十二時ニ十分(頃)に攻撃を開始され、十二時四十七分まで。その間ニ十七分。三十分にもならない戦闘状況を語ってまいりました。サッカー前半の時間よりもはるかに短い時間だったのです。この第一次攻撃で受けた大和の被弾状況を整理してみます。
十二時四十一分。後部副砲射撃指揮所、後部電探室付近へ二百五十キロ通常弾四発。
この被弾により「臼淵磐大尉他が戦死されておられます」
十二時四十五分。雷撃を受けた大和は左舷に魚雷二本。
この雷撃により大和は傾斜復旧のため、右舷に注水し艦の傾斜を復旧させております。
第一次攻撃によって、直撃弾ニ発が後部檣楼ふきんに、命中した。これで後部主砲射撃指揮所、後部測的所、後部電探室、後部副砲射撃指揮所を破壊し、ふきんの高角砲、機銃にも多大の損害をあたえた。
魚雷は、左舷前部に一本うけたが、傾斜は軽微であった。
(坂本一郎上曹 測的手 証言より抜粋)
左舷後部から、腹をゆする震動が伝わって魚雷一本が命中した。続いて三本、こんどは同じ左舷中部から、魚雷の命中音が伝わってきた。ために艦は一時、左に五度近く傾いたが、注排水装置右舷タンクに注水して、傾斜は直ちに復旧した。
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
戦闘開始まもなく、後部艦橋の軍艦旗を掲げているところと副砲との間に、敵の二百五十キロ爆弾がつづけざまにニ発命中し、硝煙や血のついた鉄の破片などが雨のごとく降りかかってきた。
また、海面からは至近弾のため、海中よりドロ水のごとき水塊が舞い上がってきて、これを頭からかぶってしまい、まるでどぶねずみか、煙突掃除でもしたかのように身体ぜんたいがどす黒くなってしまった。
とにかく、この敵の第一波との戦いが、私にとっては初陣であったのだ。
(小林昌信上水 証言手記より抜粋)
被弾状況はその情報の伝わりかたで証言が違っております。この第一次(第一波)攻撃による被弾状況は「軍艦大和戦闘詳報」と米軍の記録が幾分異なっていることに気づきます。最初に語りました、「直撃弾四発。命中魚雷二本」(一本追加したのですが、詳細が不明)は「軍艦大和戦闘詳報」からのものです。
最初の攻撃で大和は約5度の傾斜をみます。しかし、先の副長手記にもございますように、大和には艦の傾斜を復旧させるシステムがございます。
「注排水装置」がこれです。ここで少しご紹介いたします。
浸水により艦が傾斜した場合、大和の主砲が使えなくなる。このため艦の傾斜を復旧させる装置として「注排水装置」が考案された。
浸水で艦が一方に傾斜したとき反対側のタンクに同量の海水を注入して傾斜を急速に復旧させるのである。防御指揮室(戦闘中は副長のポジション)より注排水指揮所に伝えられ、管制盤の操作一つで稼働する仕組みになっている。(中略)艦首、艦尾および防御甲板以上の非防御部全部が被害をうけて、非水防となってもなお傾斜約ニ○度(実数値十八・三度)までは復元力を用いることを確かめた。(過去記事「大和を生みし者達」に登場いたしました。福田啓二 一號艦計画主任 手記より抜粋)
今後、大和は懸命な傾斜復旧作業をいたします。この注排水装置のお蔭で、レイテでの武蔵があそこまで堪えられたのだと考えます。
「艦を水平に保つ」ことは大和に取りましては生命線であったのです。これは艦速が鈍くなり敵の空襲をかわしきれないリスクよりも優先すべき手段だったのでした。今は第一次攻撃を語っておりますが、今後の空襲においてもその事が最優先させるべく作業を推し進めていくのでした。
今一度、大和の中での被弾状況を能村副長手記から見てみます。
魚雷は、左舷に三本、後部に一本(アメリカ記録では、左舷二本となっております。証言に違いが生じておりますが、後に記載します)、爆弾の被害は後部電探室大破のほか、五、六発(アメリカ記録では後部ニ発)命中弾により、高角砲、機銃を集中装置してある左舷中部甲板が相当の惨状を呈していた。第四群機銃指揮搭は影も形もない。第十四番三連装機銃は側面に血痕をとどめるだけで、総員姿を消した。浸水に対する注水で、喫水が深くなったのと、外鈑の曲がりで、艦速が重くなり十八ノットに低下していた。
