tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

パソコンを買い替える(1)

2010年02月13日 17時44分25秒 | Weblog
とにかく手持ちのMac(PowerBook G4)のバッテリーがもたない。

よく説明書に「このバッテリーは1000回の充電が可能です」とは言う。しかし、「1000回も充電するか?」とも考える。実は、毎日充電していたら、3年もたない計算になる。実際には、手持ちのMacを導入したのは(これが初めてだった)2004年の6月だったから、実に5年使って来たということになる。ここまでバッテリーがもったのは、フル充電されたら、電源を抜き、ほぼ1%になってから充電を開始するからだと思う。とにかく、高かったMacだ。大事に長く使おうとしてきたというのもある。買ったときに無理して、メモリーを上げたおかげで、現在でもそれなりのパフォーマンスを維持している。しかし、Adobeの最近の製品を動かす時は、少し重さを感じるようになった。

以前、大掛かりな変更をこれに加えた時は、OSのバージョンアップを行い、AirMacで無線を使えるようにした時だ。2万円以上かかったかな?

その他ではAdobeやMicrosoft officeを積んだときかも知れない。

今回は、バッテリーを入れ替えることになる。1万5千円くらいかかる。同時並行でiMacを買うことにしたが、実はデスクトップのパソコンをもったことがない。場所を取る可能性が大きいからだ。しかし、PowerBookをもってみると、気軽に持ち運びすることが難しい。「重い」というのが第一の理由だが、「壊れる」というのもある。初めて持ち出した時は、かなり気を使った。最近でも滅多に持ち出さない。

もともと、Macにはソフトが限られるというのもネックとしてあった。しかし、office Macは高かったけど、一度積んだらそれなりに仕事で改善されたし、さしたる問題は少なかった。でも、昨年行った調査で、テープ起こしを行い、「おこしやす」というソフトを使った時は、さすがに重宝した。これは完全なWindowsのソフトである。結局、父のパソコンを使って徹夜作業になった。そのころからか、次に買ったMacにはWindowsを積むことが課題の一つになった。officeも積みたいが、結構な価格だ。ボチボチ2010が出る話がある。職場では2007で、これが結構使えるから、なおさら積みたいというのが本音である。

office Macとは言っても、インターフェースや操作性で少し異なるのだ。完全に合わすべきなのだが。

「それでもMacが欲しいのか?」という疑問が出てくるかもしれない。

だけど、今もっているPowerBook G4以外のWindows PCを2004年の時点で購入していたら、おそらく5年使ったとは思えないのだ。その間に、使い物にならないと言って、父はWindows PCを二台買い替えている。価格の安いものになれば、そういう結果になってくる。高いものを買っても、少し疑問だ。

職場では国の補助金でレノボのタブレットPCを買ったが、これは23万くらいしたと思う。はっきり言って操作性や性能で使い物にならない。

「高いけど、元は取れる」これはMacを手に入れて感じたことだ。

でも、今のiMacは液晶の画面とCPUに問題が出ているみたいだ。最近のアップルでは珍しいことだ。市場でも品薄が続いていたが、みんなが買うことと、生産が追いつかないことと、トラブル対応の複合的な要因でこんな事態になっているみたいだ。

だから、しばらく買い控えをしなければならない。

最後の砦が堕ちる時(2)ー立ち去る同期の桜ー

2009年05月26日 21時41分59秒 | Weblog
DTPエキスパート認証は2年ごとに「更新試験」を受けて、認証を更新しなければならない。
という事は、必ずその過程で脱落する・・・といえば、聞こえがわるいが、立ち去る人間がいるはずである。
すなわち、更新試験を受けない人々である。ただ、その数がどの程度なのかは全く把握していなかった。やろうと思えばなんぼでもできる。

まず、私は23期試験で受かった。この時は、1,522人が受験し、745人が合格。合格率は48.9%。

23期は過去に一度更新試験を受けている。このときに受験を取りやめた人間も居て、私のように落とした人間も居るはずだ。また今回の試験で、受験を取りやめた人間も居るはずだ。協会の公表値によると、対象者は590名で受験者は509名、実に81名が受験を放棄し、認証される事を放棄したのである。結果、745名から509名を引いた236名が、既に「同期の桜」から立ち去ったのである。これは、当初の合格者の3割に相当する。更に、今回の更新試験の合格者は488名

この後、どの程度まで減って行くのかは、上の期数(15期とか19期とか)が参考になる。

15期(H13.3)1,961人が受験し、842人が合格。今回の更新試験で459名が対象、405名が受験 (48%)  
19期(H15.3)1,903人が受験し、649人が合格。今回の更新試験で449名が対象、385名が受験 (59%)

すなわち、更新試験の度に、最初の合格者の1割ほどが、放棄を行うのである。

南円堂の曙光、不空羂索観音菩薩の慈悲 ー6ー

2009年01月12日 22時07分04秒 | Weblog

そこは神の山と呼ばれる北の方の山の中、あるいは都市の郊外・・・

2008年10月30日、私にとある学校法人から出頭命令が降りた。学校職員の面接である。自慢じゃないが、これまで学校職員という職種には縁がない。ことは前にも書いた。その上でとりあえず面接である。

しかし、私は気楽であった。「とりあえず員数合わせでよんでもらったこと・・・」と思って面接に向かった。それ以外にも、派遣で印刷会社の日本語の校正を紹介してもらったという事がある。

