち上って「やぁ、とう」と刀を振るう仕草を始めた。どうやら桃太郎になりきっているようだ。甚六も仕事の手を休めて、話に聞き入っていた。

「よ、桃太郎。日ノ本一」
 幸吉の仕草があんまりかわいいものだから、お松が声をかけた。ほめられた幸吉は嬉しくなって、ますます身振りが大きくなる。トントンと大立ちまわりをしようとして、足を滑らせ土間に転び落ちた。慌てて甚六が抱き起こすと、「うわーん」と一声泣いたかと思った眠ってしまった。

 それを潮にお松が布団を敷き始めた。狭い部屋の中は布団を三枚敷くと、もういっぱいになった。お松は赤ん坊を自分の布団に寝かしつけた。甚六も自分の布団の中に幸吉を寝かすと、また土間に下りて鉋の刃を研ぎ始めた。  

「ほら二人ともさっさと寝ちまいな」
 お松はまだ起きている娘たちに声をかけた。
「今度は姫様の出てくるご本を借りておくれよ、おっかさん」
 おみつがはじかそうに目をこすりながら言うと、すぐに寝息を立て始めだした。その隣でおなつもウトウトしている。

「お松さん、お松さん」
誰かがお松の名を遠慮深げに小声で呼びながら、トントンと小さく戸を叩いた。
「おっかさん、誰か来ているよ」
 もうとっくに寝入ったと思っていたおなつが目を開けた。お松は甚六と顔を見合わせた。
―今頃誰だろう
 外で男がなにやら小声で言い合っており、赤ん坊のぐずる声も聞こえだした。そのとたんお松は急いでしん張り棒をはずして戸を開けた。

 表には若い男と浪人らしき男が申し訳なさそうに立っていた。浪人の腕には赤ん坊が抱かれている。
「お松さん」若い男が何か言おうとしているのを遮るようにお松は赤ん坊を受け取った。
「さあさあ、中に入って」
 戸口で遠慮がちに立っている男たちに声を掛けた。男が浪人を促して家の中に入ると、自分はお松に手を合わせて帰っていった。
 
 若い男は太助といって棒手振りの魚屋だ。浪人の方は佐々木といい、近ごろ越して来たばかりだった。何でも藩がお取りつぶしの憂き目に会い、仕官の口を求めて赤ん坊と奥様を連れて江戸に出て来たという。突然の改易と慣れぬ長屋暮らしで、このところ奥様は乳の出がよくないのだ。赤ん坊は乳をくわえて離そうとしない。無理に離せばグズグズと力のない声でずっと泣いている。

 隣に住む太助が見かねてお松のところに連れて来たのだった。なんせ長屋の壁は薄い、隣の声は筒抜けだ。「夜分に悪い」と遠慮する佐々木を無理やり引っ張ってきたのだ。独り者の太助にも乳が足りていないのが分かるくらいに、赤ん坊の声は弱々しかった。

 おまつは佐々木から子供を受け取ると、上がり口に腰掛けて、急いで赤ん坊に乳を含ませた。よほどお腹をすかせていたのだろう。赤ん坊は乳首を口に含んだとたんに、ゴクゴクと力強く飲んでいたが、やがてウトウトと眠り始めた。
 
 布団の中からおなつは顔を出して、母親が赤ん坊に乳を飲ませるところを見ていた。産着からはだけ出た足は細く小さかった。まん丸で乳切れの入った竹坊の足を見慣れていたおなつは、驚いてしまった。
「こんなにお腹空かせて。佐々木様、遠慮なんかしたら坊やがかわいそうじゃありませんか」
竈(かまど)の横で所在なげに待っていた侍に、お松は赤ん坊を渡しながら言った。

「何しろこの図体でしょう、乳なんだぁ余ってしょうがねぇんですからね」
 横から甚六が口を出した。
 小柄でひょろりとした甚六に比べると、大柄で骨太のお松は水を飲んでも太る性質なのか。四人の子どもを産むたびに太ってくる。

―嫌なことお言いでないよ。
そんな顔をして、お松は甚六をにらんだ。
「今度からお乳の前に少しずつ重湯を飲ませてお上げなさいまし。奥様も少しは楽になりましょうからね」
―明日になったら、様子を見に行ってみよう。