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
上記、能村副長は第一次攻撃による被弾状況をこのように証言されておられます。しかしながら、米軍記録、そして他の生還者の方の証言は異なっております。これを見てみます。
魚雷は左舷に三本も命中を確認した。(第二艦隊宮本砲術参謀証言→米海軍技術報告書第Sー01-3より「原勝洋」氏レポートより抜粋)
魚雷は「左舷に二本の命中」と報告を受けた。(最下甲板十五区付近、左舷外側機械室付近。最下甲板十二区、第八罐室付近)→(第二艦隊森下参謀長証言)
魚雷は最初の二本は確実。三本目があったとしたら、後方の方だったと考えるが、確認していない(清水副砲長証言より)
戦闘中であり情報が混乱していることは事実ではございますが、この第一次攻撃はまだ整理がつくのです。その第一次攻撃が終了します。十二時五十八分の事でした。
戦闘の合間を利用して、傷者の運搬、死体の収容、故障へ行きの応急修理を手分けして行う。中甲板の戦時治療室は、重傷者でたちまち一杯になった。手のない者、足のない者、両足を失ってなお元気な者等々。治療室の床は血の海。死体は各浴室に収容、血生臭いに補遺室内に充満。甲板に散乱する肉片、だれのものか、からだのどの部分かわからない肉片は海中に投棄した。(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
副長の下で、私は甲板士官とともに内務関係の係となり、巡検の際は副長(能村次郎大佐)を先導して艦兄を巡検点検しました。艦には戦時治療室がありますが、戦死者が出た場合に収容する場所がありません。そこで副長と相談し、兵員浴室に戦死者収容室を作ったりいたしました。(石田直義上曹 大和測距儀測手 証言より抜粋)
茂木史朗航海長は第一次攻撃が終了した時点でこう話しております。
「この分なら大和は沖縄までいけるのではないか」
たばこは、もう何本吸ったのでしょうか。森下参謀長の足元には、たばこの吸殻が散乱しております。(戦闘中のたばこが有名だったのです。レイテのときは防空指揮所の床が灰皿でした)森下参謀長もそう考えておるのでした。
能村副長は防御指揮室を一度出ました。有賀艦長への報告です。防空指揮所まで一騎に駆け上がりました。
「副長、被弾状況は」
「後部損傷が厳しい状況です。魚雷は三~四の命中。大和はまだ健在です。このままなら沖縄まで行けます」
副長も根拠がなかったのでした。ですがレイテの際、武蔵が受けた魚雷、爆弾と比較すれば、まだ遥かに少ないことは事実なのです。第一波であれだけの航空機を繰り出してきた米軍です。第一波と同数以上の空襲があるとは考えられなかったのでした。
「特攻を行っている。艦載機はあれが限度ではないのだろうか・・」
しかし、これは淡い期待に過ぎませんでした。
第一次攻撃をおこなったのは第58.1群の艦載機(ホーネット、ベニントン、ベローウッド、サンジャシント)でした。
「いい眺めだ」上空を旋廻しているエドモンド・コンラッド中佐です。そろそろ帰艦しなければなりません。
「戦闘終了だ。ここまで来てダンボの世話になりたくないだろ!早く戻るんだ」
全機に指示を出しました。
ここから先は58.3群(エセックス、バターン、バンカーヒル、キャボット)に任せます。彼等は上空で待機しているのでした。
ハーモン・アター中佐が指揮を執ります。
「よし、デカイ奴をやるぞ!」
彼は、最初の攻撃をエセックスの艦載機に任せました。この空母にはベテランのパイロットが多くいたからです。
「俺達エセックスの椋鳥が太平洋の歴史を変えたんだ」彼は、部下達にはいつもこう話しを聞かせていたのです。
