酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ある友人の手記 その十

2011-05-30 09:10:11 | 東日本大震災

 時間が限られているため、このように一日で何回も更新しております。

申し訳ございません。

今回に限りましてお許しくださいますよう。ご容赦願います。 

 

 人の小ささを知る事。

 自分の小ささを知る事。

 僕もそこまではなかなか悟れないけれど、時々はそれを噛みしめるといいように思う。

 常に前向きに可能性を求めてというポジティブ思考とやらもいいが、この震災は時には臆病な自分を見つめて、立ち止まってみるのも必要じゃないかと教えてくれている気がする。それは明日の科学進歩の可能性を信じて、安易に高レベル放射性廃棄物を増やしている現状を、もう一度考えてみるのと同じだと思う。またこれからの復興は、津波を制するのか、あるいは町を捨てるのか、それとも共存するのかを決めていく事ともつながっているとも思う。

 そしてその前に、現状を直視しなければならない。

 失ってしまったものを悼むのは今しかない。

 ここで祈らずに、復興などありはしない。

 瓦礫という名前になった生活の痕跡や、突然消えてしまった人たちの顔を思い、その胸に様々なつながりを刻み込まなければ、何も片付けられないし、どこへも行けない。そこから始まって、技術をつくした情報も経験から生まれた伝承も、新たなつながりのために語られるようになるといい。

 閑話休題。

 そう僕は小さな人間だ。被災地の隅にいる無力な人間だ。

 だから僕はとにかく妻と二人で生きる事を考えなければならない。

 僕は妻に手持ちの食糧について聞いてみた。最初はため込んだものを節約し、小出しにして約一週間分はあると言っていたが、レンジが使えるようになったので、多少は調理できる食材が増え、あとは量を調整して一日二食、他に菓子類で食いつなげば、もうしばらくは大丈夫だと答えた。

 二人だけの家庭だからいいが、人数が多いところは本当に食糧不足は切実な筈だ。そんな自宅被災者の実情は伝わらない。僕らはそういう人たちを間接的に手伝うため、開いている店があってもどうしても必要なもの以外は買わない事に決めた。もしかしたらほとんど意味のない事かも知れないが、やらないよりはましだ。

 昼過ぎくらいの事だった。僕は何気なく洗面所の水道のレバーを上げた。

 期待していたわけではないが、日々の習慣のようなものだ。復旧の情報はまったく入っていなかったので、とりあえず試してみただけだった。

 しかし水が出た。

 僕はすぐに妻にそう告げて、とりあえずバスタブに水をためた。

 知人からのメールでは、一時的に出たがまもなく止まったという話も聞いていた。水道局の水漏れテストなのか、あるいは不便を考えてあえて短時間供給したのかは分からない。今後、継続的に出るかどうかが分からないので、生活用だけは確保しておこうと思った。新聞よれば市ガスは施設が津波で壊滅し、一ヶ月以上も見通しがたたない。どうせバスタブはしばらく役に立たないのだ。

 ひとまず一時的であれ水が出た事は、またひとつ歓びだった。たとえ再び止まったとしても、確実に復旧に向かっている感じがしたし、衛生状態が一変する。

 その後、夕方になっても水が止まる様子はない。メールで市内の人たちの様子を聞くと、まだ水道は復旧していないところの方が圧倒的に多い。たまたま仙台市水道局の近くだったせいで復旧が早かったのかも知れない。結局は幸運な事に、この日からずっと水は止まらなかった。

 ある程度の水があるので、頭を洗う事にしたが、汚れすぎていて泡も立たない。狭い洗面台で少ないお湯(レンジで沸かすだけでは量の確保が難しい)で洗うのは腰も痛くなるしひと苦労だ。まだ雪がちらつく時期だけに、さすがに水だけでは寒くて無理だから、ある程度、量が沸かせる電気ポットがあればと便利なのにと思う。それでも久しぶりに最高の贅沢をした気分だった。

