スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

「汝の敵を愛せよ」への道、「キライ」から「ニガテ」へ

2010-08-29 23:58:57 | m.taizo>スピリチュアリズム周囲
出会うと気まずくなるような相手って、これまで何人ぐらい作っちゃったかなあ。
今さら後悔しても始まらないわけですけれども、愚者を自認する者として、同じ過ちを繰り返さない為には敗戦記念日のように折に触れて思い返す機会があっても良いかな、なんて思ったりもします。記念日が多くなりすぎると鬱陶しいですけれども。

いくら当たり障りのある私のような人間であっても、いい加減いい歳したオッサンになってくるとトラブルを避ける処世的な技術をちょこっとは会得するようになるものでして、かなり苦手なタイプと対面してさえも実際に気まずい人間関係にまで発展することはさすがに減ってきます。これは人間的な成長(シルバー・バーチ的に言えば霊的成長)とはまったく縁の無い話でして、むしろ本音の自分を偽るゴマカシの成果ではないかと自覚させられることが珍しくありません。

私にとって「汝の敵を愛せよ」という言葉の素晴らしいところは、厳しいけれども絶対に不可能とまで言い切れないところでしょうか。ゾッとするような凶悪犯、虫唾の走る誰かさんをあえて思い浮かべてみたりすると、拒否反応とともに「ムリ!」と叫びたくなる衝動に駆られたりするわけですけれども、たとえば「百メートルを10秒以内に辿りつかないと殺す」などという条件を突きつけられた場合にはほとんどの人類は生存への一縷の望みさえ絶たれるわけですけれども、「汝の敵を愛さねば、殺す」と銃を突きつけられて脅されれば、「とりあえず、やってみます」ぐらいのことはどうにか言えるはずでして、実際にいくらかでも「愛する」ことに近づくことは、自分比としては可能でしょう。「愛する」まではムリであっても、憎悪に近い悪感情から脱する第一歩ぐらいは踏み出せそうな気がします。

そのような感情を持つことが必要なのかどうか、相手が愛情を求めているのかどうかといったことはとりあえず別問題で、そうした精神的な負荷を自分にかけておかないと、私自身の霊的な成長はなされないだろうという自覚が心のどこかにあるようです。欠点を持つ他者をその欠点ゆえに否定するのは簡単なことで、簡単なことというのは簡単であるゆえにたいした価値がないだろうという思いも私にはあります。憎悪と愛情は対極にあるはずで、その両極のみを見つめてアタマで考えると絶望的なまでの距離ですけれども、その両極は無数の段階を経て実は繋がっているわけです。想像力と共感力を駆使することで少しでも愛情の側に近づくことは、少なくとも原理的には可能なはずです。以下にシルバー・バーチの言葉を引用します。

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 人生は比較対照の中で展開しております。光も闇もともに神を理解するうえでの大切な要素です。もし光と闇とが存在しなければ、光は光でなくなり闇は闇でなくなります。つまり光があるから闇があり、闇があるから光があるのです。同じく昼と夜がなければ昼は昼でなくなり夜は夜でなくなります。愛と憎しみがなければ愛は愛でなくなり憎しみが憎しみでなくなります。その違いが分かるのは相対的だからです。しかし実は両者は一本の棒の両端にすぎないのです。元は一つなのです。しかしその一つを理解するには両端を見なければならないのです。それが人生です。光と闇の両方がなければなりません。温かさと寒さの両方がなければなりません。喜びと悲しみの両方がなければなりません。自我を悟るにはこうしたさまざまな経験が必要です。   『シルバー・バーチの霊訓(一)』近藤千雄訳 四章より
 
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 「コインの裏表」という比喩もシルバー・バーチはしばしば使うのですけれども、「一本の棒の両端」のほうが私にはイメージしやすかったので引用しました。何かを批判否定する際に、自分とはまるで違ったものとして見做しがちですけれども、同じ一つの棒なのだという認識を持てれば、自戒にもなるような気がします。

