tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

父が退職した

2006年02月26日 00時17分32秒 | Weblog
戦後の日本経済の復活は、高度成長が絶好調に達した昭和25年の朝鮮戦争に伴うアメリカ軍事物資の大量発注・大量供給に伴って始まったとされる。

アメリカにおいてもあの1929年のウォール街の大破綻に契機を発した恐慌は瞬く間に全世界に及び、日本もその例外ではなかった。我々が教科書で習うところの、昭和初期の大商社である鈴木商店の破産と多額の融資を行っていた台湾銀行の破綻。社会における大混乱と銀行の取り付け騒ぎ。市場における紙幣の流通量の不足と高橋是清の政策による日本銀行から各銀行への融資策。そのときにあわてて印刷された紙幣は、裏の印刷がなかったそうだ。アメリカにおいては、ケインズ経済学を根拠とする社会公共事業による雇用の創出など行ったが、結局のところそれは社会経済の復活を完全に行ったものではなく、第二次世界大戦が始まるまで、アメリカ経済はずっと復活する事は無かったそうだ。

戦後日本は、戦争に参加する事なく、戦争に加担するする事によって、いくつかの好景気を生み出したが、少なくとも、高度経済成長もまた、そうした過程のなかで生み出されたものである事は間違いない。

父は、もう後5年くらいで高度経済成長が終わる時期に入社した。時代がまだ昭和であった頃であり、先帝(昭和天皇)が崩御する雰囲気などみじんも無かった頃である。

私が小さかった頃の父は仕事が忙しい人だった。しかしそれでも夜の10時くらいには帰宅していたと思う。今私の帰宅時間は11時くらいで、退社時刻が9時半から10時くらいだから、彼らの仕事が忙しいとはいえ、それなりに余裕もあったのだろう。当時父の会社は心斎橋にあった。御堂筋に面したそのビルは今で残っている。一階は確か私が小さかった頃は銀行だった。その後ゼロックスがはいり、今ではキンコーズになっている。

私が小学校に入っても、父の忙しさは相変わらずだった。夏休みでもまとまった休暇が取れないことなどザラで、どこにも行けないからと、母が奈良県立美術館へ連れて行ってくれた事がある。それでも父に行楽地へつれていってもらって、遊んだ記憶はたくさん残っている。父は家族こそ大切にしたが、自分の遊び方も忘れない人だった。エアーガンの趣味は、父から習った事だし、父はその他にも、地域のソフトボールの同好会に所属していた。若かった一時期、日曜の午前中は小学生の野球チームのコーチを行っていたし、午後からは先の同好会で野球を行うくらいだった。全く完成しなかったが、ラジコンのグライダーを作っていた時期もある。良く言えば趣味の多い人だったが、完全に達成したものは少ない。ちなみに、私はエアーガン関係の知人達と良く話をするが、大体その父親世代が多くの趣味を持っていて、遊びに「精通」すらしていたのに対し、我々の世代の貧困さを話の落とし所となる事が多い。しかも我々よりも下の世代にすれば、その貧困さはなおいっそう増す事になるため、遊び一般がもう絶滅にひんしているとも言えよう。

昭和も60年に入ろうとしていたころ、父の購入によって家にパソコンが来た、現在のGUI(グラフィカルインターフェイス)という、画面上のイラストをクリックするコンピュータではないから、簡単に取り付けるものではなかった。当時狭かった家の中に、不自然にも畳の部屋にホコリよけのカバーがかけられていて、なお一層気軽に使えるものではなかったが、父は時々それを開けては仕事をしていたと思う。仕事のストレスから、胃弱が起こり、彼が胃がんではないかと大騒ぎしたのもちょうどこの頃。

平成に入ると、彼は年若くしてもう既に部長にまでなっていた。重役クラスまで後少しだった。ある年、会社の研修で中南米からアメリカ、カナダへ移動してきたのもこのころだ。ちょうど家を建て増しした頃だった。

父に檄を飛ばしつづけた支店長が退任するとき、後任に父をつけたかったらしい。しかし、年功序列を考えれば、周囲などの妬みもあって、簡単に付けない。彼に与えられたのは副支店長の椅子だった。このまま行けば彼が定年を60で迎えるのは確かだったが、年齢が上がっていくにつれ、上にいた人間を異動させ、最終的に父に取締役と支店長の椅子が与えられた。もう6、7年前の話だったと思う。そして先日、父は株主総会で、円満に退任する挨拶をする事になった。

高度成長やその後訪れた不況や好況の波に左右されながらも、彼らの世代は相対的に、会社に勤めることで幸福が保証された人生を送ってきたのだと思う。それに反して我々はそれほど恵まれた状況にある訳ではない。しかし、私はこの事を「早く生まれたからトク、遅く生まれたからソン」というようには考えない。その証拠に妹が生まれた頃、彼は会社を辞めたいと言っていたそうだ。辞めていれば、全く違った人生になっていただろう。少なくとも、それぞれの世代が行っている事であり同じ行為でもあるのだが、「手探り」で人生進んでいる事なのだと思う。

私が彼から学んだことである。

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