 髪をかわかしながら、音声だけのテレビをつけると、原発騒動のパニックは更に大きくなっている。

 放射能が怖くて西日本や海外に逃げる人も出てきているという。外国人の多くが日本から逃げ出した事について、脳トレで有名な東北大の川島隆太教授が地元紙に皮肉を書いていた。逃げるなら飛行機に乗って受ける放射線量の方が多くなるから、船で脱出したらいいと。それはともかく誰がどこに行こうがそれはその人の自由だ。でもどこまで逃げれば安全だという根拠はどこにあるのだろう?チェルノブイリ事故の時は八千キロ離れた日本でも微量だが放射能が検出されている。風評被害も出てきているらしいが、微量で安全と言われた福島県産を避け、まったく線量の測られていない他県産を選んで食べれば安全というのは、実に奇妙な論理だ。それは姿を変えた新たな安全神話に思える。

 それにしても日本は唯一の被爆国だし、第五福竜丸の事件もあった。原発関連事故ももんじゅのケースや東海村の事故も経験している。世界ではウインスゲールやTMI、チェルノブイリも経験値として蓄積されている。放射能汚染についての知識はそこそこ溢れている国だと思っていたが、ニュースに関わる人たちでも、それほど知識はないらしいのに驚いてしまう。せめて事故発生後すぐに本屋に駆け込めば、今頃、基本知識くらいは分かっていてもいい筈だ。それもその人たちが被災者にできる何かであるのに。

 専門家とやらもどこか無神経だ。心配ならシャワーを浴びろというが、東京よりも福島原発にはるかに近い被災地では、被害の少ない仙台内陸部でもようやく一部で水が出たばかりだ。他はほとんど水も出ない。ようやく水が出た僕らにしても髪を洗うのさえひと苦労だし、水のシャワーなど浴びたら最悪は心臓麻痺を起こしかねない水温だ。より原発に近い人には役に立たず、遠い人にだけ役立つ蘊蓄。まったく馬鹿馬鹿しい。

 ふと思うのだが、「恐い」と「怖い」では心理学的に意味が違う。英語にすれば前者はFEARであり、後者はANXIETYである。「恐い」は対象のあるもの、「怖い」は対象が明確ではないもの、つまり不安である。放射能について多くの人は「怖い」感情を抱いている。ところが科学者や専門家は「恐い」話をしている。結局はそのギャップがパニックの原因なのかもしれない。専門家にとって放射能は「恐い」ものだけど「怖い」ものではない。だからコントロールしてレントゲンなどに活用している。

 不要な「怖い」が蔓延していく事の方が、むしろ僕は「恐い」ように思える。それを利用して、反原発派は過剰に不安を煽り、原発推進派は胡散臭いほど安心を語っている。本当に困っている人たちを置き去りにして、これを機会に勢力を拡大しようという個々の思惑が先走っているようにしか見えない。いったいそれは誰のための議論なのかと聞いてみたくなる。きっとどちらも同じように答えるのだろう。それは「国民のため」だと。

