完成期日昭和17年6月15日。これは絶対に外すことはできません。
ドイツから戻ったばかりの西島は、工期を取り仕切るべく悩み込んでおりました。
「嘗てない巨大な艦の建造・・・何を参考にすればいいのか」
工事の見積が出来ずにおりました。
普通こういった流れで造艦は進められます。
起工⇒船殻工事⇒エンジンなどの積み込み⇒進水⇒兵器の搭載⇒運転⇒引渡し
それぞれを各部門ごとに発生する費用、作業量などを決定させなければなりません。
「やはり、長門、陸奥を参考にするしかないのか・・」
陸奥の竣工が二十数年前。
結果、そのデータでもって予算を作成しました。
「陸奥建造の工事費はどのくらいだったかね」
「1541万円でした」
「そうか、しかしてA140は重量が二倍なわけだから単純には3082万円という事になるな」
「子供にでもできるような計算ですね・・」
部下の多川との会話でございました。
しかし、実際西島は艦政本部第四部、お金を握っている大蔵省と。多くの板ばさみにあっているのでした。
西島の頭には、さらに工期の問題も。
「最速で完成させるには一体どうしたら・・能率を上げるしかない」
西島は現場責任者として「腹をくくって」この難題に取り組む決意をしたのでした
「西島君、今度の仕事は未曾有な仕事となる。が、過去に取り組んだことを積み重ねれば、出来ないことはないんだ」
玉沢愌中将から受けた嘗ての言葉を思い出したのでした。
「そうだ、これだけの工事工事を予定通り行うことは綿密で詳細な計画を立てなければならない。工数を多くかければいいってもんじゃぁない!工事は促進されるが、工費が跳ね上がってしまう。最小の工事費で竣工期を確保しなくては・・」
「西島さん。作業日程の調整に入りましょう。予定されていた9月から最早さらに遅れているわけですから」
呉の技師、多川弘です。
建造命令訓令が出たのが8月21日。本来ならば9月中の起工であったはずでした。
結果、10月5日の部長会議で最後の詰めが行われたのでした。
問題は多岐にわたり多々発生しておりました。
甲板の生産能力。
進水の時期。等、等。
しかして、下記のような日程が設定されたのでした。
昭和12年(1937年)11月4日 起工
昭和14年(1939年)5月中旬~10月中旬 汽缶積み込み
5月上旬~11月下旬 主機積み込み
昭和15年(1941年)8月上旬 進水
昭和16年(1941年)5月下旬~10月下旬 主砲積み込み
12月下旬~17年1月上旬 予行運転
昭和17年(1942年)1月下旬~2月下旬 公試運転
5月上旬 第一期工事終了
6月上旬 第二期工事終了
6月15日 引渡し
「西島主任。これは・・これは嘗て無い工程ですが・・」
やはり、多川は疑問を持たずにはいられませんでした。
「多川君。君が疑問を持つのは当然だよ」西島は少し笑いながら話を進めているのでした。
多川は立て続けに話をします。
「普通、汽缶や主機の積み込みは進水の後が普通です・・が・・」
「A140は集中防御方式であるから、その機関は分厚い装甲板で囲われている、主機を積み込む際にまた甲板をめくって入れることは出来ないだろう?ひどく手間がかかるし、金もかかる・・だから主砲は進水後に取り付ける」
そうなのでした、通常これまでの軍艦は主機は進水後に、主砲は進水前に取り付けるのでしたが、A140 は逆です。そして主砲と機関両方を取り付けたとすると・・・・。
「そうですね、ドックの中で沈んだまんまですね!」
多川が大笑いで話をしております。
「その通りだ」
西島が珍しく笑いました。
呉海軍工廠内、別室。牧野茂がイギリスから帰国後、A140の詳細図面作成に没頭しております。
8月21日、海軍大臣、米内光政から「一号艦」建造命令が発せられました。
(これから、本日を持ってA140 から一号艦と本編でも呼ぶことと致します)
牧野は、分厚い書類を机上に積み上げながらそれを閲覧しておりました。
「官房機密第三三0一号」
第一号艦製造に関する件通牒
八月二十一日官房機密第三三0一号訓令首題の件は左記要領に依り施行すべし
追て同要領に依り呉鎮守府司令長官に之が内容を説明するものとす
記
(一)一般計画要領書 一
(二)一般偽装図 一
