酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 大和を生みし者達 九

2009-08-28 12:01:20 | 大和を語る
船殻工場です。一号艦建造が進んでおります。
これまで、大和建艦の歴史を語ります際、やはり一番先に名前が上がりますのが「平賀譲」です。そして、設計の「牧野茂」「松本喜太郎」「福田啓二」だと思うのです。それぞれが、それぞれの立場で「大和建造」に携わった事実はございます。ですが、本来は呉海軍工廠で、鋲を打った方であるとか、現場の工員の方々のご苦労がなければ当然船は完成しません。
「西島亮二」の話が続いておりますが、「大和の歴史」の中では、よほどの本でなければ表に出てこない人物であります。ですが、彼の苦悩と知恵。そして並々ならぬ覚悟が無ければ「大和」は完成しておりません。西島は戦後90歳で亡くなるまで(平成8年)自身が大和建造に関わった事を表ざたに話たりはしませんでした。

昭和14年(1939年)呉海軍工廠船殻工場。西島を筆頭に一号艦は作られております。西島の部下には「蔵田雅彦」「馬場清一郎」「中島富士夫」「矢野鎮雄」
電気熔接の達人「辻影雄」部品調達内外担当として「苗加孝一」「古川忠」
「山本茂」等の腕に自信のある猛者ばかりが揃っていたのでした。
西島は建造の過程においてやはり画期的な手法を一号艦建造で試します。
「早期艤装」です。
それは実物大模型のもたらした効果でもあったのです。
実物大です。大和です。同じ大きさのパーツが組まれているわけです。
これまでの建艦では、まず船殻工事が先行し進水まで、その後、艤装工事となります。大和ではその艤装と船殻工事を平行に進めているのでした。
綿密な詳細図面の作成、艤装場所の確認と順序の確定。そして何よりもパーツがタイムリーに納品されなければ意味がございません。
「全てが計画通り事が進まなければ、早期艤装はありえないんだ。メーカーへは部品の納入を少しでも遅らせないよう再度連絡してくれ」
西島からの指示が飛びます。
「辻君、進水前までは船殻、進水後は艤装。これまでの進め方だと工数が倍になるとは思わんかね?大きな間違いだと思う。経済的な見地であれば、何故これまでこういった手法を取らなかったのか不思議でしょうがない」
一号艦、建造は順調に進んでおります。
艦の中には区画が無数に出来上がっておりました。
しかしながら一号艦ならではの問題が出てきます。

「主任、艦の中で迷うものが続出しています」
「そうだなぁ、俺だって解らなくなる」と笑いながら西島は言っております。
「笑い事じゃぁないですよ。工区に入るのに遅刻する奴はいるは、逆に帰れないないのがいるはで、移動の効率がすこぶる悪くなっております」
「同じような区画が迷路状態になっているわけですから・・・いっその事、思い切って艤装図面を現場監督レベルに渡してくれたらいいと思うのですが」
「何言っているんだ、一号艦艤装図は機密だぞ、軍機なんだぞ。工員に渡すどころか、俺だって見るのに緊張するんだ」
「ですが・・艦の存在に関わる大きな問題も起きておりまして・・・」
「何だね?」
「一日中艦底にこもって作業しているわけですから、そのう・・小便をですね・・区画の済みで用をたすものが続出しております」
その後始末は・・と申しますと。
検査工がきちんとふき取るわけです。錆びの原因になるからでした。
そんなこんなでも工員が迷っていたのでは作業の能率が下がります。
「標識をつけたらどうでしょう」
マンホールの壁面へ、矢印と出入りできる区画の番号を白ペンキで書いたりもしました。
「機密保持の観点からは・・」
確かにそうなのですが、艤装図を見せるわけにはやはりいきません。
「妥協の産物・・・か・・前代未聞だな」
西島は、自ら工区に入る際、「でもわかりやすい」と納得するのでした。