 国民のためとか、多くの人のためという良識は、意外に危険な顔を持っている。

 ある有名な企業家が発言していた。福島原発事故の避難エリアは、アメリカの危機管理を参考に、五十キロ圏とか八十キロ圏とかもっと広い範囲を指定し、多くの人の安全をはかるべきだと。情報がまったくない時点での発言ならば仕方がない。しかしそれは震災から一週間を過ぎてから聞いたものだ。モニタリングの数値は出ていたし、それとは別に各地の大学や機関が調べたりしいて、少なくとも公表される数値については嘘ではないと分かっていた時点である。いろいろ解釈はあるにせよ、ただちにそこまでの範囲が危険だとは思えないし、TMI事故は世界で初めての深刻な原発事故であり、その影響も結果もまったく想像できない状況からの判断だったから広い退避距離になった。その後にチェルノブイリ事故なども検証されて、蓄積されたデータがあるのに、無闇に退避エリアを広げるのがいいとは思えない。もちろん退避エリアはあれでいいのかというのは多くの人が疑問を持っている。地形も風向きもまったく考慮されていないからだ。エリアの見直しや拡大する可能性も含め準備は絶対に必要である。だが単純に半径五十キロ圏を退避エリアにしたら、郡山市周辺やいわき市などがその圏内に入り、約九十万人の退避者が出る。ちなみにTMI事故の時は約二万三千人の避難者で済んでいる。要するに桁が違う。それだけの人数にいきなり出て行けとだけ言った所で、住民をどこが受け入れ、生活の保障を誰がどうするのか?約九十万人が途方にくれ、大混乱になるに決まっている。危機管理というのならば、そういった事も含めて危機管理であって、ただ逃げろというだけでは無意味だ。その企業家は人をただ移動できる物としか考えていないように思えてくる。現実的に考えれば、まずは具体的な「恐れ」の危険がある区域をすみやかに避難させ、それから万が一に対処するため、より拡大した時にすみやかに待避させるプランを決定し、準備しておく形しかない。

 問題はそういう影響力のある人の発言は、他人に先入観を抱かせる材料になるという事だ。五十キロ圏であっても危険という先入観は、間違いなく風評被害の範囲を広げる。それによって更に不信とパニックが深まってしまう。

 その人物はその責任を取れるのだろうか?

 事業では先見的と言われているその人物の論理だが、僕にはアメリカに見習えという古くて新しい安全神話との置き換えに思える。

 そのアメリカのアラスカを愛した写真家の星野道夫氏は「世界の広さというのは、そこに少し立ち止まって、人と話して、一人ひとりの暮らしを通してしか絶対に分かり得ない」と言っている。ネット上で福島原発から二次元の同心円を描いただけでは、それがどんなところにあり、阿武隈山地との位置関係や、その奥にも複雑に山地や山脈が連なり、それぞれの町がどういう町でどんな状況なのかなど分かりはしない。グーグルアースで見る世界からは、町の匂いも誰かの声も聞こえてはこない。自分が立ち止まった事のない世界を語るなら、せめてもの礼儀として、その地域へ向けての敬意くらいは見せて欲しい。

二百キロ先の放射性物質と、かつて東京を覆い尽くした光化学スモッグでは、どちらの方がより深刻なのだろう、と僕が口にすると、それを体験している妻は首をかしげた。僕らにはその答えが分からなかったけれど、確かなのは今の東京にはもう光化学スモッグはないという事だ。だからこそ人の知恵と努力をもう少し信じてもいいんじゃないかと思っている。それは僕が思う東京とそこに生きた人たちへのひとつの敬意だ。

 同じ音声だけしか聞こえないが、テレビからローカルラジオに切り替えた。原発から二百キロ離れた東京の全国放送は大騒ぎなのに、わずか百キロ離れただけの地方ラジオにはパニックなど見られない。今日も落ち着いて、生活情報と様々な音楽を流している。その合間に見知らぬ誰か津波から救った人や、最期まで誰かを救おうとして亡くなった人たちの生き様が伝えられる。

誰かのために。

 それを知るたび、言葉にならない。

原発の話題があってもそれは混乱した情報の垂れ流しではなく、そこに住む困難な人たちに向けた励ましのメッセージだ。前線ではない町の慌ただしさとパニック、前線にある町の静けさ。普通なら逆でいい気がする。少なくとも多くの東北に住む人たちは、起こった事を静かに受けとめている。

 今はまだ次の神話はいらない。

 