(三)最大中央横断図 一
(四)計画重量重心計算書 一
(五)砲熕兵装計画要領書 一
(六)電気兵装計画要領書 一
(七)無線及水中聴音兵装計画要領書 一
(八)航空兵装計画要領書 一
(九)機関計画要領書 一
(十)水雷兵装計画要領書 一
(十一)航海兵装計画要領書 一
膨大な資料の中で図面は二枚のみでした。一般偽装図と最大中央横断図の二枚だけです。他は艦政本部から特別便で随時送られてくる仕組みになっておりました。当然、呉での工程、作業に合わせて図面を新たに作りなおしたり、牧野の判断で書き直したりした部分も多々ございました。
基本設計を行った艦政本部、松本喜太郎が
「およそ計算できるものは全て計算し、実験できるものは全て実験し、造船技術者として、なすべきことはすべて行った」と話した通り、完成されつくした感のある図面でした。
牧野は図面を見ながら
「松本さんのご苦労が伝わってくるような設計図だなぁ」と思わずにはいられないのでした。
「牧野さん内線です西島船穀主任からです。図面の催促ですが」
「やれやれ、早め早めの準備ですか・・いつもながら・・ですね」
牧野は電話をしぶしぶ受け取るのでした。
呉海軍工廠「乾ドック」この巨大なドックは起工に向けて掘り下げれております。
「一体どれだけでかい艦をつくるんだ」
誰しもがそう思いました。
その乾ドックの底に盤木が並べられ、キールが据え付けられました。そのうえ高さ20mもある垂直キール(バーチカル・キール)が二枚据えられております。
これには誰しもが驚くのでした。
「誰しもが疑問に思う」ですが、誰も口に出したりはいたしませんでした。
起工式当日。ナナマルマルとナナヒトマルマルにサイレンが鳴りました。
これは、呉工廠作業開始の合図です。
(東北ドックのサイレンがなつかしい・・八時でした)
構内には制服を着た姿があちこちに見られ、いつもより緊張した雰囲気でした。
台座には加藤隆義、呉鎮守府司令長官。呉工廠長、豊田貞次郎中将。造船部長、正木宣恒少将。船殻工場作業主任、芳井一夫大佐。そして西島、牧野も出席して行われました。
式次第は本当に簡単なものでした。
加藤司令長官の挨拶。神官による祝詞。一人の工長が垂直キールに鋲を差込み、加藤司令長官が、その頭を金槌で叩く。
これで一切の儀式が終了したのでした。
世界一巨大な艦載砲を有する巨大な戦艦が誕生する、第一歩となった日です。
ですが。
この艦の運命を知る者は誰一人としておりませんでした。
ドイツから戻ったばかりの西島は、工期を取り仕切るべく悩み込んでおりました。
「嘗てない巨大な艦の建造・・・何を参考にすればいいのか」
工事の見積が出来ずにおりました。
普通こういった流れで造艦は進められます。
起工⇒船殻工事⇒エンジンなどの積み込み⇒進水⇒兵器の搭載⇒運転⇒引渡し
それぞれを各部門ごとに発生する費用、作業量などを決定させなければなりません。
「やはり、長門、陸奥を参考にするしかないのか・・」
陸奥の竣工が二十数年前。
結果、そのデータでもって予算を作成しました。
「陸奥建造の工事費はどのくらいだったかね」
「1541万円でした」
「そうか、しかしてA140は重量が二倍なわけだから単純には3082万円という事になるな」
「子供にでもできるような計算ですね・・」
部下の多川との会話でございました。
しかし、実際西島は艦政本部第四部、お金を握っている大蔵省と。多くの板ばさみにあっているのでした。
西島の頭には、さらに工期の問題も。
「最速で完成させるには一体どうしたら・・能率を上げるしかない」
西島は現場責任者として「腹をくくって」この難題に取り組む決意をしたのでした
「西島君、今度の仕事は未曾有な仕事となる。が、過去に取り組んだことを積み重ねれば、出来ないことはないんだ」
玉沢愌中将から受けた嘗ての言葉を思い出したのでした。
「そうだ、これだけの工事工事を予定通り行うことは綿密で詳細な計画を立てなければならない。工数を多くかければいいってもんじゃぁない!工事は促進されるが、工費が跳ね上がってしまう。最小の工事費で竣工期を確保しなくては・・」
「西島さん。作業日程の調整に入りましょう。予定されていた9月から最早さらに遅れているわけですから」