もう一つ、以下に引用します。

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 私はかつて一度たりとも神が光と善にのみ宿ると述べたことはないつもりです。善と悪の双方に宿るのです。無限絶対の存在である以上、神は存在の全てに宿ります。宇宙間の出来ごとの一部だけを除外して、これだけは神とは別個のもの、何かしら、誰かしら、とにかく別種のエネルギーの仕業であるなどとは言えません。私はいつも宇宙は全て両極性によって成り立っていると申しております。
 
 暗闇の存在が認識されるのは光があればこそです。光の存在が認識されるのは暗闇があるからこそです。善の存在を認識するのは悪があるからこそです。悪の存在を認識するのは善があるからこそです。つまり光と闇、善と悪を生む力は同じものなのです。その根源的な力がどっちへ発揮されるかは神のかかわる問題ではなく、あなた方の自由意志にかかわる問題です。そこに選択の余地があり、そこに発達のチャンスがあるということです。 
 地球は完全な状態で創造されたのではありません。個々の人間も完全な状態で創造されたのではありません。完全性を潜在的に宿しているということです。その潜在的完全性が神からの霊的遺産であり、これを開発することが個人の責務ということです。それには自由意志を行使する余地が与えられています。善か悪か、利己主義か無私か、慈悲か残酷か、その選択はあなたの自由ということです。ただし忘れてはならないのは、どちらの方向へ進もうと、神との縁は絶対に切れないということです。神の力とエネルギーと援助を呼び込むための手段は常に用意されています。しかしそのためには時には魂の奥の間に引きこもり、その静寂の中でできるだけ神との融合を保つことを怠ってはなりません。

 私たちは相互援助と相互扶助の縁によって結ばれ、お互いに役立つものを施しあっております。ここまで目を開かせていただいたことを神に感謝しましょう。これを土台として、私たちを創造し育み続けて下さる御力の存在を信じましょう。その御力が自分より恵まれぬ人々に施されるための通路となるよう心がけましょう。
             同じく『シルバー・バーチの霊訓(一)』近藤千雄訳 四章より

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「ただし忘れてはならないのは、どちらの方向へ進もうと、神との縁は絶対に切れないということです」というのは、物凄い言葉だと思いますね。しかも、深い。

十年近く前でしょうか、当時仲良くしていた人が、ひとさまに対するネガティヴな思いをはっきりと言わないんですね。処世術として好き嫌いを言わないという打算的なタイプではなく、むしろ私よりよっぽど繊細にあれこれ感受してるようで、時に落ち込んでたりする様子だったので無理に本音を吐かせようとしたことがあったのですが(おいおい・・・)、「・・・苦手」という言葉を引き出すのがせいぜいでした。

他者に対する「キライ」と「ニガテ」というのは、似ているようで大差があります。キライは単純な他者否定で、ニガテというのは自分にも矛先(目線)が向いています。趣味が合わないなどの生理的な距離に過ぎないかもしれず、もしかしたら自分の側に問題があるのかもしれない、そういう内省を含んでさえいます。「汝の敵を愛せよ」への道のりにおいて、私よりよっぽど先を行っていた人物だったなと今頃になってようやく気付いたりするわけですが、汝の敵を愛するは私の現状としておよそ非現実的ですけれども、とりあえず安易にキライを表明したりせずに、せいぜいニガテぐらいに留めておこう、最近はそのように心がけるよう仕向けているところです。

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8 コメント

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Unknown (paw)
2010-08-30 23:20:16
毎日会う人でも、毎日毎日を一期一会と思うの
はいかがでしょう?
潜在的に蓄積してしまうから、「キライ」とか
「ニガテ」に分類してしまうのでしょうね。
寝るときには、ゼロにリセットして、起きたら、ゼロからスタート。
その位デジタルでなければ、今の政治には参加
できません(爆笑)
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一期一会 (m.taizo)
2010-08-31 22:44:25
pawさん、コメントありがとうございます。