 震災から六日目となり、はじめて両親と電話で話す事ができた。

 電気はようやく復旧したが、水はまだ通じないため水汲みが大変だという。近所の若い人が手伝ってくれているそうで、本当にありがたい。僕が手伝いに行くにしても、ガソリンもないし、JR仙石線は壊滅的な被害だ。仙石線は仙台駅から宮城野区、多賀城市、塩釜市、東松島市、石巻市と、津波で深刻な被害を受けた地域を網羅した沿岸の路線である。全面復旧には相当な時間がかかるだろう。日に三万五千人を越える利用者数がある路線だけにその影響は大きい。内陸の東北本線もまったく復旧の見込みがたたない。津波が国道を横切り、途中の多賀城は六千台もの車が流されているそうだから、当然ながらバスも通っていない。仙台と東京間のバスは明日くらいに復旧するそうだが、三百キロ先には行けるのに、十五キロ先にはまだ行けない。

 家は高台にあるとはいえ、すぐ真下の区域まで津波がきたのだそうだ。様子を見に二、三十メートル歩いて行ってたら、間違いなくのまれてしまっていただろう。海岸エリアはとにかくひどい状況だという。もともと僕が育ったところは津波が来たまっただ中にある。そこは父親が勤めていた親戚(父の兄が婿に入った家だ)が経営する工場の土地で、すでに亡くなった先代に、永年勤続の功労としていずれ土地をやると言われてそこに家を建てた。ところが不景気で工場が傾き、その土地を別に売るからと立ち退くように迫られた。約束が違うと言っても仕方なく、そこから色々な経緯があって、今の場所に引っ越した。妙なものでその親戚の工場は二メートル近い浸水にあったとの話で、隣にあった昔住んでいた場所も津波の中だ。もしそこに住み続けていたら、木造平屋だったから両親は大変な目にあっていただろう。

 今の家にもいろいろ因縁があって、引っ越すきっかけは嘘のようだが僕の正夢によるものだ。まさにその家に引っ越す夢を見た後、新聞の広告で売り家を見つけ、広告主に場所を確認したら夢で見たまさにその家だった。すでに見学予定者が数名いたのだが、母親の許可をもらって強引に不動産屋を口説き、一番目の見学者としてねじ込んだ。すると住んでいた人は、僕らが台所も風呂もトイレもないぼろぼろの長屋に住んでいた時に隣に暮らしていた人で、そんな奇縁が重なって、スムーズにそちらへ引っ越す事が決まった。立ち退きでもめた時には、家族の皆がいろいろと気苦労をしたが、結果としてはそれさえ運が良かったのかも知れないと思う。

ちょっとした縁や運が、時には大きな境目になる。失ったものも残されたものも、ほんの少しの違いに過ぎない。

 親戚といえば、津波の被害があった地域では、他にも宮城県内ならば七ヶ浜町、東松島市、青森県の八戸市にもいる。まだ安否は分からない。

 八戸市は随分と仕事で行った。バードウォッチング好きの僕はウミネコの繁殖地として有名な蕪島にも出かけたが、車の中で餌を出すとウミネコはフロントガラスを割ってしまうような勢いでつつき出す。ヒッチコックの「鳥」という映画のようでなかなか恐い。更に大量の糞のおかげで、後の掃除が大変だった。

 昼過ぎにテレビをつけてみると、いつの間にかきれいに映っている。どうやらマンションの管理会社がいち早くアンテナを修理してくれたらしい。更には止まっていたネット環境も回復した。まだ油断のならない余震が続く中の作業だけに、もっと時間がかかると思っていた。

それにしてもなかなか注目はされないが、そういう様々な会社の頑張りも有り難かった。飲料水が厳しい中、通電した地域では止まっていた自動販売機が動きだし、ベンディング会社が倉庫にある在庫分で何とか補充しているのを見かけたりする。店は閉まっているか、開いていてもたいして物はないから、飲み物確保のために自動販売機があるのは助かる。店は店舗の安全と店員が必要だけれど、自動販売機は電源だけでいい。いずれにせよ政府の顔は相変わらず見えないが、民間の会社はガソリン確保もままならない中で踏ん張っている。


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