酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ ウ556司令部発

2009-12-21 11:10:03 | 大和を語る
「呉局 ウ556司令部」という郵便証印の押された葉書は実家に数枚残されております。受け取り人は実際この郵便物が「大和から発信」であることは知る由もございませんでした。
写真は大和最後の艦長「有賀幸作」の遺書でございます。
仙台市内青葉神社境内にこの手紙は掲示されておりました。(写真提供 丹治道彦東北工業大学 準教授)
艦長のこの遺書は大和乗艦以前に書かれておりますので、大和からの発信ではないのですが、この文面をご紹介いたします。
 
 遺書
海軍中将 有賀幸作命

八紘一宇大東亜共栄の新秩序建設に宿望の司令として、然も帝国海軍最新鋭の駆逐艦を率いて外敵の撃滅に当たり得るは誠に無上の本懐なり。
元より生還を期せず。

武運目出克く任を全ふし、皇恩の万分の一にも報い奉るを得ば祝福あり度。

母上様
家運再興のため御老年にも拘らず永年に渡る御辛苦御努力、誠に感激の他なく
恩茲に至れば常に涙なき能はず 厚く御礼申し上ぐると共に生前至らざる事のみ多かりしを深く御詫申し上げます。
御健康と御幸福を奉祈ます
逆乍ら好子等住所に関しては其の希望を御容れ下さい。

妙子どの
遇する事の薄かりし拘らず仕ふる事の申分なかりしを深謝す常々申分ありて今更別に述る事なきも母上様への孝養と子供の養育を全ふさられ度
(中略)
正幸 良江 弘明 公子殿
兄弟相受平素の父の訓を守り心身の鍛錬に学業の成就に努め忠孝の道を全ふし皇国臣民の本分を果たすべし

昭和十六年十一月十五日認む
有賀幸作
(封書)「戦死の場合、開封、それ迄妙子保管のこと」

(一部、現代かな使い、漢字も同様といたしました)

昭和20年正月を迎えます。
以前の記事で大和は淡々として昭和20年を迎えていることを語りました。
昭和19年、第二艦隊司令部が大和乗艦を命ぜられております。
手紙のやり取りは家族との通信手段が限られていた当時においては、頻繁に行われていたと考えます。
伊藤司令長官も例外ではございません。

 謹啓
  無事着任致し、清澄なる海上の空気を吸って元気一杯、張り切っております。
 どうかご安心下され度く、純子さんが東京に見舞いに来てくれた時の、入院中の お父さんを忘れて、英姿颯爽たるところを、想像してもらいたいですな、呵呵
 本年も今日で暮れます。元気で仲良く幸福な正月を迎えられんことを祈上げます
 右御一報まで
 父より

 呉局 ウ556司令部

やはり、長官とは言え、家族のことが気になっておられるようでした。

さて、翌日。伊藤司令長官は元旦の陽が出るのを待って第一艦橋へ足を運びます。
すでに、有賀が未明から艦橋にいたのでした。
昇降機のドアが開き、敬礼。
「長官、お早いお着きで・・」
「艦長は?」
「まだ陽が明ける前からおりました」
有賀は笑って答えております。
山口参謀から電信室入電です。
有賀は能村から受け取った電文に目を通しました。それを伊藤に渡すのでした。
二艦隊司令部からの電文。真っ先に目を通すのが酔漢祖父の仕事です。
酔漢祖父→山口通信二艦隊参謀→森下参謀→能村副長→有賀大和艦長→伊藤司令長官。こういった流れなのです。祖父の段階で平文に訳されております。
全ての司令部電文は祖父が訳していたと推察しております。
伊藤司令長官はその電文を読み、目が鋭く光ったのを能村は見逃さなかったのでした。
「東京で空襲。大晦日未明」
「新年であるがな・・・」
「では、大和神社へ・・」
その場の空気を換えようとしたのか、有賀がこう言ったのでした。
参謀揃って参拝。
(大和艦内に設けられていた神社です)
昭和20年はこうして明けたのでした。