ネガティヴな意識を無駄に引きずっている場合には「一期一会」の思いでリセットするのは、大事かもしれませんね。

「今を生きる」「瞬間瞬間を生きる」「Be here now」といった言葉ももしかしたら近い境地を語っているような気がするのですが、過去から未来へと繋がる物語性として現在を生きつつあるニンゲンとしては、毎度毎度リセットして現在に没入するというのはなかなか難しいところもあります。
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憎悪 (へちま)
2010-09-04 13:38:02
「キライ」という感情を嫌悪することは難しいですね。以下はスエデンボルグからの憎悪に関する抜粋ですが、独特の不人気な表現が多いことを御容赦下さい。

憎悪は主と隣人に対する愛の反対のものであり、主と隣人への愛は人間のもとに天界を作るものであるため、憎悪は人間のもとに地獄を作るものであることは明白である。
 「あなたは殺してはならない」という戒めには二つの内意がある。
一つは道徳的な意味であり、「人間は、その兄弟または隣人を憎んではならない。かくて、その者を中傷したり、名誉を傷つけたりしてはならない」ということである。なぜなら、徳望と名誉を害うことは、その者の社会的な生命を殺してしまうからである。その者は下賎な者、邪悪な者の間に数えられて、誰も彼とは交わろうとはせず、後には死んだ者として社会の中に生きるのである。そうしたことが敵視、憎悪、復讐から行われるならば、それは殺人である。
二つ目の天的な意味は「人間は、神を信じる信仰と神への愛を人間から取り去ってはならない。かくて、その者の霊的生命を取り去ってはならない」ということである。これが殺人そのものであるのは、霊的な生命から人間は人間であって、身体の生命は霊的な生命に仕えているためである。さらに、この霊的な殺害から道徳的な殺害が引き出されており、人間の霊的生命を取り去ってしまおうと欲する者は、もし取り去れないなら、その者を憎悪する。なぜなら、彼はその者における信仰と愛とを憎悪し、その人間を憎悪するからである。
 憎悪は奈落の火であり、天界の火である愛が流れ入って、愛から発する光により人間に生命を与えることができる以前に取り除かれねばならないことは明らかであり、人間が憎悪は何処から発し、それはいかようなものであるかを知り、後にはそこから遠ざかり、それを避けない限り、決して遠ざけられることはできない。
人間各々は自己と世を求める愛の中へ生まれ、その結果隣人への憎悪をはらんでおり、そこから自分と一つになって自分の愛を支持しない者たちに反抗して燃え上がり、特に自分の欲念に対立する者たちには燃え上がるからである。なぜなら、誰一人あらゆる物にまさって自分自身を愛すると同時に主を愛することはできないし、世を愛すると同時に隣人を愛することはできないからである。憎悪は全ての者を支配することを求める愛の中にいる者らのもとに特に存在している。
(3) 善い者たちのもとに悪に反抗して憎悪し、その結果、怒るように見えるものが在るが、これは憎悪ではなくて悪に対する毛嫌い(反感)であり、またそれは怒りではなくて、善に対する熱意であり、その内には天界の火が隠れているのである。なぜなら、善い者は悪から遠ざかって、外見では隣人を怒っているように見えるが、そのことは彼らが悪を取り除くためであり、かくて彼らは隣人の益を顧慮しているのである。
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Unknown (m.taizo)
2010-09-05 19:18:56
へちまさんへ

コメント&スウェーデンボルグ引用ありがとうございます。考える機会になります。

先月、キューブラーロスの本を買う際に同じ棚にあったスウェーデーンボルグ『霊界日記』(角川文庫)が目に止まり、ついでに購入しました。膨大な日記からの抄訳のようですね。

その世界観をまだ掴めていないのもありますし、読解力や情熱が足りていないところも大きいのですが、クセのある文章で、ところどころ面白さに引き込まれかけるのですが、いたるところでつっかえてしまい、なかなか読み進めることが出来ません。

