「潮高で進水作業を一時間とし、船底と盤木のすきが300mmあれば可能と判断して吃水線の予想を立てた。その予想でなお多少の余裕があるので、舷側甲板の一部や後部の飛行機格納庫の防御甲板、艦橋も浮上して、上部クレーンに支障のないところまで組立て、各部艤装も搭載できるものは搭載させ、進水後の工事を少なくするように努めた」(西島亮二証言 雑誌「丸」昭和35年4月号)
「ドックは深く掘り下げてはいるが、吃水は6m50cmを越えられない」
「重量は、そうすると排水量は4万トンにおさえるということになるな」
「やはり、設計通りの重量になっているか・・・もしそうでなかったとしたら」
「西島主任。大丈夫ですよ。重量は少しもオーバーしてません。設計の牧野さんもそう言っておられますし・・」
「あくまでも机上の話。実際はどうだか。やはりやってみなければ解らないこともあるんだ。実際『那智』は設計図より1000トンもオーバーしたんだから」
辻は西島の嘗ての苦労を思い起こすのでした。これだけ、重量に対して綿密に計算尽された艦を、辻は建造したことはありませんでした。それこそ、「考えられる全てを尽した」と自身ではそう思っているのです。ですが西島はそれでも「不安」を訴えております。
「進水のプレッシャーは嘗て経験したどの艦とも違う」
艦橋のブロック建造は順調に進んでおります。
「これが熔接でなかったら、いったいどれだけの重量になるのだろう」
辻は、考えることをやめました。
艦は、全てを搭載した時点で水平になるように設計されております。一號艦の場合、建造途中の現在では、タービンやボイラーなどはすでに積み込みを終わっております。その主機だけでも4500トンになります(補間的な機械等も含みます)これらは、中央部よりやや後部に詰まれております。ですから、前部に搭載される主砲、艦橋上部(1/4搭載で進水式を迎えます)は進水後の搭載です。ですから、後部に重量が偏った状態なのでした。
「排水量を4万トンに抑えて、しかも艦を水平状態にしなければドックからは浮上しないことになるな」
「重量統制班の計算によりますと、現在の状態で進水した場合、艦首の吃水はほぼ5mで問題ありませんが、艦尾の方が8mになると・・」
「艦尾がドックの底に閊える・・・か・・」
「その通りです」
「前部にバラストが必要であろうな」
「そうです。その水量ですが、3千トンで足りるかと考えます」
「何かを減らさなければ・・舷側甲板の取り付けはやはり無理だろうな」
実際、舷側甲板は進水後、ボンツーンでの艤装工事の際に取り付けられる運びとなっております。
「進水時艦底がキール盤木上300mm一時間離れるようになるまで、進水吃水はぎりぎり許せると考え、造船ドックで極力工事を進めて、若しも誤ったら進水不可能となり、せっかくの搭載したものも陸揚げし、進水吃水を減ずる工事を施工するも止む無しとの決心で工事を進めました」(西島証言)
重量班は事細かな重量記載を日々行っております。鋲の数量、鋼材などなど。見落としや計算のわずかな狂いでも、巨大な艦である為、集積すればかなりの量になるのでした。
「実際現場の状況は計算通りに重量が搭載されているとは限らず、特に工事用の諸器具や機会類は臨時に持ち込んでいるものも多く、それらの位置、配置、肝心な重量までは解るべくもなく、いちいち計算する事も不可能です。『それでは』と言いましても、これらの重量も、見積もれば100トン位にはなるだろうと考えました。この数値は馬鹿には出来ません」(呉海軍工廠 造船部長 庭田尚三 証言)
ギリギリの設計。そして建造過程。これまでの過程が答えとして出てくる。進水式はそんな場でもあったのでした。
「進水式は極めて簡素に。普通の軍艦の入出渠と見せるようにセヨ!」
造船部長、庭田は合点がいかない様子でした。
「日本が世界に誇る一號艦。徹底した秘密主義ではあったが、進水式はやはりそれらしくやりたいものであったが・・な」
「部長、やはり・・」
