酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ある友人の手記 その十四

2011-05-30 09:29:09 | 東日本大震災
彼の思いを受け止めながら、そして、一日に数十回も更新させていることに罪を感じながら「くだまき」を続けております。 さて二週間目から三週間目の話だ。  少しずつだが仙台の町は動きだしてきた。  ガスは止まったままで、相変わらず風呂には入れないが、JR線も一部開通し、臨時バスも増え、多くの会社も動き出した(ほとんどは後片づけだが)。 ようやくコンビニが店を開けた。正確に言えば、もう少し前から開いてはいたが、レジの一角でわずかばかりのおにぎりやパンを売るだけで、無くなればすぐに閉店。一時間にも満たない開店時間だった。店の棚は驚くほど本当に空っぽだった。飲料の棚にはなぜか缶コーヒーだけが少し残っている。余裕のある時には売れ筋の缶コーヒーも、のどの渇きに水代わりを求める状況では人気薄らしい。その状態から少しずつ物が増え、日中は開店できる状況になった。棚は通常時の五割に満たないだろうか?でも三週目には販売メニューに肉まんが増えた。  僕の実家である塩釜市へもようやくバスが往復三本通るようになった。しかしそれに乗るのは難しい。普通に並んでもなかなか乗れない。JR仙石線は沿岸部をつなぐ線路のために壊滅的である。仙台市内以外は復旧の目途がまったく立っていない。その本塩釜という駅は毎日おおよそ七千人の利用者があり、ほとんどが仙台へ行く。当然乗れない人が多く出るが、車両もガソリンもなく増便は出来ないという。形は整ってきたが、中身はまだまだ厳しいという感じである。  テレビで東京のガソリンスタンドにならんでいた若い男が、「まだ三十リットル入っているけど不安で入れに来た」と語っているのをみて、呆れてものが言えなかった。後に知った事だが、震災十日後に東北六県(日本海側を含めてだ)で開いていた給油所はなんと四パーセントだったそうだ。東北すべてでそうなら、被災地の中はほぼゼロだったと言っていい。まさに完璧な隔離だ。  でもまあ、これだけ繁栄した物の溢れる国で、一週間がんばっても食べ物にも困るなんて、なかなか想像できやしないだろう。僕だってそうなって初めて知ったのだから、少しばかり想像力の及ばない若者がいても仕方がない。  いずれにせよそれは被害の少なかった仙台の内陸部の話である。もっと内陸の白石市に住む知人は、僕の体験にすら驚くほど物資不足で困ったりはしなかったそうだ。それは近所の農家などが食糧を分けてくれたからだ。僕の住む辺りにもまだ農家がいて、家のそばにコイン式の野菜販売機があり、妻もそこでネギを購入したりしている。生産地と近い所は災害に強いという事だろう。改めて物流に頼る都市の脆弱を感じてしまった。 ともあれ沿岸部は何ひとつ進んではいない状況が続いている。実家の方も電気以外はいまだに何も復旧していない。ましてもっと被害が大きかった石巻や気仙沼などは、行政や復旧スタッフ、ボランティアも頑張っているが、それでもなお放置されたままと言ってもいい状態だ。 いつの間にかマスコミでは、福島県以外の被災地は「復興に向かって」という言葉と共に、終わらせようという流れに見える。事実、どこかがやった世論調査では政府の原発対応については十分でないと答えた人が過半数を越えたのに、震災対応については評価する声が約六割もあった。いったいどこをどう評価しているのか具体的に聞いてみたい気持ちになる(四月半ばになると世論は大きく評価しない方に変わった。良きにつけ悪しきにつけそれもマスコミの影響力だ)。震災に関わる法案はまだ一本しか通らない(それは四月半ばを過ぎてもそうだ)。阪神淡路大震災の時に比べてあまりにも遅い。超法規的な措置や行政の枠を越えた対応が必要な時期にきているのに国がまったく動かない。国がやった事は自衛隊を送り込む命令をしたくらいだ。そんな事はその立場にありさえすれば誰にでもできる。 また目に見えない悲劇が続く場所と、目に見える惨劇に襲われた場所。どちらがよりひどいのか比較するのは馬鹿げているけど、その状況には質の違いがある事は分かっておいた方がいい。たとえば死者・行方不明者数(警察庁への届け数)について、三月末の数から四月末を見比べてみると、岩手県は7956人が7698人とあまり変わらないのに対し、福島県は5824人が2572人と半数以下に減っている。宮城県は逆に14129人が15343人と増加している。これは福島県がいかに原発事故による混乱の中で避難したかが分かる数字だ。後になって行方不明の届けを出した者の無事が確認されているために、総数が減っているのだ。普通ならばこの時点での行方不明者は発見イコール遺体であり、総数は変わらない。一方の宮城県はいまだに死者も行方不明者も全容がつかめず、いかに津波の被害が大きかったを示している。  それは災害の違いを浮き彫りにしているように思える。  