酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

魚へ・・・誘う

2010-11-30 09:47:06 | ああ宮城県な話
「つりっこさぁいぐべ」
と、午前二時、親父が寝ている酔漢の部屋のドアを叩きます。
5月の初め、日曜の未明です。
母親の「学校に遅れるヨ!」という目覚ましの声よりも効き目のある声です。
この言葉を聞いたとたん、眠気がすっ飛んで、がぜん「やる気」(釣りの)が出るのでした。
慌ててベッドを飛び起きて身支度します。
自身の道具はスタンバイOK!親父の愛車に積み込みます。
「今日はどこさいぐのすか?」
「鮎川さぁいぐべ」
国道四十五号線を北へ向かいました。

父は春先から6月初旬と9月から10月半ばにかけて釣りを楽しみました。
冬はスキー、夏はゴルフと多趣味な人でして、それも道具にはことさら「こだわる」人でした。スキーは5歳から、釣りは小学校2年から一緒でしたが、ゴルフだけは、これは酔漢の癖ではございましたが、どうにも好きになれず(上達しなかったのも要因かもしれませんが)親父殿も教えるのを諦めた様子でした。

さて、親父の釣り歴です。
その昔、本塩釜駅の正面左側に「守屋釣具店」があったのを覚えていらっしゃる方はおられますでしょうか。その「守屋のおやじさん」と、「佐々木眼科」の高橋さん(薬剤師)と釣り仲間だったのです。
投げ釣りがほとんど。
昭和の30年代後半から七ヶ浜あたりの釣り場を開拓した人達です。「投げ釣り」がまだメジャーになってなかった頃の時代。
愛車の「ハンターカブ」に釣竿を背負ってまたがり、夜中から出かけていく親父を見ておりました。
吉田浜は大物「石鰈」が釣れるポイントです。話は変わりますが、丹治さんとの行きつけの飲み屋「松竹梅」には見事な魚拓があります。「吉田浜 石カレイ 42cm」デカイです。
親父達は「吉田浜投げ釣り」の最初の釣り人達でした。
父の記録は定かではありませんが、「だれ!石ガレイはでけぇけんど、食ってうめぐねぇおん」と言っておりました。案外負け惜しみだったのかもしれません。

国道四十五号線を石巻をこえて、コバルトラインの料金所を過ぎたあたりで夜明けを迎えます。海面に月明かりが反射して、これは見事な風景を醸し出しております。

「へへへへへ・・・なぁ、見事な色だぜぇ。よく空色ってなぁ青一色(ひといろ)だって言う奴ぁいるが、そうじゃぁねぇんだぁ。あっちから半分は黒。そして、こっちは赤。この景色がみたくてぇ魚屋やってるってもんだぜ」
落語「芝浜」の一節を思い出します。

鮎川の防波堤。突端まで道具を担いで歩きます。
堤防の先端附近から外側が恰好のポイント。100mのミドルキャストで「真カレイ」がねらえます。
父は、どちらかと言うと、「待っている釣り」が好きなのでした。
ポイントを変えながら移動するという釣りには(そうした魚を釣ろうとは思わなかったようです)行きませんでした。
「何、ぼーーーっとしてんのがいいんんだべ」
ですから、投げ竿を5本から6本も出して、(←一人で、です)その穂先を眺めながら過ごす時間が好きだった様です。
早朝、夜明け頃から釣り始めて、午後二時頃まで。二人で20枚位の鰈を釣り上げます。
30cmクラスが上がれば、刺身でもいけますが、一夜干しにしたり、煮魚にして食べます。
楽しい一日を過ごしました。

丹治さんのお父様「丹治寿太郎先生」です。そのお写真の中に「カレイ釣り」をしているのがございます。解説。「カレイ釣りが好き」
丹治先生も釣りが好きだったのでした。もっとも父とは違って「船釣り」がほとんどだったようです。
夏、盆の帰省。丹治さんとの会話です。
「年下が、釣りをしたいと言ってて、釣れねぐても東宮浜さぁ行ってみっぺっておもってっしゃ」
「んだなや。俺も親父(寿太郎先生)に高木川の河口にハゼ釣りさぁ連れて行ってもらったっちゃ」
釣りも思い出はつきません。

酔漢も一番初めは一万トン岸壁での「ハゼ釣り」でした。ですが、最初に釣り上げましたのが「ねうっこ」です。本当に小さい奴でした。
「ねう」とは東北の呼び名だそうで「アイナメ」の事です。「根魚」と書きまして「ねう」という事ですね。

NHKBS2の番組「日本釣り紀行」では松島「ハゼの数珠こ釣り」が紹介されました。
釣り針を使わない伝統漁法です。大きなハゼが釣り上げられておりました。
「ハゼの出し」は雑煮には欠かせません。
懐かしい味でございます。

