ゆ~たん音楽堂

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東奔西走!
音楽ディレクター ゆ~たんの日常。

時代に翻弄されるということ。

2008年01月21日 08時40分21秒 | Daily Life
「李香蘭」を生きて (私の履歴書)
山口 淑子
日本経済新聞社

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昨日も日曜日だというのに70名近い方が、このブログを見て下さっている。いつものことながら有難いことと思う。■僕の祖母は大阪の出だった。たしか「ミナミ」に住んでいたということを聞いたことがある。大阪の地理に僕は詳しくないので、それがどのあたりかわからない。当時はいわゆるお嬢様で、かなり裕福な生活をしていたらしい。そしてどんな理由か、それがいつ頃かも知らないが、突然、鹿児島に嫁入りする。おぼろげながら聞いた記憶をたどると実家が倒産したか、なにか経済的なトラブルがあったためではなかったか。このへんは、実に曖昧。今度母に尋ねてみたいと思っている。根っからのお嬢さんだった祖母は一通りの芸事には通じていた。親戚筋には歌舞伎の下座音楽を職業とする人もいたと聞く。だから僕が中学や高校でコーラスをやっている時にも必ず聞きに来ていたし、僕が音楽の道に進む時もとても喜んでいた。◎そんな祖母が幼い僕に語ってくれた言葉で、いつくか今でも耳に残っているものがあるのだけれど、そのひとつが「リコーランという人は大変な人で、テイゲキが7回り半するくらいお客さんが来る人じゃったとよ」というもの。もちろんその当時僕にしてみたら「は?」というくらいのものだったが、それにしても劇場を7回り半もする人を集める人ってどんな人だろう?と訝しく思ったものだ。今考えてみると、ちょうどその頃、山口淑子さんがテレビのワイドショーの司会を始めた頃(昭和44年~)ではなかったかと推測する。きっと祖母はテレビを見ながら、僕にそう語ったのだ。その後、長じて僕はテレビに出ているおば様が「李香蘭」その人であったことを知る。おそらく当時はすでに国会議員をされていた頃だと思うのだが、まだまだ女性議員にスポットが当てられることのなかった頃でもあり、鮮明にその姿を覚えている。◎今回、昭和の歴史をいろいろと考える中でこの本を読んでみた。もともと日経新聞に連載されていた記事をまとめたものなので、とてもコンパクトに仕上がっているが、行間から読み取れる苦悩や生き様には深い感銘を受けた。今、僕たちの時代にあって、山口さんが経験したような<時代に翻弄される>生き方とはどんなものなんだろうか、とずっと考えたが、なかなか思い浮かばない。もちろん人の一生なんて時代の大きな流れに抗うことなんかできやしない。でも、それでも山口さん、いや李香蘭やその周囲の人たちが辿った道はあまりにも険しい。◎山口さんは女優であり、歌手である。そんな山口さんが昭和17年の夏、黄河のほとりの日本軍駐屯地で歌った際の思い出をこう書いている。「ステージ衣装も着ずお化粧もしていない。伴奏があるわけでもない。そこには月と星と歌しかなかった。なのにその歌は戦場にある人々の傷のような渇きを癒している実感があった。それまでで一番豪華な舞台に立った思いがした」もちろん「戦争の真っ只中にいた」という状況を忘れてはいけない。だが、山口さんのこの言葉には音楽に関わる僕たちが今、忘れてしまった(いや、忘れざるを得なくなった)大切なメッセージがあるように思えてならない。