スピリチュアリズム・ブログ

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【スピリチュアリズムの12の救い】(12)宗教は必要ない

2011-01-24 00:07:10 | 高森光季>スピリチュアリズムの12の救い

 スピリチュアリズムの立場から言えば、人間にとって必要なことは、自らが霊魂であることを自覚し、霊的成長の道を進むことを願い、そのための行為を実生活の中で(できる範囲で)なすだけです。
 どこかに出かけて、像やシンボルに祈る必要はありません。罪の償いや幸運祈願のためにお金を積む必要もありません。組織に入る必要もありませんし「○○教徒だ」と名乗る必要もありません。宗教を名乗る組織や人が脅しのようなことを言って来ても、耳を貸す必要はまったくありません。
 苦しい時は自らの守護霊に祈り、あるいは訴えればよいだけです。苦行をしたりお供えをしたりする必要もありません。
 宗教的な行為をするなということではありません。祈りや修行や会合が役に立つこともあるでしょう。しかし、宗教に過度に依存したり、偏った思考や行動に陥ったり、他者に強要したりすることは、霊的成長を阻害する危険性があります。
 肝心なことは、自らが霊魂であることを自覚し、自他ともに霊的成長の道を歩むように、努力していくことです。
 イエスの言葉に「神を冒涜する者は許される。人の子を冒涜する者も許される。しかし聖霊を冒涜する者は許されることはない」というものがあります。これを改めて言い直してみましょう。
 「神がどうこうなどというのは信じなくていい。宗教なんかは糞喰らえで結構。けれども、あなた自身が単なる脳の中の電気信号でしかないというように自己否定をするのは、決して許されるものではない。」
 宗教でも神学でもなく、あなた自身を、この物質世界を超えた聖なるものと見なさなくてはなりません。それが可能であれば、形式化された宗教など必要はないのです。

 《われらは火炎地獄の如き作り話に見られる神の観念を否定する。贖罪説の如き伝統的教説に代わりてわれらは、より清き、より理性的教説を主張する。要するにわれらは霊性を基盤とする宗教を説くものである。死物と化せる形式主義、生命も愛もなき教条主義よりそなたたちを呼び戻し、霊的真理の宗教、愛に満ちた天使の象徴的教訓、高き霊の世界へ誘なわんとするものである。そこには物的なものの入る余地はなく、過去の形式的ドグマも永遠に姿を消す。》(モーゼズ『霊訓』11節)

 《硬直化せる神学、人間の発明せる用語にて勝手に規定せる頑な信仰、その道より外れし者は神より見離されると説き、一字一句たりとも動かし難き教説――これらはみな人間的想像の産物であり、羽ばたかんとする魂を引き止め、地上にくぎ付けにせんとする拘束物であると言うのである。そのような宗教を教え込まれるまま受け入れ、自由を束縛されるよりは、背後霊のみを指導者として自ら迷い、自ら祈り、自ら思考し、自ら道を切り開くことによりて真理の日の出を見るに至る方が、どれだけよいか知れぬ。その迷いの道がいかに苦しくそして長く、頼りとすべき教義がいかに乏しく、且つ心を満たしてくれずとも良い。冷たき風に吹きさらされ、嵐に吹きまくられ、身の細る思いをする方が、息苦しく風通しの悪い人間的ドグマの中に閉じ込められ、息を切らしつつ魂の糧を叫び求めても、与えられるものが石ころの如き古き教説であり、化石の如き人間的無知の産物でしかない生活よりは、遙かに良い。複雑怪奇にして魂の欲求にそぐわぬものを不用意に受け入れ、試練の場であるべき地上生活を無為に過ごし、死してその誤りに気づいて後悔するよりは、たとえ単純素朴であっても背後霊の直接の働きかけによりて、自分なりの神の観念のもとに生き、神の息吹きを受ける方がどれほど良いか知れぬ。己に正直であること、そして恐れぬこと、これが真理探求における第一の条件である。これなくしては魂は羽ばたくことが出来ぬ。そしてこれさえあれば必ず進歩する。》(モーゼズ『霊訓』18節)

      *      *      *

 スピリチュアリズムの霊信で説かれる「生き方」は、何ら特殊な修行生活ではなく、むしろ平々凡々たる道徳的生活です。それは平凡であるがゆえに逆に難しいものかもしれません。

 《徒らに沈思黙考に耽り、人間としての義務を疎かにする病的信仰は、われらは是認するわけにはいかぬ。……われらが目を向けるのは実際的生活であり、それはおよそ次の如く要約できよう。
 父なる神を崇め敬う(崇拝)……神への義務
 同胞の向上進歩を手助けする(同胞愛)……隣人への義務
  (意見を異にする人に寛大であること、他人の疑わしい言葉や行為を好意的に解釈すること、人との交際において親切であること、報いられると思わずいつでも人を助けること、振る舞いが丁重で優しいこと、目的の正直と高潔さが愛情ある親切と忍耐で和らげられていること、人の悲しみを理解しうる同情心をもつこと、慈悲・哀れみ・優しさを持つこと、それぞれの領域の権威に対する敬意、また弱者の権利に対する敬意を持つこと。)
 身体を大切にする(肉体的養生)……自己への義務
 知識の獲得に努力する(知的進歩)……自己への義務
 より深き真理を求める(霊的開発)……自己への義務
 良識的判断に基づいて善行に励む(誠実な生活)……自己への義務
 祈りと霊交により背後霊との連絡を密にする(霊的修養)……自己への義務
 以上の中に地上の人間としての在るべき大凡(おおよそ)の姿が示されておる。》(モーゼズ『霊訓』8節)

 《幸福は努力を通してのみやってくる。すなわち、感覚的な快楽への惑溺を叡智をもって抑制すること、肉体を健全に発達させるための運動をすること、精神の進歩のための勉学、そして他人への寛大さや慈愛ある見方をすること、などを通して幸福はやってくる。これらの進歩が霊の発達を促すのである。》(『不滅への道』第22章)

 《皆さんの進む人生の道とは、自分ひとりの喜びのためだけでなく、世のため人のため、その幸福のために尽くすこと、またすべての生命の霊的進歩に貢献することです。これこそ、神が魂の上に課した責務です。すべて世の進歩というものは、神によって生きる個々の魂の上にかかっているからです。》(『ホワイト・イーグル霊言集』72-73頁)

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 以上、「スピリチュアリズムの12の救い」というテーマでまとめてみましたが、これはあくまで一つの立場からの「試み」「紹介」であって、スピリチュアリズムの「正式な見解」といったものではもちろんありません。何も感じられない部分は無視していただければ結構ですし、ほかにも「救い」として提示できる事柄はあるかもしれません。ただ、スピリチュアリズムの側から、こういう訴え方をすることは時として有意義ではないか、と思う次第です。


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1 コメント

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さっそく・・・ (JIJIRO)
2011-01-24 08:56:58
高森さん(様はかたっくるしいので勝手にさんづけにさせてもらいましたm(__)m) いつもありがとうございます。
今までの分をずっと纏めさせてもらっていましたが、さっそく kindle に流し込んで、炬燵にあたってじっくりと読ませていただきます。

楽しみ楽しみ。
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