酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 大和三 

2010-07-21 11:10:13 | 大和を語る
激しい雷撃が続いております。大和は左舷を中心に雷撃を喰らっております。艦の傾斜が激しくなっておりました。
十三時三十七分に立て続けに左舷に三本の魚雷が命中。
十三時四十四分までにさらに左舷に三本。右舷に一本の命中を記録しております。
(多くの証言が入り組んでおりますが米軍記録による雷撃被弾の数値です)
「皆頑張れ!皆頑張れ!」
有賀幸作艦長は防空指揮所から声をからして叫んでおります。
「総員、がんばれ」
能村次郎副長も同様に声をからしております。
この時間、大和は第三波攻撃としております。米軍では、「第二次第一波」と出撃記録に記載されております。

高角砲指揮官臼淵大尉、直撃弾にあい、一滴の血も残さず飛び散る。左舷の高角砲機銃はほとんど破壊。指揮官戦死の報あとを断たず、大部分の配員が死傷した。
ときに、左舷傾斜十五度。速力はいぜん十八ノット。
十三時五十分。左舷中央部下甲板の注排水指揮所で、注水を督励していた防御指揮官林紫朗中佐から電話で、「タンクの注水限度に達したので、これ以上、傾斜をおさえるには、右舷の機械室、罐室に注水するよりほかはない」との進言。
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)

左舷に魚雷が命中し、艦が傾斜したため、反対側の注水して傾斜を復原させた。このような操作を何回もくりかえしたため、吃水がさがってほとんど上甲板の線へ一メートルくらいとなっていると感じた。
(細田久一 高角砲発令所長 証言手記より抜粋)

「総員傾斜復旧急げ」艦長からの催促です。今一度ご説明いたしますが、艦長が傾斜の復旧にやっきになっておりますのは、大和の火器が傾斜により使用不能となるからです。この時点で高角砲の射撃も出来なくなっております。
「総員、傾斜の復原に努めよ」
副長はある決断を迫られております。

傾斜を直すことはもちろん大切であるが、健在の機械室、罐室に注水することは、推進力の半ばを、即座に喪失する非常手段である。当面の危険を防ぐ為に直ちに注水するか、傾斜をしばらく放置して推進力を保有するか、前途なお遠く、沖縄到達は推進力いかんにかかっている。思い余ってとっさには許可の指令を出しかねた。
(能村次郎 副長手記より抜粋)

「副長、傾斜の復旧を急げ!」
艦長から再度の催促です。

私は意を決して、注排水指揮所へ「右舷機械室注水」ついで「右舷罐室注水」を発令す。
各室に非常緊急退避のブザーが、連続的に鳴り響いた。数十人の在室員は傾斜して歩きにくい床を走って手近の階段へ飛びつく。と同時に、壁の最下部、床に接して配してある注水孔から海水が怒涛のごとく機械室、罐室に奔入した。
注水した罐室、機械室は、注水速度から考えて四、五分で満水したと思われる。
(能村次郎 副長手記より抜粋)

これが、議論の的になっております。
初版の「慟哭の海 戦艦大和死闘の記録 能村次郎著 読売新聞社 九十六頁」にその事が書かれております。大和会でも、「何人か相当数の人数が無傷のまま溺死した」と語っておられる方もおられます。機関員、応急員の方が亡くなられております。吃水線下に配置された方の生還者数が非常に少ないのも事実でございます。はたして、もう少し「慟哭の海」を見てみます。

機械室で、いちばん出口に遠い持ち場の者が、機械の横をすり抜け、下をくぐり抜けて出口にたどりつき、中甲板に出るまでに三分。罐室は比較的退避しやすいが出入り口がせまいうえ一箇所しかないので、やはり最後の兵が退避するまで三分ぐらいかかったであろう。しかし、機械室、罐室勤務員には負傷者もなかったから、いずれにしても各室が満水する前に在室員全員が退避できたはずである。
(能村次郎著「慟哭の海」九十六頁より抜粋)