へちまさんの引用されている箇所も、はっきりと意味がつかめないところもあるのですが、(3)以下のところはカルデック『スピリティズムによる福音』(幻冬社ルネッサンス)でも似た言葉がありました。
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 他人の行動に向けられる非難は、二種類の力によって引きおこされます。悪を抑圧しようという力と、行動が非難されている者に対する不信を強めようという力です。後者であれば、そこには悪意や中傷しか存在せず、弁解の余地はありません。前者であれば賞賛されるべきものともなり得、特定の場合には、人にやるべきことを指示することができます。なぜなら、そこから結果的に善が生まれるはずだからであり、また、そうでなければ社会というものは決して悪を排除することができないからです。人間にとってその同胞の進歩を助けることは必要ないのでしょうか。必要であるがゆえに、「人に裁かれないよう、人を裁いてはなりません」という考えを、まったく文字どおりに受け取らないことが大切なのです。  『スピリティズムによる福音』第10章より
               
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これは通信霊からではなく、カルデック本人の言葉ですね。いかに振舞うか、という時に、善悪の問題は切り離せないようです。身近な他者という閉じた関係性を超えて、視点を公共にまで広げていくと、「隣人愛」もなかなか難しいものがあるようです。簡単な公式はありえず、良心の導きみたいなものをアンテナにするしか無いのかもしれません。
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m.taizoさんへ (へちま)
2010-09-05 21:33:45
善悪の問題は難しいですね。特に宗教的な事項に関しては神の啓示に依らなければ分かりません。
私はスエデンボルグやシルバーバーチなどは一連の啓示だと思っています。
スエデンボルグの本は独特な構成と表現のため難解なのですが、慣れてくると内容の豊かさと深さに驚きます。
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へちまさんへ (m.taizo)
2010-09-12 18:51:23
果たしてスウェーデンボルグの「内容の豊かさと深さ」が自分に沁みて来るのかどうか、意識を傾注していない今の段階では判断しようもなくて、まともに返答が出来ず申し訳ありません。

ただ、へちまさんのおっしゃる「神の啓示に依らなければ分かりません」ということが、スウェーデンボルグなりシルバー・バーチなりの言葉をあらかじめ“啓示”と認定したうえでモノサシにするという手順になってしまうと、自身の置かれた複雑な現実に対して単純化された危なっかしい当てはめ方をしかねないなと、自戒しております。

とはいえ、“教条主義批判”を盾に、シルバー・バーチなどの言葉を自分にとってとことん都合よい方向にカスタマイズ(歪曲)して、あちこちから引っ張ってきたもっともらしい言葉をツギハギして自己満足するよりは、「これだ!」と直観で思い定めた存在を“盲信”“教条主義”“洗脳”と誤解されるぐらいの真剣さでいったん刷り込んでいったほうが、後々身になるとも思っているのですけれども。

スウェーデンボルグが私にとってそうした対象になり得るのかどうか、現時点ではわからないという話に戻ってしまうのですが。
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m.taizoさんへ (へちま)
2010-09-12 19:42:55
スウェーデンボルグの啓示は、自分の置かれた複雑な現実に対して、具体的な対処方法を示してくれるようなものではないと思っています。
私も、読み始めた頃は、人間が救われるためには具体的にどうすればよいかを明示してある部分を探したのですが、見つかったのは十戒に示される悪を避け、働くことの喜びを感じることができるように内面を整えるということだけでした。
内容の豊かさと深さが素晴らしいと感じる点は、神を中心として一つに繋がった世界の仕組みが良く分かることです。
自分が信じられないことを、無理やり“盲信”“洗脳”しても意味がないと思います。自分の理性で内容を吟味し、真実で美しいと感じるものを信じるのが良いと思います。
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追伸 (へちま)
2010-09-12 20:53:38
スウェーデンボルグはスピリチュアリズムとは異なり、善を行うことを推奨していません。本物の善は神に依らなければ普通の人間にはできない、という考えに基づいているようです。
このため、「善悪の問題は難しいですね」という感想を述べました。社会的なレベルでも善悪の判断は難しく、さらに宗教的なレベルでの善悪に関しては難問です。
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