彼は上空で旋廻しながら日本艦隊の対空砲がおそろしく正確で且つ激しいことを認識しておりました。実際、矢矧の側まで接近したとき被弾しかかっております。
「優秀な艦と指揮官には違い無い。だが・・・もう奴等は追い詰められている。大したことはできないんだ」
第一次第一波攻撃よりも更に組織的なフォーメーションを彼等は取り入れております。
最初に急降下爆撃をしかけ、大和の対空砲をそれに集中させます。(ヘルダイバーを突っ込ませます)間髪いれず雷撃を行います。
戦闘機のパイロットは教科書にある運動をすべてやった。雷撃機のパイロットは出来るだけ首を出し、艦のすぐそばで爆弾を直下に投下したので、多くは、艦の檣楼すれすれでかわした。日本の艦隊は巣の中のヘビのように、のたうった。
(ハーモン・アター中佐 戦後証言 →ラッセル・スパー氏著「戦艦大和の運命」275ページより抜粋)
「デカイ奴の真上から爆弾を落とすんだ!なんだと?フラップなんか使ってるヒマなんてあるか!そのまま行くんだ・・・ゾ!」
アラン・ミッチェル中尉は降下用フラップを使わずダイブすることを得意としておりました。
「もう、あんなに煙が上がっている」
彼はそう言うと高度1500フィートで1000ポンド徹甲爆弾ニ発投下しました。高度800フィートで機首を引き上げます。デカイ奴の右舷で煙が上がっているのを確認しました。
雷撃機は爆撃機のすぐ後からかなりの低空で、デカイ奴へ近づきます。
A・ホワイト少佐は自身を含めて4機で雷撃を試みます。
「いいか、デカイ奴は前の方が弱いんだ!そこを狙え!」
左舷側から艦首方向へ向います。ところが。
「おい、何で今さら動くんだよ!」
デカイ奴が急に転舵したのです。40度方向へ進んでおりましたが、角度が急に浅くなりました。
「そのままやっちまえ!」
魚雷を投下しました。大和左舷艦首方向へ白い糸が伸びていきます。
「ダメダ!他の艦に向う」
一番後を飛んでいたデイビット・ジャコブ中尉はデカイ奴の回頭とタイミングが合わず魚雷の投下を諦めます。
「おい何だ?また例の吹流しか?」
「噂の花火だ」
デカイ奴の巨砲から火が出るのを目撃しました。ですが、その吹流しは、飛行機のいない空で空しく上がっているのでした。
それと同時頃に放たれた魚雷が艦首左舷に命中します。
「デカイ奴。グルグル廻り始めている」
彼等はデカイ奴が妙な旋廻運動をし始めていることに気付きました。
「左舷が目標か。その方が燃料の節約にもなる」
M・ウォールデン中尉が率いる4機の小隊は4本の命中を報告。マイク・シャムウェイ中尉の三機は右舷から射程に入ろうとしましたが、デカイ奴の転舵により左舷へ目標を変えます。二本が命中します。
「まるで、撃ってくださいと言わんばかりの旋廻だ」彼は、魚雷投下後、そう思ったのでした。
「ハンドルが効かない車みたいだな」
しかし、彼等の自己報告は過大であったことが戦後判明致します。
そうは言ってもデカイ奴は最早戦闘能力がかなり落ちていることは確実でした。激しかった対空砲も少しづつ黙り始めております。
第二波の来襲は、それから間もなくであった。この第二波では一○○機以上の敵はおもに左正横の方向より、雷撃機を主力に攻撃してきた。
と同時に右舷上空からも攻撃してくるので、大和上空はカラスの大群さながらの敵の飛行機でおおわれてしまった。
それらが、入れかわり立ちかわり攻撃を加えるので、これに対抗してわが方も副砲、高角砲、ニ五ミリ機銃が全力をあげて発砲する。そのさまは地獄絵そのままであった。
(小林昌信上水 証言 手記より抜粋)
後部に爆弾命中、そうひどい被害とは思わなかった。戦闘航海に支障はないと思った。魚雷が当たると船体が振動するが、最初の二、三本の命中はかすり傷のような振動、艦橋前方の魚雷の命中は割りと早い時期だった。艦の中部、後部に魚雷が命中するようになると、胴震いするようなひどい振動になった。機銃掃射、魚雷の数は、爆弾より多かったように記憶する(山森直清中尉 大和航海士 証言より抜粋)