 ぐっすりと眠った赤ん坊を抱いて、佐々木は何度も礼を言って帰っていった。土間では鉋の刃を磨ぎ終わった甚六が、今度は切り出し刀を取り出して木を削り始めた。
「なんだい、まだ起きていたのかい」
 お松は布団の中で眠そうに目を瞬(しばた)かせているおなつに声を掛けた。
「うん。あの赤ん坊、足なんか竹坊の半分もなかったよ」
 おなつはさっき見た赤ん坊の足が忘れられないのだ。  
「おっかさん明日ちょっと佐々木様の坊やの様子見てくるから、心配しないでもうお休み」
「ああ、おっかさんに任せとけば心配ないよ」
「ところでお前さん、何しているんだい」

 木彫り細工の好きな甚六は、彫り物に使えそうな木切れを見つけてきては土間の隅に立てかけてある。雨で大工の日雇い仕事がないときは、家で木彫りの細工をしている。今削っているのは八幡様の大銀杏の枝だった。去年の夏に雷が落ちて、木が倒れてしまったことがあった。すぐに銀杏の木は切られて材木屋に引き取られた。甚六も切り倒しの人夫に雇われていて、その時に木彫り細工に使えそうな枝を貰っていたのだった。          

「あした佐々木様のところに行くんだろう。赤ん坊のさじをこしらえてやるからな。もって行ってやりな」 
 甚六の作るさじは柄が長くさじの部分が小さくて、赤ん坊の小さな口にちょうどいい大きさだ。おなつたち兄妹もこのさじで汁かけ飯を食べて大きくなった。


草むしり作「わらじ猫」前3

2020-01-23 07:11:03 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」前3 

㈠裏店のおっかさん③

 甚六が木を削る音に混じって、パラパラと雨粒の落ちる音が聞こえだした。
「おや雨だよ。明日はきっと冷え込むだろうね」
 両親の話し声が遠くに聞こえ始め、おなつはスーと眠りに引き込まれそうになった。

「………」
 なんだろう。何か聞こえた気がした。ぼやけた意識が急にはっきりとしてきた。
「おっかさん、何か鳴いているよ」
「まだ起きていたのかい」
 お松は呆れた顔をして耳を済ませた。
「なにも聞こえやしないよ」 
「いや、なんか鳴いているな。うんあれは猫かな」
 そろそろは仕上げに掛かっていた甚六が呟いた。

「おっかさん、あたいちょっと見てくる」
「駄目だよ、濡れちまうじゃないか。ほっときゃ親が連れに来るよ」
 おなつも一旦は諦めて目を瞑るのだが、猫の鳴き声が耳について寝られない。仕事の出来栄えが良かったのだろか、行灯の灯りに照らしてさじを眺めていた甚六も猫の鳴き声が気になるようだ。

「ねぇ、おっかさん、おとっつぁんお願い」
「なんだか声が弱ってきたな。こりゃいけねぇ」
 甚六が肩にはおっていた半天を頭から被ると、雨の中に出ていった。
「しょうがないね」
 お松はあきらめたようにつぶやくと、まだ火種の残った七輪に、新しい炭を足した。
 おなつは戸口の前に立って、目を凝らしなら甚六の後ろ姿を見ていた。暗闇の中に父親の姿がぼんやりと浮かびあがっていたが、やがてその姿が見えなくなった。ポタポタと落ちる雨音がやけに大きく聞こえてきた。やがてその雨音を打ち消すように甚六の足音がだんだんと近づいてきた。

 猫は長屋の井戸の奥の、小さなお稲荷さんの祠の中にいた。誰かがいたずらをしたのだろうか、鼻緒の切れたわらじがが片方だけ置かれてあった。猫はその上に座っていた。冷たい土の上よりも、わらじの上のほうが少しは暖かかったのだろうか。やっと目が開いたような小さな猫だった。
 
 甚六が懐から出してやると、仔猫は力なく鳴いた。雨に濡れた毛が体に張り付き、頭の上から尻尾の先までずぶ濡れで、小さなあばらが見えていた。
「おいで」
 おなつは思わず仔猫を手に取った。仔猫の体からおなつの手にドクドと波打つ胸の鼓動が伝わってきた。
「まだやっと目が開いたばかりだよ。捨てられたのかね」
 