「せめて式台位は儲けたいし、出来れば薬玉を艦主の取り付けて・・鳩がぱぁぁっと出てくる様なものは出来ないか。そう考えていたんだが。そりゃ『軍艦マーチ』があれば最高に盛り上がるんだが」
「やはり、部長はこの艦に思い入れがおありのようですね」
「この艦が特別というわけじゃないんだ。やはり子が可愛くない親がいないのと同じ思いさ。この子の人生が順風漫歩であってもらいたい。その最初の祝い事だろ。晴れやかに送り出したいと思うのは親心ではないか」
そんな庭田を尋ねて呉鎮守府司令長官、日比野正治中将がやって参ります。
「庭田君、喜びたまへ。一號艦進水式にかの畏れ多き方がご臨席される運びとなるそうだ。宮内省から直々に書簡が届いた」
天皇陛下御臨席。となれば、特別「何事か!」となります。
「直に、こちら(海軍工廠)へいらっしゃるのでしょうか?」
「いや、そうではない。表向きは兵学校(江田島)卒業式御臨席が目的としてある。その帰りに工廠へお立ち寄りになる。ということだ。」
庭田は天皇陛下御臨席の喜びよりも、「これで、一號艦を普通の軍艦と同じように送り出すことができる」という喜びの方が大きかったのでした。
「薬玉だろ。鳩だろ。大軍艦旗、日章旗。うーーん軍楽隊は・・・無理かな。式台は、そう、俺が設計する!」
「進水式も余りに簡略に過ぎては不敬になるし、また一方、この前代未聞の大戦艦の誕生を秘密裡に行うことは、私達建造に従事した者の親心として誠に忍び難い気持ちも手伝って、せめては式場だけでも晴れやかにしようではないかと皆で相談いたしました」(庭田 手記)
庭田は一世一代の晴れ舞台とばかり、自ら社殿風の式場を設計いたしました。総檜造り。純白のカンパスを張りめぐらさせます。
ところが・・
「行幸の内定取りやめ」
再び鎮守府から連絡が入りました。
「名代として久邇宮朝融王大佐が御臨場になられる」
「関係者一同、その報を聞くなり、がっかりした様子であった」(同手記より)
進水式前五日。
「工事用の諸器具類、機械類は全て陸揚げせよ」
命令が出されます。
「おい、残りのナット。工具なんかも一個たりとも忘れるなよ!」各区画から班長の声が響きました。それこそ、そんな小さなものから足場、そしてクレーンなども一時撤去されました。これらは、進水式後再びセットされるものですが、「二度手間」よりも進水式が優先するのでした。艦内隅々まで徹底した掃除が行われます。これ丸二日かかっておりました。
「おい、いよいよ進水式だな」
「ああ、そうに違い無い」
進水式も秘匿中の秘匿。工員達には知らされていなかったのでした。ほんのわずかな物も重量を減ずるように命令されます。
ドック幅が43m。一號艦幅38.9m。片側の余裕は2m。ドックに水を入れて一度浮かせてからタグボートで曳いていくわけです。
8月6日。本番を想定した浮揚演習が行われました。
「西島主任。いよいよですね」
「ああ、でも、これで解る不備もあるんだ。まずは計算通りになっているかどうか。」
関係者一同。固唾をのんで見守っております。艦首には、もやい綱が数十本取り付けられております。艦内には漏水を検査する工員百名を残し、全員退艦。
「注水開始!」ドック内に声が響きました。
ドックに流れる水流の音だけが響きます。誰も其の様子をみたまま、じっとしております。
「水深。1m。2m・・・・4m・・・」
水面が吃水線に近づいております。
「潜水夫からの報告は・・・まだ・・か!」
吃水線に水面が達したとき。
「後部。浮上を確認!浮上を確認!」
一同、ほっとした表情。中には拍手する者も。
「主任。浮きました!計算通りです。艦首、艦尾吃水差60mmです」
「まだ!だ。もう一つ。課題が残っている」
西島は未だ険しい表情をしたままでした。
同時に行われた漏水検査の報告がまだです。西島が精魂込めた、残工事チェック。そして漏水の検査を徹底的にやらせた。その最終結果が今出ようとしているのでした。
