どうも大きな問題にぶち当たった感じがしてます。
それは「厭世主義」というものについてです。
これについては以前「イデアとしての厭世主義」という記事を載せました。そこでは、思念・思想としての厭世主義を、仏教との関わりで考えてみたのですが、この問題はもっと広くて深い拡がりを持っているように思えてきました。
よくわからないことだらけなのですが。
* * *
「この世が、人生が、好きですか?」
この問いに皆様はどう答えますか。
いろいろな答えがあるでしょうけれども、「好き」「おおむね好き」「いろいろ問題があるけど嫌いではない」というような答えをする人は多いのではないかと思います。
逆に「嫌い」「基本的に好きではない」と答える人もいる。たぶん少数派ではないかと思います。実際にアンケートをしたことがないのでわかりませんが、私の感覚では、多くて15%、少なければ5%くらいではないかと。
この「嫌い」派を、仮に「厭世主義者」としてみます。
厭世主義といっても、いくつもの相があるように思えます。
①災難、不運、挫折、失敗などによって「厭世」になった人(後天的厭世主義者)
②いろいろな思想体験を経て、思想としての厭世を取った人(思想的厭世主義者)
③生まれつきというか、魂の色合いとして厭世的である人(先天的厭世主義者)
(なお、自分や境遇に対して文句ばっかり言っている人がいますが、こういう人たちが必ずしも厭世主義者であるとは思えません。けっこう生きること自体は好きなようです。そういう人たちはむしろ「愛情不足病」とか「幸福否定病」と捉える方が的確なように思えます。)
①の中には、本当に絶望に打ちひしがれた人もいるでしょうが、状況が好転すれば「人生肯定派」になる人もいるようです。自分の心持ちを変えることでそうなる人もいるでしょう。②というのは本当にいるのかどうかわかりません。③の人が、自然の成り行きとして思想的厭世主義者になるということは充分考えられます。また、本心はそうでもないのに、何らかの事情でそう振る舞っている人もいるかもしれません(「無常」と言いつつ現世欲ばりばりの宗教者とかw)。
問題は、③の、生まれついての、あるいは根本的な人格の色合いとしての厭世主義者がいるということです。まあ正直言うと、私自身もこの部類に入るかな、と。
この「真性厭世主義者」は、「どうやってもこの世が好きになれない」という人たちです。不遇とか挫折とかは関係ない。仮に非常に恵まれた境遇にあっても、「この世は嫌い」。
こういう人たちの中にもいろいろな部類があるでしょう。
厭離の思いがものすごく強くて早くに自殺してしまう人もいる。一応人生に踏み出してはみるものの、「不適応」を起こして引き籠もってしまう人もいる。社会に出て人並みの生活をして、あるいはけっこう成功して、それでも厭離の思いが消し去れない人もいる。
実際のところ、この世に生まれた人は、ほぼすべて、社会に出て人並みの生活をするよう仕向けられます。それを促す動因もたくさんある。物欲、名誉欲、性欲(恋愛欲)、権力欲……。
真性厭世主義者も、そういった動因を総動員して(お、シャレか)、どうにかこうにか社会生活を営むようになる。仕事に就いて、結婚して子供をもうけて、必死に生きる。その間は、厭世主義などとは言っていられません。無理やり巻き込まれるように生のごたごたに入り込む。そしてしばしば素晴らしい喜びを味わう。恋愛・結婚に成功したり、社会生活上のご褒美が舞い込んだりする。
でも、その底には、冷たく動かない水塊のように、厭世感がある。この世への厭離の思いがある。
ごく普通の生活をして、それなりに幸福そうだった人が、ある日突然、蒸発・失踪してしまう、という事件が世にはごく時たまあるようです。
これ、ひょっとしたら、一生懸命普通の生活をしていた厭世主義者が、何かの拍子で、自分の内奥にある水塊に落ち込んでしまった。そして文字通り世を離れてしまった。そういうこともあるのかもしれません。
まあ、単に神隠しなのかもしれませんが(笑い)。
* * *
厭世主義者がなぜ厭世なのか。
これがよくわかりません。
弱いのか。肉体的・精神的に弱いということか。
そうなのかもしれません。でも、この強弱というのは何でしょう。
エネルギー? 確かに肉体や魂にエネルギーの強弱はあるようです。
でも、弱い者が必ずしも厭世主義者になるわけでもないような気がします。
強い厭世主義者、弱い現世愛好者もいるような気もします。
感受性が繊細で傷つきやすい?