A社の学校事務エントリーに失敗してからしばらく、やはりA社から今度は京都のオムロンのフランス語電子辞書の内容チェックの仕事が入って来た。紙の家電製品のマニュアルを見続けるより遥かにマシなのだが、問題は2009年1月末までの契約である事。さすがに長期を探していたから、短期を行うのは抵抗があって、一度は断った。

だが、他に仕事がある訳ではない。それで、一週間もした頃、電話をしてみると、やはり他の人間で埋まっていた。当たり前だ。もう10月も20日くらいになっていた。さすがに焦る。そこで浮上したのが、私にとっての「禁断の派遣会社」である。

派遣会社のM社に登録したのは、2004年と古い。あの頃私はとある専門学校の制作部のバイトで、イラストレータとフォトシショップで広報ツールの制作を行っていた。それを活かして、DTPのオペレータの仕事を探していた。DTP関連の仕事を多く持っていたし、派遣でも経験になる。しかし、登録時のスキルチェックはふるわず、その後少しの間、仕事が紹介されなかった。それからしばらくして電話がかかって来たが、紹介されたのは校正と制作管理の仕事。明らかに望む物とは違った。それに対して気分を害する

大日本印刷の子会社だという事であったが、もう制作は大日本印刷自体が行うのではなく、子会社が行っていると聞く。時給は1000円。残業量は多く、客との折衝もあるという。今でも思うが、時給1000円はきつい。当時勤めていた専門学校の制作も時給1000円だったが、交通費は出た。しかし、保険の類いは全くなかった。交通費が無くて、保険をとられると月10万がせいぜいである。確かに残業代で稼ぐことは可能であるが。

何よりも問題なのは、DTPから外れてしまう事である。ただ、担当者は「貴方のDTPの能力では仕事は紹介できませんね」とまで言った。ここまで言われたら、その派遣会社にこだわる必要性も無い。そのとき私は断ったが、事態のひどさは感じていたし、まして、次紹介が受けられる保証は全くなかった。

それが尾を引いて、いままで避けて来た会社である。厳密には、先の翻訳会社にいる時も電話がかかって来て、仕事の状況ついて聞かれた事がある。でも当時は「ええ、契約社員として就業しています」と答えた事がある。若干の優越感があった。
「ざまあみろ、紹介を受けなくとも、契約で仕事を見つけてやっているぞ」

それからしばらく、その会社も辞めて、ウロウロする日が長々と続く。

そうは言っても、金はドンドン無くなっていく。時給1000円しか出ない会社でもやらないよりマシだ。そう思って、次の日、ネットで手頃な仕事を探した。目標は「日本語の文章の校正である」これは楽勝であった。1300円だったが、大阪の難波の印刷会社のカタログ校正であった。期間は12月の末まで。

あの時、私の頭では年末までの仕事と年度末までの仕事の二段階に分けていて、それで動くつもりだった。それで春は迎えられる。エントリーして次の日、電話がかかって来た。ここ数年の経歴を聞かれたあと、難波の仕事は他の人間で塞がったが、芦原橋の印刷会社の仕事が発生しつつあるという。路線図を見ると、大阪環状線の枠内。少し交通費がかかるが、行ける場所だし、紹介を受ける事にした。次の日に面接が行われた。当初12月下旬までの約束は11月いっぱいにされたのだが、それでも良いというと、では来てもらいましょうという話になった。それは10月29日。次の日から、ということもあったが、実は28日にかの学校法人からの面接の約束が取り付けられていた。

30日は学校法人の面接。11月1日スタート。

さて、学校法人の話に戻そう。その求人を新聞で見たのは11月の半ばであった。見てると分かるが、新聞における学校職員の募集は結構多い・・・が、これらの大半は女性をターゲットとしているため、本当に受かりにくい。私も何度、蹴られたことか・・・。それゆえ、今回はもう履歴書を出す事もあきらめていた・・・のだが、家族がそれをみて勧める。

「とりあえず・・・」的な感覚で、履歴書と職務経歴書を書いて送った。・・・・ら、面接の指示である。「どのみち、男性を呼んで、公正に採用試験を行ったという感じだろう」くらいに考えた。

10月30日当日、指定された教室へ入ると、男性は私一人。あとは女性ばかり。「ああ、本当に形式的なものなのか」と確信にも似たものを得た。面接は集団面接。前半は4人。後半も4人。そのあとパソコンのテスト。私は後半のメンバーに入ったが、ほとんど何も聞かれなかった。ただ、11月いっぱいはカタログ制作の仕事があるから、12月からにしてくれと。

ワガママは言うし、ほとんど何も聞かれなかったで、こりゃあ不採用だなと思って、外の風景を眺めた。山裾に校舎を持つその学校から眺める外の風景は、結構綺麗だった。そして、私は振り返り、もう来ないと思って、バスに乗り込んだその帰りは結構楽しかった。探していた鈴木広の『都市化の社会学』を古本市で見つけたりしたからだ。

不採用が決まったも当然の帰り道はこれほども楽しかったことはない。明日からの仕事は一応確保できていたからなのか。

さて、夜。その学校法人から電話がかかって来た。もう結果が出たか。まあ、不採用出すのは簡単な人間だからな・・・。と思って、電話を取った妹から受話器を受け取った。

「本日は面接にお越し頂き、ありがとうございました。つきましては、あなたにお越しいただきたい・・・・」と。

私は一瞬、目の前が真っ白になった。

南円堂の曙光、不空羂索観音菩薩の慈悲 ー5ー

2009年01月03日 21時51分33秒 | Weblog


「なぜ呼び込みたくもないものを呼び込んでしまうのだろう。」と問いかけをする。それは結局、天職だから?