約1100近くある区画を全て念入りに検査を終えるまでほぼ半日を要しました。
「漏水。個所。ゼロ!全く問題ありません。主任、水一滴たりとも床に落ちておりません!」
西島は、ほっと胸をなで降ろしました。今は横須賀へ帰った広幡の顔を思い出しておりました。
設計部室。牧野です。
「牧野主任。漏水検査合格です。そして浮上も。重量は計算通りでした」
「そうですか・・・」牧野は艤装図面の最終チェックをしながらその報を聞いていたのでした。
8月8日。いつもより早い出勤。午前五時。進水を知る者が工廠内に入って行きました。他の工員は通常通り午前七時の出勤。関係者しか知らない進水式日時でした。
午前6時。一號艦は再び浮上しております。そして最終検査を終えました。
艦首には紅白のもやい綱。そして薬玉が着いております。艦首下には庭田が作った式台が儲けられました。
七時半。式台には主だった顔ぶれが揃います。
呉工廠長、砂川兼雄中将。砲煩部長、菱川万三郎造船少将。造機部長、渋谷隆太郎造機部長。製鋼部長、宇留野四平技師。電気部長、山口信助少将。設計主任、牧野茂造船中佐。船殻主任、西島亮二造船中佐。そして誰しもが目を疑った人物が私服で式台右前列4人目へ・・・。
「おい!平賀中将じゃないか!」
「どうして、ここへ。一度も呉へは来た事がなかったはずじゃぁ」
「でも、おい軍服じゃないんだ。ということは、正式な参列者じゃないってことか」
「おれ、授業だけで勘弁だな」
平賀譲の登場に会場内はどよめいておりました。
「でもな、あんなやさしい平賀さんの顔。見た事がない・・な」
「お前もそう思ったか。実は俺もだ」
平賀にとっても、一號艦はやはり息子のように思える艦だったのかもしれません。
午前七時半。突然空襲警報が市内に響きます。
「どうした!」
関係者にも知らされておりません。実は陸戦隊が進水式秘匿のために打って出た作戦だったのです。市内は完全に無人と成ります。
午前八時。久邇宮朝融王大佐が船で到着。
玉座前に立ち、呉鎮守府司令長官、日比野が海軍大臣、吉田善吾の代理として「命名書」を読み上げました。
「命名書。軍艦大和。昭和十二年十一月四日其の工を起し、今や其の成るを告げ、茲に命名す。昭和十五年八月八日。海軍大臣吉田善吾」
命名書は砂川工廠長に手渡されます。工廠長から庭田造船部長に、そして進水主任、芳井一夫に進水命令が発令されました。
「進水、ようぅぅい!」
「纜索張り合せ」
「曳き方はじめ!」
「支綱切断!」
薬玉が割られ、七羽の鳩が飛ぶ。紙ふぶきが舞いました。
「大和」は毎秒30cmという早さで曳航されます。ドックを出るまで20分近くかかりました。
「おい、命名なんだった?」
「日比野長官、声小さいし、早口だったからな・・何て聞こえた?」
「俺『亜細亜』って・・・」
「どっかの機関車みたいだな・・すると二號艦は『東亜』か」
「大和も武蔵もいずれにもわずか三年余りの短い生涯であったことを思えば、本来華々しいはずの進水式が日陰者のような扱いをされたことを思うとき、やはり不運の艦だったかと。進水式の模様を思い浮かべるとき、感慨無量の念を禁じ難く、不覚の涙を浮かべてしまいます」
庭田は、戦後この話になると必ずこう申しております。
「八月八日、機密保持のため、華やかなるべき進水式もなく『大和』は寂しく進水した」(西島、証言。雑誌丸昭和35年4月号)
技術者らしい、西島はそれだけの証言です。
この証言から見ても、西島が戦後大和を多く語らなかったことを物語っていると思うのです。
戦艦大和。海上へ。浮上です。
「ドックは深く掘り下げてはいるが、吃水は6m50cmを越えられない」
「重量は、そうすると排水量は4万トンにおさえるということになるな」
「やはり、設計通りの重量になっているか・・・もしそうでなかったとしたら」
「西島主任。大丈夫ですよ。重量は少しもオーバーしてません。設計の牧野さんもそう言っておられますし・・」