船殻工事に進みます。一号艦の巨大な姿が日増しに目立つようになりました。
「おい、山から一号艦がはっきり見える!望遠レンズで写真も撮れる!何とかならんか!」
外部からドックが見えること自体が問題なのだが、船体の大きさから搭載する主砲の口径等は推察がつく。
乾ドックはガントリークレーンの鉄骨が57mもの高さを誇るがトタンやムシロで遮断はされておりました。
そうそう、そのムシロですが。。。
その面積を合計しますと25万8千平方メートルとなりました。
有明海の海苔養殖に使用する棕櫚縄が不足することにもなったのでした。
機密保持の為に宣誓文を書かせ、出入りは全て厳重にチェック。担当者と言えど図面の持ち出しは一切禁止。
ですが、裏山からははっきり見える!片手落ち?な事実でした。

そういえば、今は軍事参議官、「加藤隆義」前呉海軍工廠司令長官です。起工式の際には、筆頭席におられました。
ある日、一号艦建造がどの程度進んでいるのか、気になり呉海軍工廠を尋ねました「加藤である、中へ入れてもらいたい」
前、司令長官です。受付はその顔は当然承知でした。が。
「海軍大臣許可証が無ければお通しするわけには参りません」
「何を言うか!司令長官を呼べ!」
「ですから許可証が無ければ例えどなた様であろうと此処からお入りにはならないで下さい」
「致し方ない・・・では帰ろう・・・」
その受付の隣の部屋は呉鎮守府副長「梶原哲純」の部屋でした。
お供に付いている副官が大声を上げてこう叫びました。
「閣下より!副長に宜しく!と申されておられました!」
これだけ機密保持には神経を尖らせておるのでした。

「どうしたものかなぁ。本当だ。はっきり見えるぞ」
ある技官が現地偵察へ向いました。
「これほどとは・・・」
「ガントリークレーンの鉄骨に屋根でも被せればいいと思うが・・」
「そうですね!屋根、付ければいいんですよ!」
早速、その報告を受けた西島です。
「そうか、屋根かぁぁ・・・」
「そうなんですよ主任。ガントリークレーンを外側から囲むように鉄骨を組めばいいんですよ」
「そうだがな。そうだけどな・・・よーーく考えてみろよ?」
「西島主任何が問題なんです?」
「いい考えだよ。一番良いに決まっている。だけどな・・」
「だけど?」
「そう、一体誰がやるんだ?」
全員絶句。
軍機以上の軍機。外部の建築業者に頼むわけにはいかないのでした。
「土建屋さんやとび職に頼む・・こと・・・は・・で・き・な・い」
施設部の一人がこう言いました。
「でもですよ、主任。船も屋根も鉄骨をくみ上げるのは同じじゃないですか。俺達でやりましょうよ」
「60mの高所に慣れていないし、下は一号艦が建造中。事故が心配であるが」
「でもやらなきゃならんのでしょう!こんな事で一号艦の完成を遅らせるわけにはいかないのですから」
「設計図は我々施設部でなんとかしますから」
とはいうもののです。結局急場で図面が完成します。
「風速60mに耐えられ、三ヒンジ(この専門用語の意味は酔漢知りません。ご容赦下さい)構造」設計図にはこうありました。
一号艦建造に携わる工員は使えません。やむなく第三船台で作ることとなりました。海を挟んで向いの船台ドックです。
そこで鋲打ち。鉄骨を組み上げます。運搬船で運び、海上クレーンで吊り上げます。まるで合掌造りのような格好です。でもこれでも四分の一しか隠れません。
「山からさえ見えなければいいんだろ」でした。
まるで一号艦建造と競争するように屋根の工事が進みます。
高所です、例えば部品1つ落としたとしても、下にいる建造工員に当たらないとも限りません。しかもとび職ではない工員です。高所の作業は不慣れなのです。
完成!
「どうです、主任。事故なんて起きなかったでしょ!」
施設部の担当技官が威張って?話します。
「これはね。高い技術が呉にはあるそういった証拠だよ」
西島も満足そうに見上げておりました。
結果、一号艦を隠す効果は絶大ではあったが、夏の工事、直射日光を遮り、作業がしやすくなったとの副産物も生まれたのでした。