十二時五十七分右艦尾よりSBニC数機急降下に入る。面舵に回避す 一機撃墜。十三時 百八十度に定針。十三時二分 ニ百度方向三十キロメートルに敵新目標五十機を認める。十三時二十二分 ニ百十度に右一斉回頭。十三時二十七分、速力二十二ノット
(軍艦大和戦闘詳報より抜粋)
この間、大和はかつてない攻撃を受けております。いや日本の艦船で最も激しい空襲を受けております。小林昌信さんが「地獄絵そのもの」とお話されていらっしゃいます。
ご生還されました方々が皆様口々に同じようなお話をされます。
第二次攻撃。エセックス隊四十機。バターン隊二十一機。バンカーヒル隊十四機。キャボット十九機。合計九十四機が、大和をはじめとする日本艦隊におそいかかります。
黒田吉郎砲術長は各主砲砲塔(一番、二番)へ指示を出しました。
「三式弾の時限信管の秒数をゼロにしろ」
黒田砲術長が主砲の弾幕効果を期待していることが判りました。そして再度主砲の発射を試みようとしているのでした。
十二時四十一分。後部副砲射撃指揮所、後部電探室付近へ二百五十キロ通常弾四発。
この被弾により「臼淵磐大尉他が戦死されておられます」
十二時四十五分。雷撃を受けた大和は左舷に魚雷二本。
この雷撃により大和は傾斜復旧のため、右舷に注水し艦の傾斜を復旧させております。
第一次攻撃によって、直撃弾ニ発が後部檣楼ふきんに、命中した。これで後部主砲射撃指揮所、後部測的所、後部電探室、後部副砲射撃指揮所を破壊し、ふきんの高角砲、機銃にも多大の損害をあたえた。
魚雷は、左舷前部に一本うけたが、傾斜は軽微であった。
(坂本一郎上曹 測的手 証言より抜粋)
左舷後部から、腹をゆする震動が伝わって魚雷一本が命中した。続いて三本、こんどは同じ左舷中部から、魚雷の命中音が伝わってきた。ために艦は一時、左に五度近く傾いたが、注排水装置右舷タンクに注水して、傾斜は直ちに復旧した。
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
戦闘開始まもなく、後部艦橋の軍艦旗を掲げているところと副砲との間に、敵の二百五十キロ爆弾がつづけざまにニ発命中し、硝煙や血のついた鉄の破片などが雨のごとく降りかかってきた。
また、海面からは至近弾のため、海中よりドロ水のごとき水塊が舞い上がってきて、これを頭からかぶってしまい、まるでどぶねずみか、煙突掃除でもしたかのように身体ぜんたいがどす黒くなってしまった。
とにかく、この敵の第一波との戦いが、私にとっては初陣であったのだ。
(小林昌信上水 証言手記より抜粋)
被弾状況はその情報の伝わりかたで証言が違っております。この第一次(第一波)攻撃による被弾状況は「軍艦大和戦闘詳報」と米軍の記録が幾分異なっていることに気づきます。最初に語りました、「直撃弾四発。命中魚雷二本」(一本追加したのですが、詳細が不明)は「軍艦大和戦闘詳報」からのものです。
最初の攻撃で大和は約5度の傾斜をみます。しかし、先の副長手記にもございますように、大和には艦の傾斜を復旧させるシステムがございます。
「注排水装置」がこれです。ここで少しご紹介いたします。
浸水により艦が傾斜した場合、大和の主砲が使えなくなる。このため艦の傾斜を復旧させる装置として「注排水装置」が考案された。
浸水で艦が一方に傾斜したとき反対側のタンクに同量の海水を注入して傾斜を急速に復旧させるのである。防御指揮室(戦闘中は副長のポジション)より注排水指揮所に伝えられ、管制盤の操作一つで稼働する仕組みになっている。(中略)艦首、艦尾および防御甲板以上の非防御部全部が被害をうけて、非水防となってもなお傾斜約ニ○度(実数値十八・三度)までは復元力を用いることを確かめた。(過去記事「大和を生みし者達」に登場いたしました。福田啓二 一號艦計画主任 手記より抜粋)
今後、大和は懸命な傾斜復旧作業をいたします。この注排水装置のお蔭で、レイテでの武蔵があそこまで堪えられたのだと考えます。
