酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 遺族として、家族として 岩波新書1088

2011-05-27 11:53:21 | 大和を語る
「くだまき」では一貫して「坊ノ岬沖海戦」を「特攻ではない」としております。
大和が戦場へ出撃してから、何度となくこう語っておきました。
その理由は各項目にてお話したところですので、今さら同じ事項を語るつもりは毛頭ございません。
歴史の流れを知るようになり、また多くの方々のご意見、論調、論文、ブログ、ホームページを拝読する機会に恵まれました今、この瞬間も、この考えを訂正するつもりはありません。
そう「誰が何と言おうと」酔漢は「あれは特攻ではなかった」と結論し、それを論破するだけの材料と信念を持っております。
父と祖母の話を最初に聞いたことがやはり大きい部分かと、自身ではそのように考えております。

「第二艦隊が沖縄さぁ出撃してや、それを『特攻』って言ったらっしゃ。飛行機一機で敵さぁ突っ込んでいった人さぁ、なんぼ辛かったんだべ。『三千人と一緒』こいづとおんなしさぁできねぇって、こう思うのっしゃ」

父は、祖父が戦死したこの作戦でも「特攻」とは一度も話しませんでした。
清水元大和副砲長の証言は一度語っております。再度の紹介です。
「特攻という名の作戦だった。だけど作戦であって特攻ではなかった。三千名と一緒という気楽(清水さんのお言葉をそのまま記載いたします)さはあった」

この上記の清水元副砲長の言葉がこの歴史的定義を定めるにおいて、重要なファクターになりうるとこう考えるのです。
最終結論を語ります。

「特攻作戦ではあった。しかし特攻ではなかった」
「くだまき」の結論です。

冒頭に一冊の書を紹介いたしております。
題名はこうです。
「戦艦大和 生還者たちの証言から 栗原俊夫氏著 岩波新書1088 2007年8月21日 初版発行」
この書は酔漢とは異なり一貫して「あれは特攻作戦であり特攻であった」としております。
栗原氏は、一人一人のご生還者をお尋ねになられ、大変貴重な証言をまとめておられます。
「大和がどのような顛末をたどったのか」
こと細かにお書きになられておられます。
一人一人の思いのたけを忠実に現代に伝えようとする意図は十分に感じられます。
酔漢もこの証言を拝読した際、涙が出てきたのは事実でございます。
しかしながら、最初に「特攻ありき」で書かれておりますので、「特攻である」と結論するあまり、その結論づける背景の掘り下げ方に、いささか疑問を持つわけでございます。

「特攻でしたからね。父は二階級特進(特別昇進)したんですよ」。取材の途中で、ある遺族が父の写真を見ながらそう話した。
私はのどの奥まで出かかった言葉を、のみ込んだ。「いえ、違うんですよ。お父さんは二階級特進はしていません。大和以下、第二艦隊の戦死者は、特攻の中でも例外だったんですよ」と。しかし、「特進」を信じている遺族に、そう指摘することはできなかった。
(同著 193頁 より抜粋)

遺族も多く、その歴史的海戦の顛末を知る方は少なかろう。だが、そう信じている遺族がいれば「指摘する」のが良心ではなかろうか。酔漢はこう考えました。
そして、本当に上記のようなご遺族がいらっしゃたのか。このくだりは、酔漢自身の中ではにわかに信じがたい文なのです。(酔漢が、その顛末については、少しばかり知識があるから・・と言われましたら、そうではないご遺族が多いのかとも思いますが・・)

以下、このように続きます。

第三章でみた通り、第二艦隊の出撃は、命令する方もされる方も「特攻」と認識していた。しかしそれは、二つの意味で「普通の特攻」ではなかった。(以下省略いたします。この間に特攻の歴史、特攻を拒否されました『芙蓉部隊』美濃部正少佐のお話が掲載されております。そして、栗原氏はこう述べられておられます)しかし、ほとんどの兵士たちには「特攻」に参加するかどうか決める機会はなかった。彼らにとって「特攻」は初めから強制だったのだ。
この見方については反論もある。当時「一億総特攻」という表現が、軍人、市民の間でも使われた。一億人が実際の特攻するわけではなく、気分を表した表現だろう。大和以下の「水上特攻」も、同じ意味で使われた、という指摘だ。
だが、実際には命令書に明記され、(祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 出撃 疑念 二→2010年4月14日更新くだまき)また、出撃したという点で「水上特攻」が単なる比喩だったとみるのは妥当ではない。
(同著 195頁~196頁より抜粋)

「妥当ではない」その通りでございます。
多くの書を紐解きますと「特攻ではないが、特攻という言葉を命令書の中で使わらずを得なかったのは時代と時世である」という言葉が多いことに気づきます。
これには酔漢も異を唱えます。
「GF作戦令」は「命令」であり表現的比喩はありえません。これは定義です。
さらに、別な視点で栗原氏は続けます。

「二階級特進」せず。
昇進の点でも二艦隊は異例だ。(中略)事実上、沖縄水上特攻で散った兵士のすべてが、二階級特進の「栄誉」からもれている。なぜ、第二艦隊は「特進」からもれたのか。
(同著 196頁 より抜粋)

一度、東海大学、鳥飼博教授のHPにお邪魔をいたしました。このHPより「くだまき」へリンクができます。(鳥飼先生のご配慮には深く感謝いたします)
鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
戦艦「大和」天一海上特攻の真相 2005
このHPによります「くだまき」の紹介文に先生はこう書かれておられます。

2009年7月2日,大和海上特攻で戦死された方の一言を祖父・海軍そして大和に関連した遺族からお伝えいただいた。「こんなとこさぁいたぐねぇべさ」。本サイトで,「特攻」の名の下に行われた作戦だが,戦死者に二階級特進はなかった,と指摘した。が,これは,何十年も前から遺族の間では常識だった。こんなことにやっと気付かされた。
(上記、リンク。鳥飼研究室HPより抜粋)