「あくまでも机上の話。実際はどうだか。やはりやってみなければ解らないこともあるんだ。実際『那智』は設計図より1000トンもオーバーしたんだから」
辻は西島の嘗ての苦労を思い起こすのでした。これだけ、重量に対して綿密に計算尽された艦を、辻は建造したことはありませんでした。それこそ、「考えられる全てを尽した」と自身ではそう思っているのです。ですが西島はそれでも「不安」を訴えております。
「進水のプレッシャーは嘗て経験したどの艦とも違う」
艦橋のブロック建造は順調に進んでおります。
「これが熔接でなかったら、いったいどれだけの重量になるのだろう」
辻は、考えることをやめました。
艦は、全てを搭載した時点で水平になるように設計されております。一號艦の場合、建造途中の現在では、タービンやボイラーなどはすでに積み込みを終わっております。その主機だけでも4500トンになります(補間的な機械等も含みます)これらは、中央部よりやや後部に詰まれております。ですから、前部に搭載される主砲、艦橋上部(1/4搭載で進水式を迎えます)は進水後の搭載です。ですから、後部に重量が偏った状態なのでした。
「排水量を4万トンに抑えて、しかも艦を水平状態にしなければドックからは浮上しないことになるな」
「重量統制班の計算によりますと、現在の状態で進水した場合、艦首の吃水はほぼ5mで問題ありませんが、艦尾の方が8mになると・・」
「艦尾がドックの底に閊える・・・か・・」
「その通りです」
「前部にバラストが必要であろうな」
「そうです。その水量ですが、3千トンで足りるかと考えます」
「何かを減らさなければ・・舷側甲板の取り付けはやはり無理だろうな」
実際、舷側甲板は進水後、ボンツーンでの艤装工事の際に取り付けられる運びとなっております。
「進水時艦底がキール盤木上300mm一時間離れるようになるまで、進水吃水はぎりぎり許せると考え、造船ドックで極力工事を進めて、若しも誤ったら進水不可能となり、せっかくの搭載したものも陸揚げし、進水吃水を減ずる工事を施工するも止む無しとの決心で工事を進めました」(西島証言)
重量班は事細かな重量記載を日々行っております。鋲の数量、鋼材などなど。見落としや計算のわずかな狂いでも、巨大な艦である為、集積すればかなりの量になるのでした。
「実際現場の状況は計算通りに重量が搭載されているとは限らず、特に工事用の諸器具や機会類は臨時に持ち込んでいるものも多く、それらの位置、配置、肝心な重量までは解るべくもなく、いちいち計算する事も不可能です。『それでは』と言いましても、これらの重量も、見積もれば100トン位にはなるだろうと考えました。この数値は馬鹿には出来ません」(呉海軍工廠 造船部長 庭田尚三 証言)
ギリギリの設計。そして建造過程。これまでの過程が答えとして出てくる。進水式はそんな場でもあったのでした。
「進水式は極めて簡素に。普通の軍艦の入出渠と見せるようにセヨ!」
造船部長、庭田は合点がいかない様子でした。
「日本が世界に誇る一號艦。徹底した秘密主義ではあったが、進水式はやはりそれらしくやりたいものであったが・・な」
「部長、やはり・・」
「せめて式台位は儲けたいし、出来れば薬玉を艦主の取り付けて・・鳩がぱぁぁっと出てくる様なものは出来ないか。そう考えていたんだが。そりゃ『軍艦マーチ』があれば最高に盛り上がるんだが」
「やはり、部長はこの艦に思い入れがおありのようですね」
「この艦が特別というわけじゃないんだ。やはり子が可愛くない親がいないのと同じ思いさ。この子の人生が順風漫歩であってもらいたい。その最初の祝い事だろ。晴れやかに送り出したいと思うのは親心ではないか」
そんな庭田を尋ねて呉鎮守府司令長官、日比野正治中将がやって参ります。
「庭田君、喜びたまへ。一號艦進水式にかの畏れ多き方がご臨席される運びとなるそうだ。宮内省から直々に書簡が届いた」
天皇陛下御臨席。となれば、特別「何事か!」となります。
「直に、こちら(海軍工廠)へいらっしゃるのでしょうか?」