「艦を水平に保つ」ことは大和に取りましては生命線であったのです。これは艦速が鈍くなり敵の空襲をかわしきれないリスクよりも優先すべき手段だったのでした。今は第一次攻撃を語っておりますが、今後の空襲においてもその事が最優先させるべく作業を推し進めていくのでした。
今一度、大和の中での被弾状況を能村副長手記から見てみます。
魚雷は、左舷に三本、後部に一本(アメリカ記録では、左舷二本となっております。証言に違いが生じておりますが、後に記載します)、爆弾の被害は後部電探室大破のほか、五、六発(アメリカ記録では後部ニ発)命中弾により、高角砲、機銃を集中装置してある左舷中部甲板が相当の惨状を呈していた。第四群機銃指揮搭は影も形もない。第十四番三連装機銃は側面に血痕をとどめるだけで、総員姿を消した。浸水に対する注水で、喫水が深くなったのと、外鈑の曲がりで、艦速が重くなり十八ノットに低下していた。
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
上記、能村副長は第一次攻撃による被弾状況をこのように証言されておられます。しかしながら、米軍記録、そして他の生還者の方の証言は異なっております。これを見てみます。
魚雷は左舷に三本も命中を確認した。(第二艦隊宮本砲術参謀証言→米海軍技術報告書第Sー01-3より「原勝洋」氏レポートより抜粋)
魚雷は「左舷に二本の命中」と報告を受けた。(最下甲板十五区付近、左舷外側機械室付近。最下甲板十二区、第八罐室付近)→(第二艦隊森下参謀長証言)
魚雷は最初の二本は確実。三本目があったとしたら、後方の方だったと考えるが、確認していない(清水副砲長証言より)
戦闘中であり情報が混乱していることは事実ではございますが、この第一次攻撃はまだ整理がつくのです。その第一次攻撃が終了します。十二時五十八分の事でした。
戦闘の合間を利用して、傷者の運搬、死体の収容、故障へ行きの応急修理を手分けして行う。中甲板の戦時治療室は、重傷者でたちまち一杯になった。手のない者、足のない者、両足を失ってなお元気な者等々。治療室の床は血の海。死体は各浴室に収容、血生臭いに補遺室内に充満。甲板に散乱する肉片、だれのものか、からだのどの部分かわからない肉片は海中に投棄した。(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
副長の下で、私は甲板士官とともに内務関係の係となり、巡検の際は副長(能村次郎大佐)を先導して艦兄を巡検点検しました。艦には戦時治療室がありますが、戦死者が出た場合に収容する場所がありません。そこで副長と相談し、兵員浴室に戦死者収容室を作ったりいたしました。(石田直義上曹 大和測距儀測手 証言より抜粋)
茂木史朗航海長は第一次攻撃が終了した時点でこう話しております。
「この分なら大和は沖縄までいけるのではないか」
たばこは、もう何本吸ったのでしょうか。森下参謀長の足元には、たばこの吸殻が散乱しております。(戦闘中のたばこが有名だったのです。レイテのときは防空指揮所の床が灰皿でした)森下参謀長もそう考えておるのでした。
能村副長は防御指揮室を一度出ました。有賀艦長への報告です。防空指揮所まで一騎に駆け上がりました。
「副長、被弾状況は」
「後部損傷が厳しい状況です。魚雷は三~四の命中。大和はまだ健在です。このままなら沖縄まで行けます」
副長も根拠がなかったのでした。ですがレイテの際、武蔵が受けた魚雷、爆弾と比較すれば、まだ遥かに少ないことは事実なのです。第一波であれだけの航空機を繰り出してきた米軍です。第一波と同数以上の空襲があるとは考えられなかったのでした。
「特攻を行っている。艦載機はあれが限度ではないのだろうか・・」
しかし、これは淡い期待に過ぎませんでした。
第一次攻撃をおこなったのは第58.1群の艦載機(ホーネット、ベニントン、ベローウッド、サンジャシント)でした。