   おなつはカンカンに熾った七輪の中の炭に仔猫を当てながら、乾いた布で濡れた毛を拭いてやっていた。雨に濡れて体に張り付いた毛は炭火で乾かされ、柔らかな産毛が膨らんできた。その横でお松と甚六が仔猫を覗きこんでいる。

「乳がほしいんじゃないか」
「ああ、そうだろうね。けどね、いくら何だってあたしのをやるわけいかないし」
 お松は両手で胸を押さえて言った。
「おや、綺麗な毛並みだね」
 お松は思ったよりも猫が綺麗なので、気をよくしたようだ。残った飯に湯を入れてお粥に炊きなおしていた。ブクブクとあぶくが立ち、飯粒が柔らかくなりトロトロとしてきた。お松はそのトロトロとした重湯の部分を貝杓子ですくい取ると、淵の欠けた茶碗に注いだ。

「今夜はこれで我慢しておくれ。明日どこかに子ども産んだ猫はいないか、太助さんに聞いてみるから」
 お松は残りご飯で炊いたお粥をフゥフゥと息を吹きつけて冷まし、小指の先につけて仔猫の口元に持っていった。すると仔猫は戸惑って顔を背けてしまった。それでもあきらめずに仔猫の口もとに重湯をつけてやると、舌を出して舐め始めた。味が分かったのだろうか、今度は重湯のついた指先をペロペロと舐め始めた。よっぽど腹が空いていたのだろう。すぐに指先の重湯を舐めてしまい、もっとくれとばかりにニャーニャーと鳴き始めた。

「おっかさん、あたいにもやらせて」
 おなつが小指の先に重湯をつけて仔猫の口元に持っていくと、仔猫はすぐに舐め始めた。しばらくするとおなつの指を咥えて吸い始めた。
「わぁー、吸い付いた」
「ほら指を引っ込めちゃ駄目だよ。この猫はね、きっとおなつことおっかさんだと思っているんだよ」
―あたいのことをおっかさんだって。
 そう言われると手を引っ込めるわけにもいかず、そのままにしていた。ザラザラとした猫の舌の感触に最初は驚いたものの、懸命に指に吸い付く猫を見ているうちに、おなつの心に温かなほんわりとする感情が沸いてきた。なんだか不思議で、戸惑ってしまうような気持ちの高まりだったが、やがて仔猫を心から可愛いと思うようになっていた。

 おなつが眠くなったのと、仔猫が満腹になったのはほとんど同じだった。
「後はおっかさんがやっとくから、早く寝ちまいな」
 おなつは這うようにして布団に潜りこんだ。とたんに意識が薄れていった。
「この猫、足の裏の肉球に黒いところがあるだろう。こういう猫は鼠を取るのが上手いんだ」
「でもね、こんな小さいんじゃ、反対に鼠に食われちまうんじゃぁないかね」
 おとっつぁんとおっかさんが話している声が遠くで聞こえて、おなつはそのまま深い眠りに落ちていった。

 

草むしり作「わらじ猫」前4

2020-01-23 07:10:39 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」前4 

㈠裏店のおっかさん④

 次の日太助が探してきたのは、ハチという名の犬だった。ハチは人間にすれば七十歳くらいになる老犬だった。ここしばらくは子どもも産んでいなかったのだけど、この秋口に久しぶりに子どもを産んだ。こんな年寄りでも子どもを産むのかと、飼い主は驚いたり呆れたりもした。
 
 しかしながら高齢の出産はやはり無理だったのか、無事に生まれたのは一匹しかいなかった。まあそれはそれでハチの体力からすればちょうど良かったのだろ、何とか無事に子犬が乳離れしてつい先日貰われていったばかりだ。

 今ならまだ乳が出るかも知れないと、女将さんは快く太助の頼みを聞いてくれた。仔猫を懐に入れて太助が柳家に向かったのは、昼を少しすぎたころだった。いつもならまだ桶の中に、半分は仕入れた魚が残っていてもおかしくない時分だったが、今日はどうしたわけか持っていく先から買い手がついた。こんな日もあるものだと太助は思いなが柳家の勝手口から中を覗いた。柳家は値段の割に、旨くて気の利いたものを出すと評判の料理屋で、太助は出入りの魚屋だった。