「いや、そうではない。表向きは兵学校(江田島)卒業式御臨席が目的としてある。その帰りに工廠へお立ち寄りになる。ということだ。」
庭田は天皇陛下御臨席の喜びよりも、「これで、一號艦を普通の軍艦と同じように送り出すことができる」という喜びの方が大きかったのでした。
「薬玉だろ。鳩だろ。大軍艦旗、日章旗。うーーん軍楽隊は・・・無理かな。式台は、そう、俺が設計する!」
「進水式も余りに簡略に過ぎては不敬になるし、また一方、この前代未聞の大戦艦の誕生を秘密裡に行うことは、私達建造に従事した者の親心として誠に忍び難い気持ちも手伝って、せめては式場だけでも晴れやかにしようではないかと皆で相談いたしました」(庭田 手記)
庭田は一世一代の晴れ舞台とばかり、自ら社殿風の式場を設計いたしました。総檜造り。純白のカンパスを張りめぐらさせます。
ところが・・
「行幸の内定取りやめ」
再び鎮守府から連絡が入りました。
「名代として久邇宮朝融王大佐が御臨場になられる」
「関係者一同、その報を聞くなり、がっかりした様子であった」(同手記より)
進水式前五日。
「工事用の諸器具類、機械類は全て陸揚げせよ」
命令が出されます。
「おい、残りのナット。工具なんかも一個たりとも忘れるなよ!」各区画から班長の声が響きました。それこそ、そんな小さなものから足場、そしてクレーンなども一時撤去されました。これらは、進水式後再びセットされるものですが、「二度手間」よりも進水式が優先するのでした。艦内隅々まで徹底した掃除が行われます。これ丸二日かかっておりました。
「おい、いよいよ進水式だな」
「ああ、そうに違い無い」
進水式も秘匿中の秘匿。工員達には知らされていなかったのでした。ほんのわずかな物も重量を減ずるように命令されます。
ドック幅が43m。一號艦幅38.9m。片側の余裕は2m。ドックに水を入れて一度浮かせてからタグボートで曳いていくわけです。
8月6日。本番を想定した浮揚演習が行われました。
「西島主任。いよいよですね」
「ああ、でも、これで解る不備もあるんだ。まずは計算通りになっているかどうか。」
関係者一同。固唾をのんで見守っております。艦首には、もやい綱が数十本取り付けられております。艦内には漏水を検査する工員百名を残し、全員退艦。
「注水開始!」ドック内に声が響きました。
ドックに流れる水流の音だけが響きます。誰も其の様子をみたまま、じっとしております。
「水深。1m。2m・・・・4m・・・」
水面が吃水線に近づいております。
「潜水夫からの報告は・・・まだ・・か!」
吃水線に水面が達したとき。
「後部。浮上を確認!浮上を確認!」
一同、ほっとした表情。中には拍手する者も。
「主任。浮きました!計算通りです。艦首、艦尾吃水差60mmです」
「まだ!だ。もう一つ。課題が残っている」
西島は未だ険しい表情をしたままでした。
同時に行われた漏水検査の報告がまだです。西島が精魂込めた、残工事チェック。そして漏水の検査を徹底的にやらせた。その最終結果が今出ようとしているのでした。
約1100近くある区画を全て念入りに検査を終えるまでほぼ半日を要しました。
「漏水。個所。ゼロ!全く問題ありません。主任、水一滴たりとも床に落ちておりません!」
西島は、ほっと胸をなで降ろしました。今は横須賀へ帰った広幡の顔を思い出しておりました。
設計部室。牧野です。
「牧野主任。漏水検査合格です。そして浮上も。重量は計算通りでした」
「そうですか・・・」牧野は艤装図面の最終チェックをしながらその報を聞いていたのでした。
8月8日。いつもより早い出勤。午前五時。進水を知る者が工廠内に入って行きました。他の工員は通常通り午前七時の出勤。関係者しか知らない進水式日時でした。
午前6時。一號艦は再び浮上しております。そして最終検査を終えました。
艦首には紅白のもやい綱。そして薬玉が着いております。艦首下には庭田が作った式台が儲けられました。