「いい眺めだ」上空を旋廻しているエドモンド・コンラッド中佐です。そろそろ帰艦しなければなりません。
「戦闘終了だ。ここまで来てダンボの世話になりたくないだろ!早く戻るんだ」
全機に指示を出しました。
ここから先は58.3群(エセックス、バターン、バンカーヒル、キャボット)に任せます。彼等は上空で待機しているのでした。
ハーモン・アター中佐が指揮を執ります。
「よし、デカイ奴をやるぞ!」
彼は、最初の攻撃をエセックスの艦載機に任せました。この空母にはベテランのパイロットが多くいたからです。
「俺達エセックスの椋鳥が太平洋の歴史を変えたんだ」彼は、部下達にはいつもこう話しを聞かせていたのです。
彼は上空で旋廻しながら日本艦隊の対空砲がおそろしく正確で且つ激しいことを認識しておりました。実際、矢矧の側まで接近したとき被弾しかかっております。
「優秀な艦と指揮官には違い無い。だが・・・もう奴等は追い詰められている。大したことはできないんだ」
第一次第一波攻撃よりも更に組織的なフォーメーションを彼等は取り入れております。
最初に急降下爆撃をしかけ、大和の対空砲をそれに集中させます。(ヘルダイバーを突っ込ませます)間髪いれず雷撃を行います。
戦闘機のパイロットは教科書にある運動をすべてやった。雷撃機のパイロットは出来るだけ首を出し、艦のすぐそばで爆弾を直下に投下したので、多くは、艦の檣楼すれすれでかわした。日本の艦隊は巣の中のヘビのように、のたうった。
(ハーモン・アター中佐 戦後証言 →ラッセル・スパー氏著「戦艦大和の運命」275ページより抜粋)
「デカイ奴の真上から爆弾を落とすんだ!なんだと?フラップなんか使ってるヒマなんてあるか!そのまま行くんだ・・・ゾ!」
アラン・ミッチェル中尉は降下用フラップを使わずダイブすることを得意としておりました。
「もう、あんなに煙が上がっている」
彼はそう言うと高度1500フィートで1000ポンド徹甲爆弾ニ発投下しました。高度800フィートで機首を引き上げます。デカイ奴の右舷で煙が上がっているのを確認しました。
雷撃機は爆撃機のすぐ後からかなりの低空で、デカイ奴へ近づきます。
A・ホワイト少佐は自身を含めて4機で雷撃を試みます。
「いいか、デカイ奴は前の方が弱いんだ!そこを狙え!」
左舷側から艦首方向へ向います。ところが。
「おい、何で今さら動くんだよ!」
デカイ奴が急に転舵したのです。40度方向へ進んでおりましたが、角度が急に浅くなりました。
「そのままやっちまえ!」
魚雷を投下しました。大和左舷艦首方向へ白い糸が伸びていきます。
「ダメダ!他の艦に向う」
一番後を飛んでいたデイビット・ジャコブ中尉はデカイ奴の回頭とタイミングが合わず魚雷の投下を諦めます。
「おい何だ?また例の吹流しか?」
「噂の花火だ」
デカイ奴の巨砲から火が出るのを目撃しました。ですが、その吹流しは、飛行機のいない空で空しく上がっているのでした。
それと同時頃に放たれた魚雷が艦首左舷に命中します。
「デカイ奴。グルグル廻り始めている」
彼等はデカイ奴が妙な旋廻運動をし始めていることに気付きました。
「左舷が目標か。その方が燃料の節約にもなる」
M・ウォールデン中尉が率いる4機の小隊は4本の命中を報告。マイク・シャムウェイ中尉の三機は右舷から射程に入ろうとしましたが、デカイ奴の転舵により左舷へ目標を変えます。二本が命中します。
「まるで、撃ってくださいと言わんばかりの旋廻だ」彼は、魚雷投下後、そう思ったのでした。
「ハンドルが効かない車みたいだな」
しかし、彼等の自己報告は過大であったことが戦後判明致します。
そうは言ってもデカイ奴は最早戦闘能力がかなり落ちていることは確実でした。激しかった対空砲も少しづつ黙り始めております。
第二波の来襲は、それから間もなくであった。この第二波では一○○機以上の敵はおもに左正横の方向より、雷撃機を主力に攻撃してきた。