呉の技師、多川弘です。
建造命令訓令が出たのが8月21日。本来ならば9月中の起工であったはずでした。
結果、10月5日の部長会議で最後の詰めが行われたのでした。
問題は多岐にわたり多々発生しておりました。
甲板の生産能力。
進水の時期。等、等。
しかして、下記のような日程が設定されたのでした。
昭和12年(1937年)11月4日 起工
昭和14年(1939年)5月中旬~10月中旬 汽缶積み込み
5月上旬~11月下旬 主機積み込み
昭和15年(1941年)8月上旬 進水
昭和16年(1941年)5月下旬~10月下旬 主砲積み込み
12月下旬~17年1月上旬 予行運転
昭和17年(1942年)1月下旬~2月下旬 公試運転
5月上旬 第一期工事終了
6月上旬 第二期工事終了
6月15日 引渡し
「西島主任。これは・・これは嘗て無い工程ですが・・」
やはり、多川は疑問を持たずにはいられませんでした。
「多川君。君が疑問を持つのは当然だよ」西島は少し笑いながら話を進めているのでした。
多川は立て続けに話をします。
「普通、汽缶や主機の積み込みは進水の後が普通です・・が・・」
「A140は集中防御方式であるから、その機関は分厚い装甲板で囲われている、主機を積み込む際にまた甲板をめくって入れることは出来ないだろう?ひどく手間がかかるし、金もかかる・・だから主砲は進水後に取り付ける」
そうなのでした、通常これまでの軍艦は主機は進水後に、主砲は進水前に取り付けるのでしたが、A140 は逆です。そして主砲と機関両方を取り付けたとすると・・・・。
「そうですね、ドックの中で沈んだまんまですね!」
多川が大笑いで話をしております。
「その通りだ」
西島が珍しく笑いました。
呉海軍工廠内、別室。牧野茂がイギリスから帰国後、A140の詳細図面作成に没頭しております。
8月21日、海軍大臣、米内光政から「一号艦」建造命令が発せられました。
(これから、本日を持ってA140 から一号艦と本編でも呼ぶことと致します)
牧野は、分厚い書類を机上に積み上げながらそれを閲覧しておりました。
「官房機密第三三0一号」
第一号艦製造に関する件通牒
八月二十一日官房機密第三三0一号訓令首題の件は左記要領に依り施行すべし
追て同要領に依り呉鎮守府司令長官に之が内容を説明するものとす
記
(一)一般計画要領書 一
(二)一般偽装図 一
(三)最大中央横断図 一
(四)計画重量重心計算書 一
(五)砲熕兵装計画要領書 一
(六)電気兵装計画要領書 一
(七)無線及水中聴音兵装計画要領書 一
(八)航空兵装計画要領書 一
(九)機関計画要領書 一
(十)水雷兵装計画要領書 一
(十一)航海兵装計画要領書 一
膨大な資料の中で図面は二枚のみでした。一般偽装図と最大中央横断図の二枚だけです。他は艦政本部から特別便で随時送られてくる仕組みになっておりました。当然、呉での工程、作業に合わせて図面を新たに作りなおしたり、牧野の判断で書き直したりした部分も多々ございました。
基本設計を行った艦政本部、松本喜太郎が
「およそ計算できるものは全て計算し、実験できるものは全て実験し、造船技術者として、なすべきことはすべて行った」と話した通り、完成されつくした感のある図面でした。
牧野は図面を見ながら
「松本さんのご苦労が伝わってくるような設計図だなぁ」と思わずにはいられないのでした。
「牧野さん内線です西島船穀主任からです。図面の催促ですが」
「やれやれ、早め早めの準備ですか・・いつもながら・・ですね」
牧野は電話をしぶしぶ受け取るのでした。
呉海軍工廠「乾ドック」この巨大なドックは起工に向けて掘り下げれております。
「一体どれだけでかい艦をつくるんだ」
誰しもがそう思いました。
その乾ドックの底に盤木が並べられ、キールが据え付けられました。そのうえ高さ20mもある垂直キール(バーチカル・キール)が二枚据えられております。
これには誰しもが驚くのでした。
「誰しもが疑問に思う」ですが、誰も口に出したりはいたしませんでした。
起工式当日。ナナマルマルとナナヒトマルマルにサイレンが鳴りました。
これは、呉工廠作業開始の合図です。
(東北ドックのサイレンがなつかしい・・八時でした)