七時半。式台には主だった顔ぶれが揃います。
呉工廠長、砂川兼雄中将。砲煩部長、菱川万三郎造船少将。造機部長、渋谷隆太郎造機部長。製鋼部長、宇留野四平技師。電気部長、山口信助少将。設計主任、牧野茂造船中佐。船殻主任、西島亮二造船中佐。そして誰しもが目を疑った人物が私服で式台右前列4人目へ・・・。
「おい!平賀中将じゃないか!」
「どうして、ここへ。一度も呉へは来た事がなかったはずじゃぁ」
「でも、おい軍服じゃないんだ。ということは、正式な参列者じゃないってことか」
「おれ、授業だけで勘弁だな」
平賀譲の登場に会場内はどよめいておりました。
「でもな、あんなやさしい平賀さんの顔。見た事がない・・な」
「お前もそう思ったか。実は俺もだ」
平賀にとっても、一號艦はやはり息子のように思える艦だったのかもしれません。
午前七時半。突然空襲警報が市内に響きます。
「どうした!」
関係者にも知らされておりません。実は陸戦隊が進水式秘匿のために打って出た作戦だったのです。市内は完全に無人と成ります。
午前八時。久邇宮朝融王大佐が船で到着。
玉座前に立ち、呉鎮守府司令長官、日比野が海軍大臣、吉田善吾の代理として「命名書」を読み上げました。
「命名書。軍艦大和。昭和十二年十一月四日其の工を起し、今や其の成るを告げ、茲に命名す。昭和十五年八月八日。海軍大臣吉田善吾」
命名書は砂川工廠長に手渡されます。工廠長から庭田造船部長に、そして進水主任、芳井一夫に進水命令が発令されました。
「進水、ようぅぅい!」
「纜索張り合せ」
「曳き方はじめ!」
「支綱切断!」
薬玉が割られ、七羽の鳩が飛ぶ。紙ふぶきが舞いました。
「大和」は毎秒30cmという早さで曳航されます。ドックを出るまで20分近くかかりました。
「おい、命名なんだった?」
「日比野長官、声小さいし、早口だったからな・・何て聞こえた?」
「俺『亜細亜』って・・・」
「どっかの機関車みたいだな・・すると二號艦は『東亜』か」
「大和も武蔵もいずれにもわずか三年余りの短い生涯であったことを思えば、本来華々しいはずの進水式が日陰者のような扱いをされたことを思うとき、やはり不運の艦だったかと。進水式の模様を思い浮かべるとき、感慨無量の念を禁じ難く、不覚の涙を浮かべてしまいます」
庭田は、戦後この話になると必ずこう申しております。
「八月八日、機密保持のため、華やかなるべき進水式もなく『大和』は寂しく進水した」(西島、証言。雑誌丸昭和35年4月号)
技術者らしい、西島はそれだけの証言です。
この証言から見ても、西島が戦後大和を多く語らなかったことを物語っていると思うのです。
戦艦大和。海上へ。浮上です。
大和と命名され進水式が行われました。この艦のその後の運命を思いますとき、庭田造船部長の証言がそれを暗示しているように思えてなりません。本来ならば「球状船首」(これは、最新技術を駆使した熔接とブロック建造の最たるものなのです)であるとか主砲の話であるとかを語るのが一般的であろうと思うのです。ですが、この部分は、かなり語られております。そして、艦の主要構造であるとか、戦闘能力につきましては「坊の岬沖海戦」を語ります際にお話しようかと考えております。
大和は兵器です。これを忘れてはいけないと思うのです。兵器である以上、戦争を想定として建造されたことは史実でございます。
今後、戦闘が舞台となる話が始まりますが、その三千名近い乗組員(司令部を含みます)がそれぞれの役割の中で戦争へと向う様子を語らなければ成りません。いよいよ語り始めますと成りますと、思いが複雑になってまいります。
もう少し、技術的な話は続きますが、西島が「B-29」の破壊された部品を手に取るシーンが出てまいります。その時彼は「技術的に日本は相当遅れている」と実感します。牧野は、その回顧録で「どんな空襲に遭遇してもそれを想定して設計していれば大和も武蔵も沈まずに済んだ」と申しております。これを史実として語ろうと考えてもおります。