 ハチはここに店を出したころに、女将さんが拾ってきた犬だった。子どもの無い夫婦にとってハチは子どものようなものだった。とりわけ女将さんはどこに行くにもハチをお供にしていた。

 太助が近づくとハチは横になったまま知らん顔をしていた。これがついこの間まで、子犬をかいがいしく世話をしていた犬だろうかと思えるほど、老け込んで見えた。やはり子どもを早めに乳離れさせたからだろうか。このところハチは昼の間は寝てばかりだが、夜になると起き出してあちらこちら歩き回るようになった。時折帰り道が分からなくなり迷子になってしまうので、柳屋の屋号の入った手ぬぐいを首輪代わりに巻いている。そればかりか飯を食ったのも忘れて、何度も飯の催促をする。その上旦那や板前にまで吠えかかって、女将さんも困り果てていた。    

 ハチのために良かれと思ってしたことがかえって仇になったようだ。子犬は貰われた先でたいそう可愛がられており、今さら返せとは言えない。もう歳だから仕方ないのかも知れないが、子どもに乳を咥えさせたらまた元に戻るかもしれない。女将さんにはそんな思いがあったのだろう。

「ハチこの子、助けてやっておくれ」
 ハチは太助が差した仔猫をチラッと見るなり、また目を瞑って居眠りを始めた。仔猫が鳴いても知らん顔をしていた。

―こいつは脈がないな
 太助が半分諦めかけたときだった。仔猫がハチの腹の下に潜りこもうとした。乳を探しているのだろうか。ハチは軽く唸ると、仔猫を鼻先で押しのけた。それでも仔猫はあきらめずに乳を吸おうとハチの腹の下に潜りこんでいった。するとまたハチが鼻先で押し返す。そのたびにハチの唸り声がだんだん強くなっていった。それでも仔猫はあきらめなかった。何度押し返されてもハチの乳房に向かっていった。ついにはハチも折れたのだろうか。じっと横になって仔猫に乳を与え始めた。

「不思議なこともあるものだ。もうとっくに止まったはずの乳が、また出るようになっちまったんだから。まったく、あれには驚いたね。乳をやり終わったとたん、今度はペロペロと仔猫を舐めだして、離さねぇんだよ。だからしばらくは向こうで預かるって」
 太助がお松に事の顛末を話しているところに、おなつが手習いから帰ってきた。

「おっかさん大変、どうしよう」
 帰ってきたおなつを見て、お松も大声を上げた。
「おやまー、大変だ」
 おなつが連れてきたのは仔猫を咥えたハチだった。
 
 ハチは今度もまた子どもを取られるのではないかと思ったのだろう。仔猫を咥えて隠し場所を探していた。そこで手習いから帰る途中のおなつに出会って、そのままついてきたのだ。早速おなつの家の床下に潜り込むと、ハチは仔猫に乳をやり始めた。どうやらここで子育てをするつもりらしい。

「柳家の女将さんに知らせてやらないと。なんせハチのこと子どもみてぃに可愛がっているんだから。きっと今頃青くなってさがしているよ」
 太助は大慌てで柳屋に戻っていった。

 ハチはおなつの家の床下で仔猫を育て始めた。仔猫はタマと名づけられ、ハチの乳で日に日に大きくなっていった。

 やがてタマも乳が離れ、ハチは柳家に戻っていった。タマはおなつに、ことのほか良くなついていた。朝は手習いに出るおなつと一緒に家を出て、柳屋のハチのところに行く。おなつの手習いが終わるまでハチのところで過ごし、その後またおなつと一緒に長屋に帰って来るのが日課になった。

 柳屋の女将さんは何度かタマに餌をやってみたのだが、タマは決して食べることはなかった。拾われたときに食べたお粥がよほど美味しかったのだろうか。今ではおっかさんに貰う汁かけ飯しか食わなくっていた。
 
 それにしては大きくなったものだ、丸々と肥えて、毛並みも美しい。汁かけ飯だけであんなに大きくなるものだろうかとも思うのだが。タマが成長するにしたがって、長屋の鼠がずいぶんと少なくなった。どうやらタマの成長と鼠の数は関係が深いようだ。