と同時に右舷上空からも攻撃してくるので、大和上空はカラスの大群さながらの敵の飛行機でおおわれてしまった。
それらが、入れかわり立ちかわり攻撃を加えるので、これに対抗してわが方も副砲、高角砲、ニ五ミリ機銃が全力をあげて発砲する。そのさまは地獄絵そのままであった。
(小林昌信上水 証言 手記より抜粋)
後部に爆弾命中、そうひどい被害とは思わなかった。戦闘航海に支障はないと思った。魚雷が当たると船体が振動するが、最初の二、三本の命中はかすり傷のような振動、艦橋前方の魚雷の命中は割りと早い時期だった。艦の中部、後部に魚雷が命中するようになると、胴震いするようなひどい振動になった。機銃掃射、魚雷の数は、爆弾より多かったように記憶する(山森直清中尉 大和航海士 証言より抜粋)
十二時五十七分右艦尾よりSBニC数機急降下に入る。面舵に回避す 一機撃墜。十三時 百八十度に定針。十三時二分 ニ百度方向三十キロメートルに敵新目標五十機を認める。十三時二十二分 ニ百十度に右一斉回頭。十三時二十七分、速力二十二ノット
(軍艦大和戦闘詳報より抜粋)
この間、大和はかつてない攻撃を受けております。いや日本の艦船で最も激しい空襲を受けております。小林昌信さんが「地獄絵そのもの」とお話されていらっしゃいます。
ご生還されました方々が皆様口々に同じようなお話をされます。
第二次攻撃。エセックス隊四十機。バターン隊二十一機。バンカーヒル隊十四機。キャボット十九機。合計九十四機が、大和をはじめとする日本艦隊におそいかかります。
黒田吉郎砲術長は各主砲砲塔(一番、二番)へ指示を出しました。
「三式弾の時限信管の秒数をゼロにしろ」
黒田砲術長が主砲の弾幕効果を期待していることが判りました。そして再度主砲の発射を試みようとしているのでした。
以前の駆逐艦「涼月」の話を聞くと、
どうしてもスカゲラック海戦のドイツ戦艦ザイトリッツを思い出します。
ドイツの戦艦は艦首から艦尾までだ装甲帯で覆われていました。
また主砲のバーベット(砲弾や装薬を上に揚げる装置がある部分)は水線下まで装甲帯と同じ厚さ鋼鈑で保護してありました。
これは日清戦争の戦訓に基くものだそうです。
また第一次大戦当時、すでに注排水装置と防水区画を採用してもありました。
これは日露戦争の戦訓によるものです。
他にも主砲一発分の装薬を二つに分けて保存したり、
不便を承知で水線下の甲板に甲板ごとの通路を設けなかったり・・・
ドイツの戦艦が沈みにくい所以です。
艦首が水面近くまで沈下しながらもザイトリッツがヴィルヘルムスハーフェンに帰投できたのは、
注排水装置で艦の後部に注水したからでした。
この戦訓に基いて、注排水装置は各国の戦艦に普及します。
このダメージコントロール(日本海軍のいわゆる応急)を非常に重視したのがアメリカ海軍。ある程度以上の大きさの軍艦に「防禦長」の職を設けます。
艦尾から艦首までを装甲帯で覆うというのは、
大和級の戦艦とは著しい対照です。
しかしシブヤン海海戦の武蔵は、左舷十九発(不発二本)、右舷八発の魚雷が命中。
主砲一番砲塔の基部が水没しながらも、
左右方向にはほぼ水平を保って浮いていました。
また天一号作戦の大和は左舷六発、右舷一発(だったでしょうか)の魚雷が命中しました。
当然のことながら左に大傾斜しします。
最期の時は艦橋が海面すれすれになっていましたが、
そうなるまで沈みませんでした。
レイテ海戦の時の大和には魚雷が一発命中しました。
水平を保つために注水した水が三千トン(駆逐艦や島風よりも大です)。
艦全体を装甲帯で覆うか集中防禦方式を取るかの違いこそあれ、
大和級の応急機能がいかに優れていたかの証拠になる話だと思います。
その結果として機体や搭乗員の損失を大きくしてしまったのかもしれません。
米国はすぐに諦めて、手抜きの投弾をやらかします。ダイブもギリギリの距離までは突っ込まなかったりします。
でも案外、機体も搭乗員も消耗しないことこそが、最終的勝利へと繋がったのかもしれません。