福島原発の影響がよほど心配なのか、首相はいちはやく福島県入りをしたが、宮城県に入ったのは随分と後の事だ。福島県の約六倍に及ぶ犠牲者が出ている最大の被災県である宮城県を飛び越えて、岩手県にも早めに訪れている。その両県を合わせたよりも宮城県の犠牲者数は多いのにだ。リーダーシップを見せたいのは分かるし、生きている被災者に言葉をかけるのを優先したいのも分からなくはないが、首相には犠牲者を悼む心が欠けているように思える。ちなみに天皇陛下が被災地訪問で最初に向かったの宮城県だった。別に天皇家を持ち上げるつもりはないが、長い歴史を背負い、国家安寧のために祭礼を尽くしてきた一族だからこそ、この国に生きた人たちをまずは弔う気持ちがあったのだろう。傷んだ魂を鎮める事は、傷んだ心を静める事になると僕は思う。  福島原発は今の時点でもどうなるかは分からないが、プルトニウムが漏れだしている以上、メルトダウンしているのは確実であり、土壌や水の汚染も酷い状況なので、やはり原発周辺は当分の間、人が住めない地域になるだろう。政府は科学的予測を元にはっきりとそれを言うべきだろうと思う。政治の役割は未来を指し示す事にあるのだから。いずれにせよ長期化するのは間違いないので、住民は避難というよりも移住という選択に限りなく近くなる。農業や畜産の人が多い福島にとって、大地は生活の基本である筈で、そこから追い出される形になる苦悩は大きい。難しいのはとりあえず放射能漏れが止まらないと、どこまでのエリアがどの程度難しいのか確定できない事だ。でもそこは政治的にではなく、科学的かつフェアにやらないと、新たな水俣や四日市を作り出しかねない。 しかしそれらは原発近郊の住民の話であり、何百キロも離れた町の人たちが右往左往する必要はない。  原発不安の多くは、科学者や専門家の「ただちに影響はない」とか「ほとんど影響はない」といった曖昧な言い方にあると一部のマスコミは言うが、むしろこの場合は曖昧な方が正確な筈だ。数学であれ物理であれ絶対性は否定されているし、現象の本質は確率論になる。科学の「ほとんどない」は普通の人間生活においては、「ない」のと同じである。非常識で極端な仮定を行わない限り「ない」のだ。現代人の中にそんなに破天荒な人間がいるようには思えない。それが伝わらないのであれば、この国の科学教育は失敗だったのかも知れない。ただ政治家が科学技術者と同じ言葉で説明するのはお粗末だ。科学の仮定を政治家が逃げ道に使い、都合の悪いところは隠蔽するから、正しい情報さえも信じてもらえなくなる。科学技術の問題と政治の問題を同列にしてはまずい。 妻の知人で栃木に住む方のおじいさんは、出荷停止になった野菜をばりばり食べているそうだ。「どうせ年寄りなんだから、食ったところで寿命になんか関係ない」と言っているとか。田舎のおじいさんの方が、科学的に正しい選択をしているのが可笑しい。まさにそういう事だ。人が三百歳まで生きられるであれば年寄りにも影響はある。だが「ほとんど」の人はその前に寿命を迎える。あえて「ほとんど」と言うのは、可能性だけならゼロではないから。それが科学だ。そこが分からないならば、この国の科学教育とは何だったのだろうと思わされる。まあ、あまり学校に行かなかった(体が弱かった以上に不登校でもあったので)僕が偉そうに言う事ではないのだろうけれど。  原発問題は自分の思惑で、過大な方か過少な方か、極端な方向に煽る人たちが、よりパニックを助長しているのは明らかだ。劇作家の野田秀樹は某雑誌の原発事故に関する扇動的な記事に抗議して、自分の連載をやめたそうだ。野田氏自身は扇動にのらず冷静にと訴えていたのだが、それに反して雑誌側は不要に扇動的だったらしい。せめて世論に向けて言葉を発信する人たちは、野田氏のように自分の言葉に責任をもって欲しいなあと思ったりする。  風評被害も広がっている。買い占めてみたり、買い控えてみたり、随分と忙しい話だ。地図帳くらい広げてみれば、原発から見て高い山々の向こうにある会津地方の作物が、同じ福島県だからといって売れなくなる理由が理解できない。その面積は東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県を合わせたよりも広いのだから。 外部被曝と、経口による内部被曝は危険度がまったく違うという人もいる。それはそうだろう。ふぐの毒だって、口にしなければ死にはしない。だが日々、僕らが口にしているものすべてが、そんなに安全なものばかりなのだろうか?合成着色料や合成保存料そのものがどういうものなのか見に行ってみるといい。合成着色料なんてチョークの粉かと思ってしまうようなものだ。食品を綺麗に見せるための漂白剤には過酸化水素が使われたりしている。僕はそのタンクの下にあるコンクリートがこぼれた液で溶けているのも見たことがある。農薬はどうだろう?アメリカから輸入される食品などはポストハーベストですごい事になっている。