「くだまき」最長編となった今回の話。
お付き合いくださいまして本当に感謝いたします。「戦艦大和が戦後の技術を支えてきた」「その技術が戦後経済を発展させて来た」事実かも知れません。阿川弘之氏もそう申しております。が、「そうではない」「そうではなかった」と考える酔漢もいるのでした。
1)開戦時、米国による軍用機部品の規格統一
撃墜したB29の違う固体同士の翼と胴体をつなぎ合わせたら、ピタリと一致したとか。
同じ零戦でも三菱タイプと中島タイプでは微妙に癖が違ったし、固体ごとにネジの直径が違うこともあったそうですね。
2)弾頭に搭載した小型レーダー
いわゆるVT信管ですが、「マジックヒューズ」と称して同盟国のイギリスにも秘密にしていたそうです。
多数の砲弾に搭載するわけですから、小型で量産が利かなくてはなりません。
また高速で回転する砲弾に搭載するわけですから、とんでもない遠心力に耐えるほど頑丈でなくてはなりません。
当時の日本で、レーダーに使用する真空管を民間の下請工場に作らせると、ものの役に立つのは百個のうち一つか二つだったそうです。
確かに戦前の日本にも、アメリカより優れている分野はありました。
戦後に接収された長門を調査した米国海軍ですが、水圧による主砲砲身の俯仰装置には驚いたそうです。
しかし上の事例を見る限り、基礎工業力と量産体制の確立という面では、二歩も三歩も遅れていたことを認めぬわけにはゆきません。
またこんな話もあります。
オランダ坂を持つ護衛艦に搭載した射撃式装置は、確か米国製でしたね。
これを操作した海上自衛隊の士官が「これは狙いやすいし正確だ。太平洋戦争当時のプロペラ機なら全部落せる」と言ったそうです。
先人の苦労を馬鹿にするつもりは毛頭ありません。
しかし事実は事実として謙虚に受け入れることは必要です。
これがないと、世の中は発展しません。
たとえば大和型や翔鶴型に取り付けられたバルバスバウは、今日ではそこそこの大きさの漁船でも持っています。
初代新幹線の団子っ鼻の原型は、銀河の機種です。
新幹線の試験走行段階で、高速運転時に生じる振動の問題を解決したのは、急降下の試験飛行で試作段階の零戦が空中分解した原因を知っている旧海軍の航空技術者でした(御令息の部ログにも書きましたが)。
また自動給炭装置付の蒸気機関車で焚いていた石炭や、家庭用の豆炭の起源は、海軍の徳山燃料廠です。
海軍ではある時期から石炭を粉状にし、固めたものを焚いていました。
戦後の豆炭やら何やらは、旧海軍の機関科出身者が海軍の技術を生かしたものだとか。
戦争があろうがなかろうが、歴史はつながっています。
平時の技術が軍事転用されることもあれば、軍事的に開発された技術が平和目的に利用されることもあります。
「戦前戦中の軍事技術が戦後に生きている」
「戦前戦中の軍事技術が戦後の復興や経済発展に役立った」
これは誰しも否定することができないでしょう(短期間での経済復興は、戦前の工業力が一定の水準に達していたからこそ可能だったのですから)。
しかしそれを
「戦後の技術を支えてきた」
「戦後の経済を発展させた」
と言っては、
戦後の技術史ないしは経済史において、それ以外の要素を無視することになるのではないでしょうか。
何事もある一面だけを見てはいけない・・・
社会人として、研究者として、
常々自ら戒めたい所です。
すると、大和という艦の技術的・物理的なデータについてはかなりの数がヒットします。
その運命や生涯(といっていいのかどうか?)についてのサイトはさらにたくさんありました。
やはり戦艦大和は日本人の心の襞に深く響く存在なんだと思います。
もちろん、酔漢さんのような乗組員のご家族の心情は、また違ったものかも知れませんが…
ところで、おいらは戦争を肯定するつもりはありませんが、かといって、戦闘行為を全て否定するつもりもありません。
したがって、武器が自らの手の延長として身体をあずけ、彼我生死を分ける存在としての道具である限りに於いて、相手よりも勝れたものを準備しようとすることに異議はありません。