昭和20年3月までの事の顛末が「くだまき」の主題です。
これからの二ヶ月はじっくり語ります。
まずは、本主題「手紙」です。

「天一號作戦」が決行され4月5日です。再び伊藤長官の手紙です

  此の度は光栄ある任務を与えられ、勇躍出撃、必成を期し致死奮戦、皇恩の万 分の一に報いる覚悟に御座候
  此の期に臨み、顧みるとわれら二人の過去は幸福に満てるものにして、また私 は武人として重大なる覚悟をなさんとする時、親愛なるお前様に後事を託して 何ら憂いなきは、此の上もなきし合せと喪心より感謝致しおり候
  お前様は私の今の心境をよく御了解になるべく、私が最後まで喜んでいたと思
 われなば、お前様の余生の淋しさを幾分にてもやわらげることと存じ候
  心からお前様の幸福を祈りつつ
     四月五日
                             整一
  いとしき
  最愛のちとせどの

  呉局 ウ556司令部

 伊藤司令長官54歳、妻ちとせ43歳であった。

最期の手紙が何時奥様の手元に届いたのか、定かではございませんが、遺族会でのお話によりますと「4月の半ばではなかったか」と皆様、話されておられました。
主なき後の手紙の到着だったのでした。

 郵便物の締め切りは四月六日「ヒトマルマルマル」

御生存されました坪井さんです。頭髪と共にご両親に宛てましたお手紙です

 身はたとい 南海(みなみ)の果てに水漬くとも
 永遠(とわ)に護らん 産土(うぶすな)の祖国(くに)
                 平次二十二歳記
 呉局 ウ556司令部

やはり御生存者でいらっしゃいます正阿弥猛さんです。
ご自身でお書きになられました遺書でございます

 たらちねの 親に仕える すべも知らで
 南の海に 笑みて 散り行く
 お父さん お母さん お変わりありませんか。
 皆さんも、お元気でせうか。
 戦争も、ますます、熾烈になってきました。
 私の事は、もう亡きものとあきらめて、
 強く、生き抜いていって下さい。
 後々のこと、よろしくお願ひ、いたします。
 では、くれぐれも、御身、お大切に。
 さやうなら。

 呉局 ウ556司令部

果して、酔漢祖父です。
四月五日付けの手紙、葉書はございません。
通信室に缶詰だったのかもしれません。二次士官室、個室へも行かなかったのかも。
葉書はございます。
一部ご紹介いたします。

 先だっての俸給金の事、叔父より受け取りになられるやう要連絡いたし候
 (中略)
 お前様も軍人の妻であるならば、子供達のことを宜しくお願いいたし候。
 酔漢叔父君(長男)母に余計な心配事などさせぬよう、勉学にいそしむ事。
 酔漢叔母(長女)はまだ小さいのだから、心配です。

 呉局 ウ556司令部

この手紙での父とのやり取りです。
「親父、これだけか?」と酔漢。
「だれ、自分から手紙なんてめったに書かねぇ親父だったからっしゃ」
「親父の事、一言もない」
「俺と弟さぁ何もねぇべ。兄貴は長男だったし、酔漢叔母は、まだ小さいからっしゃ」
「これが最期の手紙?」
「あったかもしゃねぇけんどっしゃ。わかんねぇおんなや。でも、遺書みてぇな手紙はねかったのは確かだっちゃ」

戦争の状況が手に取るように解るポジションにいながら、平静であった酔漢祖父なのか、最期まで死ぬとか考えてなかったのか(覚悟はあったのでしょう)。
こと、「自ら命を落とす」とかは一言も言わなかったのは事実なのでした。

昭和52年の靖国神社での慰霊祭。
手紙、葉書を手にしました方が大勢いらっしゃいました。
何通か目を通しました。
胸に込み上げるものがあったのを覚えております。
酔漢14歳。
何も解らない中学生にも直接心に響くものがあったのです。

参考
有賀幸作艦長遺書 仙台青葉神社境内より
伊藤司令長官お手紙 星亮一 東北福祉大学先生 著書「伊藤整一」より
坪井平次様、正阿弥猛様お手紙 栗原俊雄氏著「戦艦大和 生還者たちの証言から」岩波新書より