この時点では副長は、「全員退避」を確信した発言をされておられます。
しかし、昭和四十ニ年読売新聞掲載「昭和史の天皇」ではこう証言されておられます。

ついに意を決して注排水指揮所へ「右舷機械室注水。右舷罐室注水」と発令す(機械室、罐室は十二区画に分かれていた)。在室員に退去警報を出した後の処置であることはもちろんである。しかし、全員が退避し得たかどうか不明だ。
(読売新聞 昭和史の天皇「戦艦大和の最期」角川文庫 三百三十五頁より抜粋)

以前、「慟哭の海」と「昭和史の天皇」との比較で「暗号解読」「翻訳」のお話をさせていただきました。
ここでも、「能村証言、手記」の違いが出てまいります。
昭和五十ニ年大和会懇親会に父は出席いたしております。その際にもこの事が議論されたと聞きました。父からは「多くの生還された方が『ハッチを閉められて、脱出できなかった多くの機関員がいた』と話されていた」と、聞きました。
一説には「約三百人もの命がこの行為でなくなった」との話もございます。
はたして実際はどうであったのか。
話をされるべきの方がみな戦死されております事実に行き着くだけなのでした。
しかしながら、大和は一時的ではありますが、傾斜が復旧いたします。が、速力は八ノット。気の利いた貨物船より遅い速力となっているのです。そして、最早、内地へ寄港できることもほぼ不可能になっております。
敵の空襲は、まだ激しいままです。

「じょうだんじゃねぇぇ。俺はぜったいに攻撃に参加してヤル!」独り言です。
ヨークタウン所属、愛機は数々の戦線をともに戦ったヘルダイバー。
「だれが、ポンコツだって!俺様の機はまだ現役バリバリなんだ」
そう言っておりますのはハーバード・フーク少佐です。
ですが・・・飛行中の今。彼の台詞が変わっております。
「このオンボロ飛行機め!エンジンがまた止まりやがった!二分おきに停止するエンジンなんて聞いたことのねぇ」
「少佐。引き返した方がいいのでは・・」
「バカヤロー!ここまで来て引き返せるかよ!こうして燃料を送り込んでだな・・・」
かれは、非常用の手動ポンプを使って胴体タンクの燃料から給油しながら飛行しているのでした。まったく、根性と申しますか、何と申しましょうか・・。
「クッソ!デカイ奴までは行けそうにもない」
と、海面を見ますと、一隻のクルーザーが停止したまま戦闘を続けているのが見えました。
「判ったゾ!獲物は奴だ!おれが仕留める!ついて来るやつぁ、ついて来い!」
彼は、近くの飛行機に手当たり次第声をかけます。
「しめしめ、調整官の奴等。天候の報告ばかりしてやがる。やるんなら今のうちだ!」
臨時の小隊を作ってしまいました。
ほとんどが編隊(部隊)からはぐれたパイロット達でした。
アベンジャー。ヘルキャット。ヘルダイバー。が数機。
「よし!行くぞ!」
「だれだ、あそこで指揮なんか執っているやつぁ?また?フークの奴か!もう好きにさせておけ!」
調整官の質問に対してW・ローウィー少佐はこう答えるしかなかったのでした。

急造の混成部隊が「矢矧」に襲い掛かろうとしております。
矢矧今だ奮戦中です。

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7 コメント

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感じたことあれこれ (丹治)
2010-07-21 18:26:04
機関、通信、砲術でも発令所や弾庫員など、デッキでない戦闘配置の乗員は、
「総員上甲板」(つまりは「総員退去」)の命令が出ても
実際には脱出する時間的余裕がないことがほとんどです。
任務に忠実であればあるほど生還率が低くなる。
何とも痛ましい限りです。

これが兵学校と機関学校の将校生徒教育にも現れていたということが、
阿川弘之さんの『井上成美』に書かれています。
機関科の配置は生還が望めぬ配置が多いので、
「従容として死に就け」ということが強調されていたとか。
一方の兵学校では「任務に忠実であれ」ということが強調され、
「死はその結果として受入れよ」という姿勢だったようです。