これはけっこうあるように思えます。汚いもの、粗いもの、邪なものをあらゆるところに感じてしまう。自分の内側にも。また、人の心に過敏であると、それがトゲのように感じられる。
「呪われた詩人」という言葉があります。彼らはこの上ない美を受け取ると同時に、厖大な醜を見てしまいます。そのゆえにこの世に生きることは苦痛となる。「決して幸福に人生を終えられそうもない」というのが、彼らの感想です。
過度の理想主義というのもあるかもしれません。
この世は美醜・善悪・真偽のごった煮です。それは理想主義者にとっては耐え難いカオスとなるでしょう。
耽美主義者はその典型でしょう。彼らは美の中に浸っていたい。美以外のものを見たくない。場合によっては醜や悪の中にも美を見いだす。彼らにとって最大の敵は凡庸かもしれません。
欲張りということなのでしょうか。
あるいはイデアに憑依されてしまっているのでしょうか。
ほかにもあるかもしれません。
たとえば、決定的な「負の刻印」を背負っているとか。
しかし、厭世の冷たい水塊は、そうした分析のさらに奥にあるような気もします。
この世への違和感。「これではない、違う」という感覚。
これは魂の病なのでしょうか。それとも何か意味のある境域なのでしょうか。
* * *
なかなか正体のつかめない問題ですが、一つ、はっきりしてきたことがあります。
それは、「厭世主義者」と「非・厭世主義者(現世愛好者)」とは、互いに理解し合えないのではないか、ということです。
現世愛好者には、厭世主義者の心の風景がわからない。何をそんなにうだうだしているのか、さっぱり理解できない。
厭世主義者にも、現世愛好者の心の風景がわからない。どうしてそこで満足していられるのか、さっぱり理解できない。
たとえば、厭世主義者には、ファミリー・ドラマとか人情ドラマというのは、面白くない。現世愛好者には、哲学的な主題を扱った物語は鬱陶しい。
グノーシス=カタリ派には、正統派がなぜ地上に教会を建てようとしているのかがさっぱり理解できない。逆に正統派はグノーシス=カタリ派がなぜ現世を放棄しているのかがさっぱり理解できない。
浄土を激しく求める仏教徒は、法華信者がなぜ地上の仏国土にこだわっているのかがわからない。法華信者は浄土信者がなぜ自殺するのかがわからない。
こういう「互いに理解し合えない」対立というのは、ほかにもあります。
たとえば、「内向」タイプと「外向」タイプは「互いに理解し合えない」とユングは言っています。その通りだと思います。いろいろな場面で、このことは痛感してきました。
「理想主義的左翼」と「現実主義的右翼」も、そうかもしれません。たぶん。
こうした「相互理解不能性」は、あまり論じられることがないように思います。ユングの主張も、まともに取り上げる人はあまりいません。気付かないのか、タブーなのか。
とすると、この世に「普遍的な」思想とか世界観とかいうものは、ないということになる。(事実認識の共有というのはもちろんあるでしょうけれども。)
厭世主義的思想と現世愛好的思想は交わることはなく、内向的世界観と外向的世界観も交わることはない。
同じ名前のもの――たとえば仏教とかキリスト教とか――を見ても、厭世主義者と現世愛好者とは見ているものが違う。内向タイプと外向タイプとは見ているものが違う。
そんなことがあるのではないでしょうか。
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当然この世を仮想現実と言う理論は大嫌いですよ。