「いや、そうでもない。」でも、これから選ぶ仕事の中で、大きく逸脱は出来ないのだろう。そう考えていた。だとすると、編集や校正で外国語を扱う仕事は、人の見方によっては、かなりの「花形」的な仕事になるのだろう。でも、本当に私には向かない。いろいろ整理してみると、編集や校正は本当に向かないわけではない。一番問題なのは、家電業界を相手にして仕事を行うのが無理だという事。かつて、前職で私が客相手の「コーディネータ」という場所に行けなかったのは、あまりにも上手な「客」の相手が出来ないという上司の判断であった。しかし、「コーディネータ」にならねば、正社員にはなれなかった。正社員になりたいが故に、飛び出しのが本音だったが、結局のところ、派遣やアルバイトを繰り返す日々。

繰り返し整理しよう。すべての元凶は「家電業界」である。と私は断じた。この断定は今現在、徐々に当たっていたのではないかと考える。今度のグローバルレベルの不況で一番先に店を閉じたのは、外資系資本の傘下に入った(乗っ取られた)老舗旅館だった。これはニュースで見た。その後、凄まじい勢いで不況が進み、家電メーカの工場が次々と閉鎖に追い込まれた。その結果、多くの派遣や期間工が契約を解除された。私が行った松下の子会社の制作会社も今ではどうなっているのか分からないし、
話を一昨年に戻せば、奈良にある精密機械メーカの子会社で外国マニュアルの制作部門も面接を受けたが、その高見から見るような鼻持ちならない面接官に嫌気を覚えて、延々のばされた二次面接の前日に断ったことがある。社長が出て来た1次面接で、「どうも親会社と切れていないので」と二次面接を指示された。私は「あんたの会社の従業員を選ぶんだろが、これから客になる親会社の重役とやらに、『うちの会社、こんどこんな人採るのですが、大丈夫ですかね』と聞いて、そもそもそんな子会社を信頼できるのかね」と考えた。その親会社も今では倒産の一歩手前まで行っているそうだ。工場の前では、派遣社員が連日デモを行っているとか。

ともかく、10月7日で契約が解除された私は、次の日、A社の大学職員の派遣にエントリーした。しかし、わざわざ電話をかけて来た担当者は家が遠い事を理由に難色を示す。なんか問題があったら、わざわざ電話を返す事もないじゃないかとも考えるが、それを言わずに「ええ、大丈夫ですよ」と言ってのける。

その日、10月8日。奈良豆彦古神社の翁舞が行われる日である。何故だが、学生時代に見に行ったこの伝統行事に、私は行く事にした。

神社の駐車場に自転車を止めていると、電話がかかって来た。A社である。担当者は次のように言った。

「先方の事情が変わりまして、学内の職員の異動で調達するそうです」と。聞くからに嘘くさい。だが、いよいよ派遣会社に嘘をつかれてかわされるほど、ひどい状態になってきたことに私は焦りだした。神事が終わると、そのまま自転車で飛び出し、気づけば私は興福寺の南円堂の前にいた。すでに人通りは無く、真っ暗だ。

いつものようにお参りはしたが、何を頼んだのか覚えていない。ただ、いつもよりも静かで人通りのないその場所に、私は少し長くその場にいてたと思う。そして、「もう九日後か」とも思った。それだけ落ちついたということであろう。

さて、9日後。

10月17日、この日、南円堂は一年で一日だけ開扉される。初めてこの中に入ったのが一年前。一年間生きて来たのが不思議なくらいだった。不空羂索観音菩薩に真向かい、腰をかけて、じっとその尊顔を眺める。内部は少し暗くて、はっきりと見える訳ではないが、それがかえっていい。後ろではお遍路の人々が、お経を唱えている。南円堂の観音信仰の厚さをもって、興福寺の境内ではもっとも人の集まる空間である。

数日後、私は新たにW社に登録した。というのも、R社からは仕事をもらう気になれないし、通常、派遣労働者と派遣就業先の双方の合意を聞いて、労働者を送り込むのが通常の派遣会社の方法であるが、最大手のS社はこちら側の意向など聞かず、ただ、派遣先に良い顔すべく、人を押し込むことがわかったから、よけいに任す気になれなかった。派遣会社は星の数だけある。とにかく登録しておけば、紹介も受けやすくなるからだ。

W社を選んだのは、編集と校正の仕事を持っていたからだ。

私の前職で、一時期たくさんの派遣社員を入れたことがあった。その中のヤノシゲ氏は、ヤクとシノギとチャカ以外が専門の人だった。すなわちオンナである。風俗関係の雑誌編集に長くいた彼は、こんな外国語の編集と校正よりも、日本語でやれ。といった。家電業界を退け、外国語を退けても、手元には(日本語の)編集と校正の業務が残るということに気づいた。

W社の登録時の面接は今ひとつ分からないものであった。やりたくないものを挙げろと言われたが、私の場合、家電や外国語校正以外にも、テレマーケティングも入ってくる。挙げる度に理由をいちいち聞いてくる。やりたくないものはやりたくないもので、理由を聞いて、覆すのですか?とも聞きたかった。覆しても、それで続く事はないのだが。