とことで今回のアメリカさんの描写、正に
米国版『兵隊やくざ』ですね!
なぜか映画の『戦略大作戦』を思い出してしまいました。

クロンシュタットさんへ

応援有難うございます。
今年は「俺の夏はまだ終っていません」。
「まだまだ夏は続きます」。

同期の団長が逝去されたのですか。
残念なことです。心より御悔み申し上げます。
私の高校の同期からも、いつの間にか複数の物故者が出てしまいました。

自分が知っている人の不幸は、
やはり身を切られるよりも辛いことです。
これは先輩、同期、後輩を問いません。

私も早くに親父を亡くしていますが、
クロンシュタットさんの御両親が御健在なことは
何よりのことだと思います。
御両親の長寿と御健康を御祈りしております。
返信する
機関室への注水 (ひー)
2010-07-21 20:41:35
なんか自ら首を絞めているかのようですね。

傾斜していても進行できる状態なら、全員脱出の確認を取ってからでも十分だったのでは?
と思ってしまいますね。混乱状態の中での指令指示はあまりにも多すぎたのでしょうか?
戦争という異常事態に人の命は石ころ同然に扱われ、戦艦に突っ込んで帰って来るな! と命令された青年は「天皇陛下万歳」と叫び…いやマインドコントロールされていたのかも知れません。
本当はお母さんが恋しかったに違いありません。
石ころを投げたのは誰なのでしょう?
東條でしょうか?
戦争は始まる前から、勝てっこない!と知っていた人物は沢山いたはずです。
その者達の声を耳にせず石ころを投げたトップは井の中の蛙だったのです。

まぁ、そのおかげで日本が発展したのも事実ですが、アメリカの不沈空母になったのも事実です。
この言葉で中曽根さんは叩かれましたけどね。

すっかり外してしまいました、すみません。
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故郷の皆様36度越えを体験してみませんか? (クロンシュタット)
2010-07-22 05:38:55
傾斜15度の状態での18ノット。驚嘆いたします。
実感としては転覆してしまいそうな感覚の傾斜角度であったことでしょう。
そうして、この時点でのさらなる機械室、罐室への注水。
あえて人命や沖縄到達目標を捨ててでも、戦闘を、この瞬間の闘いを続けたかったのではないでしょうか?
・・・いや、そういった「安全な位置」からの感想は、はばかられる時期となりつつあるようです。

以前書き込んだかもしれませんが、毎年この時期になると、必ず「原民喜」の作品を読み返します。

丹治さんへ

お気遣いありがとうございます。
考えてみれば、私の実家周辺は本来冷涼なはずの仙台よりもさらに数度は気温が低いのです。
老いた両親を東京での暮らしに迎えることは、この猛暑を思うに、危険なことなのかもしれません。




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丹治様へ (酔漢です)
2010-07-22 18:24:22
機関または工作に就かれた方々の生存者名簿を紐解きました。(2Fはございませんが)やはり非常に少ないことが判ります。
最後まで任務の忠実であったことを覗わせる数字です。
注水の事実ですが、やはり正確な情報がないのが本当の事なのでした。
生還者があまりにも少ない。
語り部がいないのです。
返信する
ひー様へ (酔漢です)
2010-07-22 18:28:35
大局を語ろうなどと思っておりませんでしたが、どうしてもその部分に触れなければいけないようになってしまいます。
これは、当初の主旨からは予想しなかった部分でした。複雑な心境です。
祖父が何故戦死しなければならなかったのか。
これが一つのテーマでした。
多くの視点から史実を整理しながら語ろうと思いましたが・・勉強不足ですね。
お言葉、ありがとうございます。
返信する
クロンシュタット様へ (酔漢です)
2010-07-22 18:33:31
こまっつぁきの実家には母が一人暮らしをしております。幸い元気です。が、やはり高齢な故、心配が絶えません。
事情多々あり、直ぐに塩竈へという訳には行かず、なんとも複雑な思いを抱きながら生活しております。
ご両親、ご健在は何より。
お父様のお顔を以前拝見しております故、何よりに感じております。
この夏は帰塩されるのでしょうか。
お知らせ下さいね。
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ホントは実家の場所もご存知では? (クロンシュタット)
2010-07-23 05:15:31
>お父様のお顔を以前拝見しております故

ん?

息子たちの夏休みの終盤にでも帰省する予定です。
長男は丸の内線での研修中。猛暑が厳しい後楽園等の「地上駅」は外れたそうで、親としてもほっとしております。
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