皆様へ
本当に更新できずにおりました。三年間で初めてです。
今年もあとわずか。
仕事柄、今年中に更新できるか定かではございません。
皆様のご健勝をお祈りしつつ、来年も何卒よろしくお願い申し上げます。
大和と祖父の話が続きます。
では、よいお年をお迎えくださいますよう。

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6 コメント

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来年もよろしくお願いいたします (クロンシュタット)
2009-12-23 15:14:30
育ててくれた親への恩は当然至極です。
でも、「皇恩」は字面ではなんとかわかっても、心象として理解しがたいです。
あの時代に生きた人々は、心底本気で「皇恩」を感じていたのか、それとも修辞的な表現だったのか、今となってはいかんともしがたい疑問です。
大変失礼ながら部外者の推測ではありますが、もしかすると酔漢祖父様は、「わかっていらした」のではないでしょうか。
「皇恩」「死して・・・」「散りゆく・・・」などの言葉を発することの虚しさ、そして大和の、戦争の行方を、十分に「わかっていらした」・・・
任務に忠実であり続けること。
テクノクラートとしての意地にかけて。

転職してみて、12月28日の仕事納め後の帰宅途中の歩みの軽やかさを、初めて体験しました。
あと、クリスマスや大晦日や元旦を、転職して初めて家族で過ごせました。
酔漢さんには申し訳ない気持ちでいっぱいです。
くれぐれもお体を大切に。少しの時間であっても休養を取って下さい。


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表と裏 (ひー)
2009-12-23 22:15:09
手紙を拝すれば、帝国軍人としてのプライドと言うのか立場での文面で書かれています。
それは、軍人たるもの又は人の上に立つものとして当然のことでしょう。
しかし、内心は母を思い、また妻子、兄弟を案じ、手紙を書きながらボロボロ泣いていたのではないでしょうか?

残された家族を思えば、弱音も吐けず、しっかり生きろと励ます言葉と母への謝罪の言葉しかありませんね。

戦死…それは軍人としてあたり前だったのしょうか? 華々しく散る。

自分もその中にあれば、それが最善の道と選ぶでしょう。
返信する
クロンシュタット様へ (酔漢です )
2009-12-28 09:54:30
年内最後のお休み(本日)です。
やはり年末の喧騒の中で仕事をしております。
クロさん懐かしい?
祭りの如く事が進む13月(我々の隠語ですよね)数時間の出来事が数日のような時間経過。
師走とはよく申したものです。
おっしゃる通りだと考えております。祖父は技術屋だったのでした。
海軍という組織でもその任を最期まで行っておりました。手紙でも、話でも「特攻」とか「死」とかは全く触れておりません。
特攻という名の命令書を最初に受け取っております。その時、祖父は何を思ったのか。これを最後に書いていきたいと考えております。
来年も宜しくお願いいたします。
返信する
ひー様へ (酔漢です )
2009-12-28 09:59:24
もし、大和撃沈の直後まで祖父が存命であったと考えるならば、戦闘中であっても、「生きて帰る」と考えていたのではないかと考えております。「特攻」などとは最後まで思ってなかったのではないかと。
命令であればそれを忠実に実行するのが軍人ではあるのですが、自身の仕事が通信であれば、その任は死することではなかったはずです。
おそらく、薄暗い通信室で最後までレシーバーを放さずいたのではないかと考えております。
菓子箱が七ヶ浜へ届きます。
手紙は同封されてなかったと聞きました。
大和はすでにこの世にはなかったのでした。
返信する
あけましておめでとうございます (ぱるえ)
2010-01-01 01:09:36
2010年明けましたね!今年もよろしくお願いします。
暮れからずっとお忙しそうですが、無理をなさらないように・・・
返信する
ばるえ様へ (酔漢です)
2010-01-07 16:07:29
年賀状の返事より遅いコメント。申し訳ございませんでした。
本年も宜しくお願いいたします。
故郷の情報、写真。毎回楽しみです。
「浜のお話さぁきかせてけらいん」
です。
返信する

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