派遣会社の登録時の担当者の名刺に、時々「ジョブカウンセラー」とかの、いかにもそれ相当の資格を得たような肩書きが入っていることがある。それはそれで結構ですが、本質も見抜けないのに、カウンセリングを行うのも本末転倒である。

で、その時はすべて別の人間で埋まったらしく、仕事が発生したら、紹介くださいと伝えた。おそらく3,4年は電話もかかってこないはずだ。

さて、日本語の編集や校正の業務を多く持っている派遣会社はどこか? 前々から浮かんではいたが、あの会社は禁断の派遣会社であった。しかし・・・・。

南円堂の曙光、不空羂索観音菩薩の慈悲 ー4ー

2009年01月02日 13時54分35秒 | Weblog


2008年7月、私は大量の保険証書の整理業務についた。整理と言っても、紙ベースの証書をPDFにする際の整理である。これは、その状態を崩す事無く、整理された順番になるようにナンバリングを行うことであった。

そこに集められた人間の数は約140名ほど。3社ほど集められていたが、男女比、いわゆるジェンダーバランスは私が所属した派遣会社が一番均整の取れた形になっていた。そしてまた、比較的穏やかな人が多かったのも特徴的であった。あるとき、他の派遣会社の仕事をしていて、事務作業を行いながら、話が「派遣会社評」に及んだ時があった。「A社は給料が安い」と言った。だがまあ、H社の人間が集められていた、その場の殺伐とした雰囲気に比べれば、A社の方がずっと良かったし、そう言った彼女は、派遣最大手のS社でもゆうゆうと立ち会える人だったから、どれだけ職場環境や人間環境が悪くても、金だけもらえたら、それで良いという人なのであろう。

A社を通じて得た、この仕事で知り合ったメンバーとは、今でもメールのやりとりをしている。

8月で契約は終了だった。実を言えば、9月以降も継続して仕事はあったのだが、私はこれを断った。
9月に入り、私は母校の事務職員の再アプローチをかけたが、これにたいして、何の返事もなかった。さすがに、このとき仕事もそこそこで、人間関係にも恵まれた書類整理の仕事を早々と退職したことを後悔したが、やはり次を探さなければならない。

派遣最大手のS社へ登録した。人に聞くS社の評判は良くない。しかし、仕事だけは豊富であった。そしてまたなぜかすぐに決まるという評判であった。何日も家にいて、パソコンを眺めながら仕事を探していると、しんどくなってくる。9月下旬に入り、R社から電話がかかって来た。私の中ではR社は登録したものの、仕事エントリーしても全く反応のない「使えない会社」であった。そのとき紹介されたのは「印刷会社のDTP部門」と「制作会社のDTP部門」、「制作会社のマニュアル制作部門」

「印刷会社のDTP部門」に関しては、結果が目に見えていた。給料の良さを見れば、かなりの熟練者を求めている事は明白である。「制作会社のDTP部門」に関しては、かなりしんどい仕事のようだ、さんざんその仕事をした後で、社員採用になる「紹介予定派遣」。しかし、驚いたのは、どちらも少し前まで新聞やネットの求人広告で派手に出していた会社である。大方予想はついた。いま、本当に即戦力的な技術を持つ人間が少なくなっているということだ。普通の求人では望む人間が取れないのである。初心者を退け、人を投げ合って来たツケを社会が払う段階に来ているという事でもある。もっともその事に対して、ほとんどの会社は自覚的ですらない。ただ、投げられた人間にしてみれば、「もう二度とこんな世界に来るか」という気分になる。すべての人間が「何くそ!」の気持ちを持てるわけではない。

「制作会社のマニュアル制作部門」に関しては正直困った。あの外国語マニュアルの制作である。本当のところを言えば、この仕事は二度とやりたくない。何も自分にもたらさなかったからである。しかし、このまま行けば食うに困ることになる。

松下電機産業。の子会社。

雨が降りしきる中、私は派遣会社の担当者に面接に連れて行かれた。そこで実に45分ほど喋って採用が決まった。何のことはない。家電製品マニュアルを外国語で作っていましたと言えば、過去の経験が買われて採用されるものだ。やる気など・・・どうとでもなる。私でもそのくらいのペテンは行える。前職と違った点は、よりメーカーに近い位置で仕事をするということ。そしてまたずっと派遣のままで仕事をして行くという事。社員の登用などはないのだ。「5年のサイクルで見て欲しい」と言われた。すなわち、5年後にこの仕事があるかどうかわからないということ。

まあ、不況が進み、家電業界に「パーフェクトストーム」が襲いかかった今となっては、今年仕事があるかどうかもわからない状況になったのだが。「大丈夫ですよ、3年もたったらマニュアルのチェックどころか、ライティングも出来るようになっていますから、何処へいってもその経験は買われますよ」と言ったのは派遣会社の担当者であった。

たしかにそうだ。前職はクライアントからもらった「完成原稿」を他の言語へコンバートし、整えるというだけの作業であった。何かを作り上げているという手応えはなく、「コンバート」が主体だから、多くの金も取れない。その割に作業量は多く、
気苦労だけがつきまとう仕事・・・・。だから、入っては辞めて行く、多くの人間を見送るだけであった。