ダイエット用で定番の人工甘味料だって発ガンリスクについてはまだ両論がある。それをみんな普通に食べている。とりあえず「ただちに」問題ないから口にしている。  健康志向の影響かも知れないが、世界最長寿国の日本人は錬金術師のように、あるいは秦の始皇帝のように、ある意味で無限の生命でも求めているようにさえ見えてくる。錬金術というと物を金に変える術だと思っている人が多いけれど、それは目的に至る過程で起こる現象であり、究極的には不老不死の薬を作るのを目的としている。始皇帝は徐福という人物に不老不死の薬を探させようとした。今の日本人も限りなく長生きするために、生命や健康に対する脅威はすべて排除すべきと考えているかのようだ。しかし酸素という反応性の高い危険なガスで呼吸をしているヒトという生物は、その時点で大きなリスクを負っている。たとえば鉄は酸化すれば錆びて朽ちてゆく。そういえば昔流行った松本零士の漫画「銀河鉄道999」で、永遠の生命を求め、機械の身体になろうとする主人公の名前は「鉄郎」だった。その行く末はネジだ。まさに大きなリスクである。 いずれにせよ消費者は最終的に自分の哲学で選べばいいとは思う。ちなみに僕はフランスのワインはずっと買わないようにしている。一九九五年にフランスが原爆実験再開を宣言した事へのささやかな抗議のためだ。外で誰かに勧められたりしたら断らないけど、進んで自分からは買わない。それがささやかな僕の哲学である。きっと乳児がいれば政府がどう言おうとあえてヨウ素入りの水は飲ませないだろう。でも自分は飲む。それもささやかな原発への抗議のためだ。僕ならそうする。もちろんそれを誰かに押し付けるつもりはない。  ただ忘れないで欲しい。リスクはどこにでも転がっている。タバコによる肺ガンの方のリスクは四倍、咽頭ガンなら喫煙者は三十倍以上のリスクだ。お酒だってガンのリスクを高めるのはWHOの疫学研究で分かっている。脂肪の取り過ぎだってそうだ。何でもリスクを怖れるならば、交通事故のリスクを避けて外には出ない方がいい。そんな付和雷同は哲学ではないし、単なる無知の開き直りも哲学ではない。僕が言っている哲学というのは、自分がこの世界にどうコミットし、どうリスクを引き受けるかという話だ。過去と未来とが互いに否定し合いながら結びつき、現在から現在へと次々に結びついて行く。それは西田幾太郎の哲学をつまみ食いしたような言い方だけど、僕はそういうものなんだと思う。  風評被害を苦にしてすでに自殺した農業生産者もいるそうだ。二本松市の百年以上続く老舗旅館が風評によるキャンセルで営業を諦めた。国立福島大学では放射能が怖くて入学辞退者が二桁になっているという。日光の旅館ですらがらがらだそうだ。日光東照宮は江戸の鬼門封じのために築かれたのだし、江戸に邪悪なものが入らないようにしたものだ。もしも東京に住む人がたくさんお参りすれば、都民にとって何かしら御利益があるかもしれないと思うのだが。 最もひどい話は福島県と聞いただけでばい菌扱いする人まで出ているらしい事だ。それは風評と言って済まされる話ではない。  無知は、時に罪だ。 せめて僕は潜在的な加害者にならないために、やれる事をやろうと思う。  ネットの論調などでは、福島県は県発を誘致し、様々な利益を得ているののだから、一方的に被害者扱いはできないというものがある。  それはその通りだ。  少なくとも県と誘致した自治体には、国と同等の責任があるだろう。誘致していない自治体であれ、東電に関わる経済効果は相当なものである筈だ。それは個人においても同じだと言える。浜通りには震災「被災者」の他に、原発「被害者」がいる。そして東電との利害関係者も少なくはない。それらが複雑に入り乱れていて、沖縄の基地問題のように難しい問題になっている。部外者の僕にはどうこう言えないなと思える。しかしその外側にいる「風評被害者」はまた別だ。確かに県民としては原発誘致による恩恵の一端を間接的に受けているかもしれないが、それは電力の受益者である関東圏の人たちほどの恩恵ですらない。前にも触れた通り、福島は大きいし、色々とひとくくりには出来ない県だ。東電からの利益は、中通りや会津にはほとんど及んではいない。それなのに同じ福島というだけで被害を受けているのだからたまらない。  こうして整理してみれば、福島に降りかかった災害には多くの「人災」要素が混じっている。それに比べて宮城や岩手が襲われたのは純粋に「天災」だ。「人災」は「天災」と切り離せばいい。それは人と人との話し合いだ。人と天とは話せない。そこを分けないとこの「天災」で何が失われたのかは分からなくなる。  どこもかしこも多くのものを失った。  だからといってみんな一緒ではない。  ひとつひとつの悲しみには質の違いがある。  そして永遠に失ってしまったものは何だろう? その違いをすべて一緒にしてしまうのは、暴力だ。

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