呉市民。誰しもがうすうす感じております。
「今度の艦はとてつもなく大きいそうだ」
「だって見てご覧よ。山のような覆いが付いたじゃないか。あれだって下の方は相当深いはずだぜ」
「あぁ、これまでに無い艦だって・・・わかるような・・」
「しっ!声がでかい!憲兵に見つかったらただじゃ済まねぇんだからさ」

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8 コメント

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Unknown (ひー)
2009-08-31 16:30:45
へ~とばかり関心しながら読んでました。
裏話は面白いですね。
関係者の苦悩が伝わるようにわかります。
当然呉の市民もいつもと違うことに気づくでしょうね。
次が待たれます。
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Unknown (クロンシュタット)
2009-09-02 05:36:16
国鉄呉線の列車が工廠通過時にブラインドを下げされられた話がありますよね。
他にも逸話はいろいろ残されていますが、酔漢さんが書いているように、市民はうすうす知っておりました。

「市民はうすうす」といえば、ミッドウェイの敗北についても同様だったようです。
単冠湾の集結も地元民の目撃談が残っています。
いくら機密だ隠蔽だとはいっても、市民の目は欺けないですよね。

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ひー様へ (酔漢です )
2009-09-03 16:21:38
お返事遅れました。
公試運転まで技術的な事を語る事といたします。ですが、これももう少し先の事。
さて、呉を訪ねたシティラピッド君です。
ドックの跡を尋ねております。
「とにかくデカイ!」
彼の感想です。
想像出来ません。
ドック=東北ドック・・でしたので。
規模は全く違うんだろうなぁ。
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クロンシュタット様へ (酔漢です)
2009-09-03 16:28:05
三號艦設計に携わった「福井静夫」です。
列車の中でこう聞かれました。
「長崎で作られている軍艦は相当大きいようですな」
「さぁ、そうなんですかねぇぇぇ」
と当たり障りない返答をするのに苦労したようです。機密も機密なのに、日本は狭い。
これが命取りになった事象もございます。
クロンシュタット様はご存知だと思います。

掲示板ですが
文化祭には出かけられそうです。初めてですが。予定の部分もありますが、詳細はお知らせいたします。この場ですが。
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Unknown (ドラえもん)
2011-07-26 16:56:10
文中の古川忠の孫です。インターネットで祖父の足跡を調査していたところ酔漢さんのホームページを見つけました。私が中学1年の時に亡くなった送付の名前を実際に見ると凄く懐かしいくメールさせて頂きました。
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ドラえもん様へ (酔漢です)
2011-07-26 18:56:34
初めまして、酔漢です。
祖父が第二艦隊で大和乗艦。その祖父の事を調べておりますと、どうしても、大和建造に行きつきました。父は、慰霊祭のとき、呉海軍工廠長だった庭田尚三さんと話をしております。
古川忠さんの名前は建造中の記録に出てまいります。部品の調達も難しかった時代。大変なご苦労をされていらしたのではないか。そう思うのでした。
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初めまして。 (ひよこ)
2011-10-03 12:41:29
文中にちょこっと出てまいります蔵田雅彦の孫です。祖父の顔や詳細を知らずに育ちましたが、大和の設計者だったことだけは聞いていました。なんとも嬉しい気分になりましたので書き込みさせていただきました。
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ひよこ様 (酔漢です)
2011-10-04 07:10:18
蔵田雅彦さんは、呉海軍工廠の技手だったと思います。
工廠での部署までは正確には分かりませんでした。
挨拶遅れて申し訳ございませんでした。
酔漢です。
ひよこ様からのご連絡で、大和に関する人達との繋がりがまたお一人増えました。
くだまきにしてよかったと、こうしたコメントを頂戴いたしますと本当にこう思います。
また、宜しくお願いいたします。
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