10月1日に入って暇が続いた後で、行った仕事は、繁体中国語のチェック作業であった。しかし、この仕事をもらうのもすごく時間がかかった。ちょうど会社が休閑期に入っていたからである。少しパニックが起こって来た。

前職のことである。大阪のキタにあった外国語マニュアル制作会社に入社したとき、私はDTPのオペレータとしての雇用であった。しかし、入って一週間でその仕事を外された。必死でやったが、どうやら「熟練の技術」からみて、相応しくなかったらしい。そしてしばらく、会社に出て行って、一日何もしない日々が続いた。会社にしてみれば、そのうち根をあげて自分から辞めるというのを待っていたのだろう。だが、私は図々しくも居残った。だが、周りが忙しく働くのを見ながら、居続けるのはすごく精神的にまいった。地下鉄の梅田の駅のベンチに朝から座って、「今日も一日何もする事はないのだな」と考えながら、始業時刻までの時間を過ごしたこともあった。卑屈にも社内で頭を下げまくった私は、どうにか編集と校正の仕事を得た。しかし、その後を見ていると、DTPで使えなくなった人間が編集と校正に回されるパターンは実に多かったし、そこで反論した人間は、容赦なく「切られて」いった。私の場合は社内で「営業」したのが幸いした。この「営業」すらせず、居残った人間もまた切られていった。

この極端に仕事が少なく、回ってこない状況にさらされた私は、あの梅田の駅でベンチに座り、朝からため息をついていたあの頃を思い出したのである。

それでも社内では何人かの人が良くしてくれた。昼休みには、社内食堂へ行く。メニューには若干偏りがあって、味は本当に良くなかった。夏の書類整理で行った会社の社食は本当に気合いが入っていておいしかった。

門真の駅からコンビニもない不況の街を10分ほど歩いて、工場のゲートで認証を取り、工場の敷地内にある建物で午前中仕事して、お昼12時に部屋の電気が消されて、社食へ仲間と行って、食べて、45分しかない昼休みを過ごす。工場内にあるATMはいつも人が並んでいて、平日に金を下ろすのをあきらめて、郵便局に行く時間もとれず、取れたとしてもあのゲートで認証を取らなきゃならず、12時45分には集まって、ミーティングを行い、夕方17時には「かつて」松下幸之助をたたえたとおぼしき曲がスピーカーから流れても、仕事を続行し、19時くらいに仕事が引けて、家路を急ぐ。

会社とは工場であり、工場とはお城であり、その中に入ったら、一日何所へも出られない。それ故に、工場内には何でも完備されていて、ある意味で会社の「温情主義」とも言われる。その不自由さがこれから何ヶ月、何年と続くのかと思うとたまらなく不愉快であった。

様々な派遣会社から人が来ていたが、ここ門真の隣の守口にあった三洋から来た人がいた。今、三洋では技術系でも人減らしが進んでいて、三洋の派遣は、みんなこっちへ来ているとのこと。私はそこで将来像を描いた。そのうちこっちも景気が悪くなって、堺に出来るシャープの液晶工場へ移動するのか・・・。

しかし、今となっては、シャープの堺の工場も出来るのかどうかが怪しい。

一週間ほどで、私は仕事を辞した。

南円堂の曙光、不空羂索観音菩薩の慈悲 ー3ー

2008年12月31日 15時11分34秒 | Weblog


「お前の苦労話ばかりで、表題とは違って来たな」という声が聞こえてきそうだ。

今年9月までのアウトラインは書ききった。その間、本当に悪い事ばかりだったのか。

話は、2007年初頭へさかのぼる。どこかの国の(アホな)首相は、先頃(2008年末)にハローワークに行って、そこでの検索を行う求職者と対話した中に、「やりたいことをしぼって探すと良いよ」とほざいたらしい。しかし、ほとんどの求職者はやりたい事などしぼると、仕事が見つからないことを知っている。できそうで、やったことのない仕事を探しているのが現状ではないか。
私もまたカウンセリングなどというものを受けさせられた。「何がやりたいか」を言うのは難しいので、大体35とか40の節目で、何をしておきたいかを言ってください・・・と言われた。そこで私は「40歳で本を出したい。自費出版じゃなく、出版社から依頼を受けるような形で・・・」でと言った。かなり現実味のない将来像である。「では、それに即した仕事を探してみましょう」と言われて探す訳だが、当然の事ながら見つかる訳が無い。にもかかわらず、それに則ってさがして、なんだか目標から、とっても遠いあの「コールセンター」の業務である。一度、入社を承諾したのは、カウンセラーが「もうここにしておけ」という、助言をくれたからだ。そして、私はこの話を断った。それ以降、ハローワークへカウンセラーから逃げながら、検索に行くはめになった。

さて、その年の末になると、窓口の担当者まで私が行くと求職の履歴を見て、イヤな顔をするようになった。「営業か工場でも探されたら如何ですか」工場はともかく、営業はかなり以前から選択肢に含めている。それにも関わらずである。「派遣の方が決まりやすいですかね」と聞いたことがある。しかし、ハローワークの担当者はこの派遣に対して、否定的だ。曰く「契約が切れたらまた探さなければなりませんからね」