写真です。見事な「アイナメ」
カラー魚拓の写真集からです。
「川政依竿」(かわまさいさお)先生の作品集からご紹介いたしました。
多くの魚がまるで生きているような作品です。
酔漢の癖です。こうした魚を見ましても、「旨そうだなぁ」と最初に感じてしまいます。
この写真集ですが、友人から寄贈されたものです。
東北福祉大学での友人、演劇部を創設させました。「かんの君」からです。
僕らの演劇部での話は一部で語りましたが、それはそれは個性的な人間が数多くおりました。無名塾でご活躍中の「藤本喜久子」さんもその一人ですが、酔漢も参加しておりました。そして、彼はクロンシュタット氏の後輩、塩竈三中の出身。小学校は三小ですから、丹治さんの後輩でもありますね。高校は「仙台高校」
今は厚生労働省にお努めです。
彼の趣味は写真です。
趣味が高じて半分プロの彼の腕前。
このカラー魚拓の写真は彼の作品でもあるのです。
写真集に彼の名前は二か所しかございませんが、彼の苦労も読み取れます。
白黒の魚拓とは違って、魚の原色が再現されております。
川政先生が自ら竿を振って仕留めた魚です。
北は北海道の「イトウ」「オショロコマ」から塩竈でも馴染のございます「メバル」「カレイ」まで、数多くの魚が飾られております。
見事です。
ところどころに先生の句がございます。
ご紹介いたしましょう。

 漁師来て 長話する 夜釣りかな

 秋麗釣りへの誘ひ 来たりけり

 飛魚や 海よりも空 果てはなし

魚への愛情が伝わる句です。

「酔漢、写真集贈るよ」
「いきなり何っしゃ?」
「まぁ、塩竈人のお前にならこの雰囲気が解るだろ!」
こうして、贈られてまいりました「カラー魚拓作品集」だったのです。
「何っしゃ!おめぇも塩竈人でねぇかや!」

俳句と釣り、そして魚拓の作品。
「釣りしてぐなったっちゃ」と酔漢の本能を呼び起させてくれる一冊です。

「魚拓です 川政依竿カラー魚拓作品集 株式会社文芸社 2005年3月15日 第一刷発行」
そして、写真は塩竈市出身「かんの」君なのです。

丹治寿太郎先生は「メバル釣り」をたしなんでおられたそうです。
そのメバルも魚拓になっております。
そして川政先生の一句。

師と友と旨い肴と生ビール いさお

「これに尽きる!」
故郷の海が懐かしくなる酔漢でございます。

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4 コメント

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つりっこ (ひー )
2010-12-02 22:42:31
子供の頃、たまに親父に連れて行かれたのが、代ヶ崎でした。ところがさっぱり釣れません。
これが 好きにならなくなった大きな理由だと思います。
中学まで砂押川のそばに住んでいたので、川で釣ることが多かったのでした 。
またゴカイを取って釣具やのおんちゃんに買ってもらいました。
小さい升で10円だったかなぁ~
ミミズも買ってくれましたよ。
多賀城橋の根本にあったボロい釣具やでした。
渓流釣りや投げ釣りも行きましたが、どうも私と魚は相性が合わないようです。
昔、会社の釣り大会に舟で海へ、ポイントに着く前に船酔いで何もできず。
それも釣りをしなくなった大きな要因ですね。
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つりっこ、行きたいな~ (ぱるえ)
2010-12-07 16:17:07
私の釣りの思い出は牡鹿半島。寄磯浜や祝浜かな?
夏休みによく行った場所なんです。
近場では七北田川の河口、貞山堀あたり。蒲生の干潟にもよく行きました。
小さい頃は針にエサをつけるのが嫌で嫌で・・・今は全然平気ですけどね!
OL時代は職場の人たちと石巻湾で船釣りにも行きました。
子どもが生まれてからは、要害浦からハゼ釣りぐらいです。
毎年秋にはぐずらと「釣りっこいくべぇ~」ってなるんですが、これがなかなか・・・

ネウの刺身とはご無沙汰だなぁ~
の~んびり釣りでもしたい気分ですよっ♪
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ひー様へ (酔漢です)
2010-12-07 17:53:24
釣りの思い出と共に、魚拓をご紹介いたしました。
かんの君は「猫のカレンダー」のカメラマンでもあるのです。
お役所勤めと共に、彼の大事なお仕事なのでした。
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ばるえ様へ (酔漢です)
2010-12-07 17:57:08
牡鹿半島では鮎川、寄磯、田代島へ出かけました。田代島では、40cmのマコガレイを父が釣り上げました。
本当にきれいな海でした。
来年5月初めに帰省します。
年下君がまた東宮に行きたいと申しておりますが、「釣れんだべか?」です。
春あの場所で釣りをした事がないもんで・・。
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