構内には制服を着た姿があちこちに見られ、いつもより緊張した雰囲気でした。
台座には加藤隆義、呉鎮守府司令長官。呉工廠長、豊田貞次郎中将。造船部長、正木宣恒少将。船殻工場作業主任、芳井一夫大佐。そして西島、牧野も出席して行われました。
式次第は本当に簡単なものでした。
加藤司令長官の挨拶。神官による祝詞。一人の工長が垂直キールに鋲を差込み、加藤司令長官が、その頭を金槌で叩く。
これで一切の儀式が終了したのでした。
世界一巨大な艦載砲を有する巨大な戦艦が誕生する、第一歩となった日です。
ですが。
この艦の運命を知る者は誰一人としておりませんでした。
とうとう、近づいてきましたね。
工期の問題や予算の問題・・・根本的に設計の問題もありましたが、一つ一つクリヤーされてきましたね。
次回が待たれます・・・・がゆっくりでいいですよ。
9月以降は本当に不定期にならざるを得ない状況です。
その際には本編でお話しようと思っております
そして建造の話は進水までと考えております。
販促(販売促進)部でしたから、酔漢さんとは違って「ソフト面」でしたが。
それでも図面とにらめっこしてパネルや掲示板などの販促物の大きさや位置決めに苦労しました。
壁面の冷蔵ケース(中野冷機さんでした)に取り付ける鮮魚のパネルとかですね。
案外、私の担当した販促物を見てませんか?
しかも艦体構造の一部になっていたということは、装甲板がビームになっていたのですね。
ビームを最上甲板にしなかったというのは、やはりトップヘビーを避けるため。復元性を確保するためだったのでしょうか。
ボイラーとエンジンを搭載してから装甲版を取りつける・・・
だとすると改装工事ではないにせよ、
罐や主機械を換装しないといけない損傷を受けた時でも「修理不可能」ということになってしまいます。
大和の設計陣や海軍当局は、そのリスクを承知していたのでしょうか。
「大和は不沈」と信じて疑わなかったのでしょうか。
「不沈」とは「不沈化」であって、「不沈」という事実ではありません。
用兵者の「信仰」ならともかく、技術者である設計陣が「不沈」と信じていたとは思えないのですが・・・
それと大蔵省の話が出てきましたね。
大和型の機密を保持するために、海軍はお金の面でも苦労したそうですね。
戦艦一隻で○○円・・・見る人が見れば、予算額で大きさの見当がつくんだそうです。
それで何隻もの艦艇に分けて予算を請求したのだとか。
本文では技手と明確にはしてませんが、古川さんと御同様、呉海軍工廠生え抜きの技手(ぎて)だったと推察いたします。多川弘さんの事は、前間孝則氏が著されました「戦艦大和誕生」にかかれていたものを、抜粋ご紹介いたしました。吾々第三世代がそろそろ大和の事、そして私は遺族の一人として先の「坊ノ岬沖海戦」を次世代に伝えていきたい。こした思いから、ブログを認めました。遺族では、茂木航海長、野津兵曹長のお身内の方から連絡を頂戴しております。
御連絡、本当に感謝しております。古川さんの場合阿川弘之さんが著された「戦艦長門の生涯」に詳しく書かれており、そのお仕事の内容を把握することができました。多川弘さんのお名前は、この書にはなく、やはり先にご紹介いたしました「戦艦大和誕生」で確認した次第です。まずは、この本のご紹介をいたしましょう。
http://homepage2.nifty.com/Tetsutaro/Writer/M/M063.html
こちらをご覧ください。確か、この程文庫にもなっております。今手元になくて、お爺様がどこに書かれているのか、お知らせできないのですが、主人公「西島亮二」の右腕的存在であり、先の工程表(西島カーブ)は西島の立案であるけれども、お爺様がいなかったら出来なかったことだと理解しております。戦後、この生産方式はトヨタ自動車が採用するなど、日本の技術革新に大きく貢献していると思います。お爺様のお力によるところが大きいのかと思っております。
また連絡先などお知らせくだされば幸いです。
このブログ左側「アクセス状況」の下に「メッセージを送る」とありますが、これは非公開で私のアドレスに繋がります。他にお爺様の事を知る手がかりがないか、私も調べてみます。まずは宜しくお願い致します。