ミッドウェー海戦の時など、
日本の母艦に体当りした米軍機がありましたし、
母艦「赤城」の艦橋をすれすれに飛び越えて墜落した米軍の雷撃機もありました。
陸軍機を母艦から発進させるなんてことも、そうざらにはできません。
というより普通は思いつきません。
水上艦艇では捷一号作戦の際のサマール沖海戦で、
米駆逐艦が母艦を守って勇敢に戦ってます。
駆逐艦ジョンストンと艦長のエヴァンズ中佐のことは、様々な本に紹介されています。
アメリカさんが一見して「手抜き」と思われる投弾をするのは、
戦争も終盤になると気持ちの上で余裕が出てきたからではないでしょうか。
「自分たちには大量の飛行機があるし、
ダメならもう一度母艦に引返してまた爆弾を積んでもこれる」という・・・
このことについては『戦艦大和の最期』の著者の吉田満氏が戦後渡米した際に、
大和が率いる二艦隊を攻撃した米軍パイロットが
「そう、俺たちは何回もやったんだ。何回も」
と言われたということを某所で書いております(出典失念)。
日本機がバタバタ落されるようになったのは、
むしろ米軍の防空システムが整ったからではないでしょうか。
これは珊瑚海海戦あたりで兆候が現れ、
ミッドウェー海戦、南太平洋海戦を経て
マリアナ沖海戦ではっきりします。
米軍が沖縄に侵攻した頃には
艦隊の遥か前方にレーダーピケット艦を配置し、本隊は二重三重の輪形陣。
無線電話による上空直掩機の誘導。
小型レーダーを内蔵した対空砲弾の開発・・・
ほとんどの日本機が目標に取りつく前に落されたことが、残念でなりません。
さぞかし無念だったことでしょう。
因みに神雷部隊(桜花装備)の野中少佐は、
出陣に際して「湊川だよ」の言葉を残しています。
こと人命救助ということに関して、アメリカ軍は徹底していました。
米軍機が撃墜されるとどこからともなく飛行艇が現れ、
生き延びたパイロットを救出していきます。
これを目撃した多くの日本軍人が
「米軍の勇敢さは味方のの人命救助に全力を尽す米軍の態度に裏打ちされているのだ」
ということを痛感したそうです。
大和からちょっと外れてしまいましたが・・・
しかし、米軍は左を集中的に攻撃した。
その為、注排水システムの機能を大きく上回り、傾きはじめたわけですね。
なるほどスピードも当然遅くなりますね。
状況は米軍に有利になったということですね。
ドイツ戦艦のことは詳しく判りませんが、ドイツが例えば18インチ(ドイツの規格ではどうなるのでしょうか?)砲を搭載した戦艦を建造しようとした場合、船体強度はどのようにシュミレーションするのか興味があります。
大和型はバイタルパートを採用しております。
武蔵の事例から米軍は大和型(BIG ONE)は前が弱いことを知ってました。防御が弱い部分です。注排水装置はすぐれたものだと思いますが、この件で福井静夫さんのコメントがありましたので、戦闘記録の整理が済みましたら、ご紹介いたします。
「一番機が成功すれば続く機の爆弾(魚雷)が当たり、一番機が失敗すれば、続く機も失敗した」との証言があります。
ですが、やはり数的優位に立っている側は余裕があるのでしょうね。強く感じました。
これ命がけの仕事だと思います。
人名尊重の高さを伺い知ることができます。
「ダンボ」とは愛称です。
マーチンが飛ぶ姿はまさしくそのように見えますね。
「アメリカは意図的に左舷を集中攻撃した」と伝えられておりますが、結果がそうであって、ブリーフィングの時点(作戦を伝達するミーティング)で「左舷を狙え」とは伝えておりません。空襲の結果、左舷ばかりに被害が及び(大和の致命傷は最後に喰らった右舷へのニ発なのですが)これが「左舷を意図的に狙ってきた」となったと解釈しております。左舷側の方が、燃料が節約できる。最初の空襲で搭乗員がそう判断してのことだと考えております。
「大和は左舷を意図的に狙われてはいない」
これは今後語ろうかと考えております。