さて、最近の家電メーカの工場閉鎖にともない、大量の派遣契約解除者が新聞などでクローズアップされているが、事務業の派遣は、実際のところどうなのであろうか。

どうあっても、やはり人ごとのようにしか扱いようがないハローワークに、神経を苛まれながら出入りするくらいならば、望む事務方で派遣社員になった方が遥かに良いと考えた私は、大量募集のかかっていた市税事務所の業務にエントリーし、そこが決まるのだが、それまでのつなぎとして、母校の図書館の整理アルバイトに入った。これぞ、かのリクルートの短期バイトで探した結果である。そのバイトで出会った現地のリーダーこそが母校の生協が出す同人誌の執筆メンバーであった。

さて、先に私は「本を出したい」などという途方もない夢を語った。お声がかかるには、まず、自腹を切ってでも人様の眼につく場所に、文章を置かねばならない。今の私には研究誌は敷居が高い。

だから、正月に南円堂を訪れたとき、何を考えたか、「本を出すような仕事に就きたいです」とお願いしたと思う。

私は、リーダーに古本屋で買った本を見せて「これで何か(エッセーでも)書いてみたいですね」と言った。すると、「書いてみろ、編集者を紹介する」と言われた。私の恩師も投稿していたあの雑誌に対して、掲載審査を受ける場所まで到達できたのである。しかし、この審査で残るかどうかが分かれ目である。もう何年もまともな文章を書いていなかった。4回は確実に書き直しを行い、編集者に見せると、若干の修正を施して、私の書いた駄文は、9月の終わりに同人誌の数ページを割いて掲載されることとなった。いま、私は次の掲載予定の執筆に追われている。

話を前回の最後に戻そう.
仲間にも恵まれた書類整理の仕事が終わると、私は母校に向けて派遣会社を通す形で、「提案書」を提出したが、全く応答がなかった。この時、私は大学という教育機関が横風に弱い事を知る。一般企業ならば、3ヶ月で社内が落ち着かない場合、おそらく会社が傾くであろう。しかし、大学という場所は世間から遊離しているのである。それがために組織的決断もまた非常に「ゆるい」のである。

南円堂の曙光、不空羂索観音菩薩の慈悲 ー2ー

2008年12月30日 21時07分32秒 | Weblog


秋が過ぎて、冬になった。正社員にこだわった私の仕事は決まらない。そのまま2007年の末を迎えようとした。そして私は、手っ取り早く、お歳暮の配達のバイトを取ろうとした。目指すはクロネコである。昔、ここのお歳暮のアシストをやったことがあるからだ。電話をかけ、面接の予約を入れた。確かその日は東大阪にある娯楽遊具の会社のDTP制作部門の面接を受ける日だったと覚えている。見るからにガタイの大きな営業系の社長が出て来て、さんざん質問に答えたあげく、数日後、不採用の通知をもらった。が、すでにその時点でバイトの方は8割決まりかかっていた。

だが・・・・。

以前は必要としていなかった健康保険証が必要だと言い出す。前回にも書いたが、こんなしゃれたもの持っていない。今、ホームレスとなって、住所がなくなり、仕事が決まらない人々が多くなっている。そんな気持ちになった。もっとも屋根がある場所に居る分、私はまだ恵まれているのだが。不思議と私は、次の手を打った。郵便局である。

知る人ぞ知る、夜中の仕分けのバイトである。比較的若い人で充足されるコースであるが、それなりに年を取った人も見られた。中には退職者もいる。鉄鋼関係に勤め、最後は取締役にもなった人であった。おそらく長年勤めた前職で、体を酷使したのだろう。私の父とそう年齢が変わらないにもかかわらず、10年は多めに歳を取っているように見えた。

年賀状の区分け自体は機械で行うが、機械で判別できなかった物に関しては、手で区分けを行う。夜の区分けは18歳以上でないと出来ないから、朝になると高校生と入れ替わる事になる。やはり夜中の作業であるからか。入れられたシフトをきちんと守れない人もいた。比較的その範疇で仕事をこなし、なおかつ二時間程度の残業もしていたから、いつの間にやらバイトのリーダーになっていた。面白いのは、日中、高校生がのんびり行う区分けよりも、我々は約3倍近い数をさばいたということである。

2008年1月1日になった瞬間を、私は郵便局の区分け機械の前で迎えた。いままで、こんな迎え方をしたこともなかった。そして、来年もここで迎える事になるんだろうなと思った。年賀区分けのバイトが終了する直前、私は、郵便局から「スカウト」された。他のアルバイトからも残れと言われた。そう多くはない数の人間に声がかかったようだ。しかし、アルバイトのままでいることには不安があった。夜中バイトして、日中は就職活動。そんな選択肢もあったが、夜中に働くというのは、期間が決まっているから出来る事であって、よほどの意志がなければ、かなり難しい。

毎年家族と行く春日大社の初詣は、バイトでつぶれて行く機会を逃した。そこで、一人で行って来た。不思議な事に、同日、興福寺南円堂に足が向いた。以降、奈良へ行くと必ず興福寺南円堂に向かう。

アルバイトの終わった私は、就職活動を継続したが、やはり芳しくない。そんな中、3月は短期で大阪市の市税事務所の派遣の仕事が決まったこともあって。しばらく中止する事にした。4月に入ると別の、しかも大手の派遣会社を使って、探すことになる。