ここでもう一つの言われ方を見てみます。
「大和以下第二艦隊戦没戦死者は『二階級特進はしていない』だからあれは、特攻ではなかった」
酔漢、これも違っていると考えております。
逆なのです。
「二階級特進ではないから特攻ではない」というものではなく「特攻ではないから二階級特進ではなかった」こう見るのが妥当かとこう考えます。

財団法人「特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会」(菅原道熙(すがわらみちひろ)理事長)によると、(中略)「あえて第二艦隊にそれをしなかったのは、何らかの決定、意志があったのでは」と見る。
(略)元海軍大佐で、海軍省人事局員だった福地誠夫(の証言として)は(息子の証言から)「確かに、命令は特攻だったけれど、十死零生ではない。護衛艦を多数出動させていたし、現にそれにすくわれた人も少なくない。だから通常の戦死者と同じようにしたんだろう」と。
「でもね私は特攻だったと思うんですよ。命令もはっきり『特攻』となってますし」
(同著197頁より参考 抜粋)

二階級特進に関する疑問は、また後記といたします。

この福地さんの証言も興味深いものです。
命令は「特攻作戦」なのです。これは、「くだまき」の結論といたします。
ですが、命令と実際は違っているのです。
ですから、歴史的私見を述べさせていただければ。

「命令は特攻作戦ではあった。だが、実際は特攻ではない」
上記です。

「では、第二艦隊は命令違反を犯したのか」という指摘。
その通りなのです。
これは極論なのですが、そう命令違反を犯しております。ですが、今一度思い出していただきたいことがございます。
祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 引導
2010年3月25日更新の「くだまき」です。
ここで、第二艦隊伊藤整一司令長官と草鹿参謀長との会話を紹介いたしました。
伊藤長官は「作戦中止の判断の是非とその判断がゆるされるのであれば、自身が下したい」と意見いたします。
草鹿参謀長はこれを承諾しております。
これで、「この瞬間に『特攻作戦』から通常作戦に変更されていると見るのが正しいのではないか」と見るべきではないかと酔漢はこう考えます。
実際、「総員最上甲板」は下令されてます。
艦隊としても、旗艦を失ったその時間に「作戦中止の意見具申」を打電してます。
ここで「通常作戦も中止」となったわけです。

作戦中止による「二階級特進」はあり得ません。しかも、特攻を否定した第二艦隊です。
これ以上の理由はあるのでしょうか。
思い起こせば伊藤司令長官は「特攻」という言葉は一度も発しておりません。
「我々は死に場所を与えられた」という台詞はありますが(石田恒夫元第二艦隊副官証言にもございました)、「特攻」はありません。
有賀艦長訓示では「・・・ただ全力を尽くして任務を達成し、全海軍の期待にそいたいと思う」とあり、能村副長も「・・・真の神風大和になりたいと思う」とございます。
「神風」こそ比喩的表現でありこれはイコール「特攻」ではございません。
古村第二水雷戦隊司令官ははっきりと「無謀な作戦」と訓示し、「生還することこそ意味がある」と説いておられます。

「特攻作戦」ではあったが「特攻」ではない。だが、海軍作戦史上最も「無謀な作戦」であったことは否定できません。
「無謀」であるが故痛みの大きさは「誰しもが気づきます」ですが、それを自身で選択することは不可能です。
ここに、多くの矛盾が生じてくるのです。
あくまでも、ここから先は個人の価値観となります。
酔漢は遺族です。父と意見を同じくしております。ですから、「あなたが第三世代だからこう意見する」というご批判がありますれば、それは違います。
私ども、遺族として「祖父は特攻ではなかった」これは親族一致の見解です。
だから「二階級特進」に関わる「恩給」の問題も何ら祖母も疑問と感じてはおりませんでした。
私どもにとりましては「あたりまえ」の出来事なのです。

遺族の中でも、「特攻を認め、今から遡って二階級特進とし恩給を支払うべきだ」とこう意見される方がいると、父から聞きました。
これに酔漢は反論するつもりは全くありません。
ですが、これに呼応するつもりもありません。
理由は何度も申し上げております通りでございます。

「一度に四千人近くが死んで、正確に把握できなかったんでしょう。海軍の幹部は終戦を意識していましたから、その工作に忙しいこともあった。時間的、物理的に手が回らなかったんだと思います」(中略)一方、戸高(現大和ミュージアム館長)はこう推測する。「海軍は貧乏だったから、何千人も一度に特進させたら金が掛かり過ぎると思ったんでしょう。しかし、あの戦いを締めくくるに、国は今からでも二階級特進を認めるべきですよ」
(同著 197頁より抜粋)

理由としては「尤も」のような気がいたしますが、これが戸高館長の本音とは思えない酔漢です。
はたして、貧乏が理由になるのか、その裏付けがとれません。
呉に行った際に、聞いてみたい事項でございます。

先の「特攻戦没者慰霊平和祈念協会」は、第二艦隊戦死者名簿を「準特攻」として、名簿掲載しております。
当然、祖父の名もここに見ることが出来ます。
協会は「第二艦隊は事実上、特攻」と認め、名簿掲載を判断、しかしながら、「特攻の定義」とはいささか異なるという理由で「準特攻」といたしております。
再度、「特攻」に「準」はあり得ない。
本来の「特攻作戦」で戦死された御英霊に対して「申し訳ない」と、これが酔漢の心情なのです。

「第二艦隊は特攻をしていませんから」


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 遅くなりました・・・キーボ... | トップ | 3月11日のくだまき 親父殿与... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

大和を語る」カテゴリの最新記事