求められる機能を備えた勝れた道具には、美しさのうえに圧倒的な存在感が備わっており、20世紀前半までの二次元的軍事力イコール海軍力の時代における大和・武蔵の存在はその結晶であったと思います。
しかし同時代的に始まりつつあった三次元的軍事力の新時代が、二次元の最高傑作の威力を凌駕したことが大和の、ひいては当時における日本国の力の限界だったのだろうと思います。
とはいっても、群がり来る戦闘機や爆撃機も機銃掃射の弾幕の中に突入して来るのであって、命がけの戦闘であることに違いはありません。
後々の冷戦時代以降のように、スイッチを押せばどこか遠くの土地が焦土となり、そのことを翌日の国際ニュースで確認するようなICBMのごときものとは一線を画すものと思っています。
丹治さんは流石に工学的逸話をご存知ですね。
いよいよ海上浮上の大和ですね。
登場人物の緊張感も伝わってきました。
家電でも先端技術でも機器のすべては、技術の積み重ねですね。
軍事が技術を伸ばすことも大いにありますね。
国家予算で研究費が補えるという現実もあるでしょうが、やはり他国より先進技術を持っていることが抑止力や勝利への近道なのかも知れませんね。
現在のナビやgoogleマップのように民間に提供して役に立つ技術もありますしね。
いよいよ大和の活躍・・・
楽しみにしております。
「兵器」という存在への皆様の思いはさまざまです。
もう時効でしょう。
某駐屯地を始め陸自の第六師団は山形県神町を主な演習地としていました。
神町から駐屯地までの夜間行軍で締めくくりというパターンもありました。
もちろん実戦と同じ装備での行軍です。それはそれは厳しいものでした。
ある年、某駐屯地へやっとこさ帰り着いた隊員たちに対し非常呼集がかかり、関山峠を中心にした「山狩り」指令が発令されました。
いわゆる新兵(二士)が小銃を携行したまま行方不明となったのです。
実弾は配っていなかったのですが、極秘かつ大規模な捜索活動でした。
マスコミにばれたら連隊長・師団長・さらにその上までのクラスの首が飛びかねません。
二日後発見された新兵は、直属の上官である親父(いつも新兵訓練担当ばっかしでした)にこう報告しました。
「恋人に銃を見せに行ってました!」
すみません。「大和」に比べて、あまりにお粗末なお話でした。
帝国陸軍では38式歩兵銃は、兵士の命よりもはるかに尊い存在でしたよね。
でも、今どきの自衛隊って、防大出以外の一般隊員の現実は、こんなモンです。あまりにも下世話な世界です。
嘆かわしいと感じるのか、いやいや、これで良いのだと判断するのか。
私は後者です。
また、事ある度に「大和を美談にしてはいけない」とのご意見も拝聴いたします。
どちらも事実なのです。
これは、自身の史観を今後詰めて整理したいと考えております。
しかしながら、その建造コンセプトは「相手に打撃を与える」ことはもちろん「中の人間をいかに生かすか」ということも主眼としております。戦艦は矛盾の構造を背負っております。
大和の主砲を大和に向って発射すればどうなるのか。その防御構想と攻撃構想は相反するものなのでしょう。
今後、戦闘を語ります。
重いテーマを選んでしまいました。
ですが、自身が語らなければ、誰も知らなかった事実をもお話することになるのです。
本当にありがとうございました。
ぐずら様へのコメントにも掲載しましたが、大和の戦闘を今後語ります。
そして昭和51年に開催されました遺族会の様子を交えながら「坊ノ岬沖海戦」を中心に祖父を語ってまいります。
以前ひー様がお取りになられました「青葉神社」の写真を使いたいと考えております。
よろしければご連絡いただければ幸いでございます。
さて、以前、祖父が第七水雷にいたときのお話をいたしました。「爆雷投下演習」と称しての「魚狩?」です。
まだ少しのんびりしていた時期の海軍です。
それをまた思い出しました。