ところで、なぜ、ニュースで報じられる派遣は工場勤務が多いのか? 答えは至って簡単である。仕事が探しやすく、決まりやすいからである。誰でもそうだが、わざわざ決まりにくい事務職、しかも男性で事務職を狙って探すよりも遥かに決まりやすいし、多くの人間は今日や明日の日銭が必要なのだ。しかし、これには一つの問題もあって、技術の蓄積やホワイトカラーへの移動が極めて困難になる可能性も大きい。私はそこが凄く不安であった。だから工場系への手出しは避けた。

4月に入ると、その「大手」の派遣会社から、NTTコミュニケーションズなどのかなり大手の仕事が紹介された。しかし、細部をつめて行くと、どうしても最終的な審査で残る事が出来なかった。4月の終わり、私は自分の母校の事務職員、しかも学長室勤務の紹介を受け、面接が行われた。万事調子よく行くと思われたが、面接の次の日、大麻所持で学生が捕まり、危機管理の中枢たる学長室は大混乱。結局この話は流れたかに見えた。いよいよ食うに困った私は、以前の派遣会社に泣きつき、市税事務所の仕事を再度、紹介してもらう。その傍らで、別の話を進め、佐川急便の子会社が経営するコンピュータ会社で、大量の書類整理の仕事をもらった。

これも短期だった。というのも、かの母校事務職員の混乱は3ヶ月もあれば収まるという目論見があったからだ。夏の間は、延々整理書類のナンバリングという「判子押し」を行った。この頃から、周囲の人間関係に恵まれるような状況が現れる。

派遣の事務業を男性が行うのは、本当にしんどいものがある。そもそも、そこに居る人間のほぼすべてが「派遣は女性が行うもの」という公式を持っているからだ。ある時、私は、あたかもサンドバックを殴るように、人から暴言を投げかけられたことがある。20人の女性を連れて来て、男性は私一人という歪な人間構成の時もあった。このとき、私は派遣会社の「格」を考えるようになった。そう考えると、H社よりもA社の方が遥かに格が上だった。集めてくる人間の人間性は良かったし、H社の派遣社員でさえも、A社である我々をうらやましがったくらいだった。「A社さんところの社員さんは、楽しそうに働いている」と。

さて、契約の切れた9月・・・。


南円堂の曙光、不空羂索観音菩薩の慈悲 ー1ー

2008年12月29日 19時21分54秒 | Weblog
ジョルジュ=バタイユの最古の執筆作品が「ランスのノートル・ダム大聖堂」である。ランス大聖堂は2006年にフランスへ行った際に訪れた場所である。もっとも、パッケージ旅行のオプショナルツアーで「シャンパンの本場に飲みに行こう」というコースで「ついでに」見てこようという感じだったが、実際に行ってみると、シャンパンどころではなくなったくらい、その巨大さと美しさに圧倒される。先のバタイユの文章の中には、つぎのような1文がある。

そして今私はこう考えている。生きてゆくためにはこのような光が輝いているのを見たということが必要なのだ、と。(酒井健 訳『ランスの大聖堂』ちくま学芸文庫 2005)

全く仕事に恵まれていなかった私は、2006年末まで勤めた会社でその「不幸」が極まったように感じられた。自分を活かす訳でもなく、ただ、居ててこなすだけの毎日。その年末、私は会社を辞した。これほど、仕事に不満を持って辞めた事はかつてない。
それから、しばらく仕事を探す日々が続いたが、失業保険給付が終わる頃、ある会社の正社員に決まった。「マーケティング」の会社ではあったが、結局のところ、電話口の質問を繰り返す「コールセンター」である。私が電話をかけるのではない、その管理を行い、先々クライアントとの交渉や営業を行うというもの。面接も二回あるはずが、面接日に行くと、担当者が居なくて、出て来たのはその会社の若い「会長」。たかだか30分ばかりしゃべって、次の日に内定が出た。

しかし・・・

正直言って、自分の中にある「コード」ではない。自分の中で引っかかるものがある。すぐに働けるにも関わらず、入社まで一ヶ月も待たされ、その間に不安だけが倍増していった

さて、入社日当日。それまで私はせいぜい多くて50人の会社で働いていたが、しかし、その大半は正社員と契約社員くらいであった。都度、派遣社員を若干入れていたというところか。

だが、その会社は派遣だけで60人以上いて、それを10名に満たない正社員がコントロールする会社であった。これは普通なのかも知れない。でも私の中では「普通」ではない。

5月の半ばに入ったが、6月の初めまでいる「派遣さん」を教育する。人間は出たり入ったりするわけである。少なくとも私はこちらがわの人間ではなく、あちら側の人間、すなわち派遣社員の方だった。人の出入りが激しいと、やはり心は荒んでくる。それは以前の就業先で知った事だった。私は他人から見てそのように見えないのだが、その日パニックを起こし、胃が痛かった。これだけの症状が初日の午前中だけで起こったのである。次の日、私は会社を辞した。

そこから貯金を食いつぶす時間が始まる。次の仕事はなかなか決まらない。

やる気のない社長とか、廊下の蛍光灯がチカチカ点滅しているとか、隣の人事担当者とボソボソ喋りながら、時々、独り言を言っているのかわからないような口調で質問してくる専務。カタコトの日本語を喋る機会商社の社長・・・・実に『変な』面接や会社を受けた。こうした会社はみんなハローワークで見つけたものだが。

だんだんとやる気の方が後退していった。ひどい事に、マーケティング会社に内定した頃からかかっていた鬱病にも似た症状が悪化しはじめていた。しかし、病院にも行けない。バカ高い国民健康保険を払い続けてまで、保険証を持つ事が嫌だったからだ。大体、前職で渡されていた保険証を2年間に行使したのは一回だけ、軽いカゼのときである。配偶者や小さな子どもがいるならともかく、私ひとりでは必要ない。

夏が過ぎて、秋になり、私は楽に死ねる方法を考えた。

結局、この近畿では望む仕事が見つからず、東京へ行く事も考えた。私はあれほど忌避していた外国語校正の仕事を行う会社の面接をうける約束を取り付け、東京へ行くバスを予約したのは、10月の中頃。時間だけは沢山あった。

10月17日、この日は一年で一日だけ奈良の興福寺にある南円堂が開かれる。中には国宝 不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのんぼさつ)が安置される。偶然にもこのことを知り、何かに動かされるように、わたしはそこへ向かった。

正直いって、仏像に関する知識など何も無い、ましてそれは美しいのかどうなのかということは全くわからない。でも「これほどやさしい顔はない」という強い衝撃を得た。東京は、「何のために呼んだんだろう」という感想を持つだけに終わった。

そして私は奈良に帰り、目減りして行く貯金をセーブすべく、バイトを探した。

運転免許更新

2006年07月18日 01時06分23秒 | Weblog
話は日曜日に戻るが、自動車の普通免許の更新があった。
私は、免許を取ったのが遅かった。世間では、高校を出てすぐ、あるいは大学生の間に取って、ある程度レジャーで使いこなし、就職して営業で使うといったパターンが多いから、私の場合、相当遅れたわけだ。それでもまだ就職をしていたわけでもなく、大学の研究生だったから、日中時間があって、可能になったといえよう。

今年の免許でゴールドカードになった。免許を取った当時は、それなりに乗っていたのだが、今では乗ることもない。おかけで無事故無違反になった。

ところで、今回の更新では懸案事項があった。適性検査、すなわち視力検査で問題になるのではないかと不安になった。仕事でパソコンを使う頻度が高いが、その傍らで、細かい文字を読むなんてことも行っているから、だんだん目が悪くなる。この一年で衰えたものといえば、視力もあげられる。

こうなるとあらかじめ眼科で検診を受けてから行くほうがよさそうだが、もういいやという感じで、奈良県の運転免許センターへ。

初代神武天皇が即位した橿原神宮に近いともいえる新の口に免許センターがあって、ここで私は過去に運転免許の学科試験と更新を行っている。駅からそう遠くもないが、さすがに暑い。

一通りの手続きを行うが、過去私は安全協会費の使途が不明であることを、このブログで書いた。受付窓口のマニュアル通りの対応は結構巧妙で、「ご協力いただけますか?」と聞かれるが、「せっかくですがご辞退します」と言った。

読者の諸君!約束は守ったぞ!!

並んで前の人を見ていると、窓口を離れる際に、持ち物が違うようだが、あれで入会したかしなかったがわかる。と言うのは、入会すれば何かパンフレットらしきものを渡されるのである。勿論私はもらっていない。

で、視力検査。「0.1無い?」と聞かれて、「ないです」と答える。
前回は二回で終わったが、今回は4回くらい試されたと思う。そこで、そそくさとハンコを押されて渡されたが、そこには条件に眼鏡と押されていて、「合格」の印だ。

それらが終わると窓口へ提出して、写真撮影へ。今回取った写真は5年間同居するから、うまく写りたい。そこで赤めの服を着ていった。少し顔を下向けて取るが、どの道悪人ヅラだ。取った写真は悪人顔だが間抜け顔ではなくなった。

優良者講習は30分で終了。主にここ4年ほどの法改正が講義の主体だった。ビデオは見ていない。

結局何事もなく今回の更新も終了だ。
確かこの辺はといザらすがあったはずだがなくなっていた。どうも移転したみたいだ。ここのといザらすは現ブッシュ大統領の父親が大統領だったときに、外資系ショッピングセンターの出店状況視察に訪れた。結構話題になったものだ。

5年経ったらあの辺、だいぶん変わるだろうな。

またまた誕生日

2006年07月10日 23時26分34秒 | Weblog
というわけで、今年も誕生日。

しかも今年は運転免許の書き換えの年でもある。
生きていれば人間、一年に一回はやってくる日だが、年を取るごとに、それほど気にしなくなってくる。むしる、これから先何をやるのかということを考える日でもある。この日以降、一つ年を取るわけだから、転職するにも結婚するにも、少し難しくなる。このまま進むのか(ダラダラと)、エイやっ!と新しいことを始めるのかを考える日でもある。
私のほうにしてみれば、一年前から今日までやってきたことは、自分の中で少し「退化」ではなかったのかと思うときがある。それはまた自分がしっかりしていなかった部分でもあるし、その部分が帰って安全という状況に追いやっているということと、そこへ安住しているという現実。
だけど、このままじゃダメだから、どうにかしなければならないということが、大きくのしかかる日でもある。特に今年の第3四半期は多くの個人的課題がのしかかる時期でもある。

いうほど特別な日でもないのだが、この土日で使ったお金の中から、少し多めに出して、書店で専門書を購入し(あの『現代思想』で有名な青土社の5000円クラスの本だ)早々と家に帰った。

家人が小ぶりなケーキを用意してくれていた。

ありがとう!