今度、どこ登ろうかな?

山と山登りについての独り言

中央アルプス 木曽駒・将棋頭山・茶臼山

2005年11月20日 | 山登りの記録 2005
平成17年9月9日(金)

   はじめに

中央アルプスには登ったことがない。千畳敷への駒ヶ岳ロープウェイがあるせいで、木曽駒は観光地になっているということが一番の理由だ。とはいえ、規模こそ劣るが南北アルプスに匹敵する高山であるから、やはり魅力はある。日帰りで行けそうなルートを探していたら、古くから登られている伊那からの道は、今でも地元中学生の集団登山ルートとして実際に登り続けられている木曽駒でも数少ない足で登る登山コースなのだそうだ。

今回翌日が休みということで、この長いアプローチとロングピストンを決行することにした。とはいっても、実のところ車の往復に時間がかかるから、木曽駒まで何が何でもではなくて、将棊頭山と茶臼山だけでもイイと思っていたのだが…。将棊頭山や茶臼山は後日あらためて登るという機会もそうないだろうから、アルプス日帰りピストンのいいターゲットだ。ここまでなら登り4時間半だから、大したことはない。

 出 発

前夜、少し早く出発する予定だったが、結局9時近くになってしまった。いかんせん夜中に飛ばしても相当に遠いから時間がかかるわけで、早立ちは必須だったのに…。この前の八ヶ岳の時は道を間違えたとはいえ、今回よりも大分手前であるにもかかわらず、夜中の2時を回ってしまったのだから。そんなわけで先が思いやられたが、今回取るコースは内山→麦草→杖突の3峠を越えて高遠から伊那に入るのが、距離や道路状況から最短と思われた。ルートを詳細に検討したせいか、高遠に意外に早く着いて、伊那市内までは順調にやってきた。問題はここからだった。どこを探しても、登山口の桂小場へのルートが見つからない。

最近登山口を見つけるのに毎回苦労している。それで時間ロスをする事が多いが、事前にいくら調べても現地の状況はつかみきれないから、これはやはり一番の難題だった。今回もかなりうろうろして、ようやく目的地を見つけるポイントである小黒川キャンプ場という所への道を見つけた。しかしその道は辿ると、しまいに田舎の集落の中に紛れて消えてしまった。なんとかトラップのような袋小路から抜け出し、大きな絵看板の記載を目当てに見当を付けて、また再びそこへの道を見つけ出した。こんな風で、道路地図を見たのでは少しも分からないのだった。実際には地図の地名なんか道路標識には無いからだ。迷った割には2時少し過ぎたくらいで、どうにか登山口の駐車場に辿り着いた。今は星空がキレイだが、明日の朝にならなくては先の天気は分からない。4時半に携帯のアラームをセットして寝た。

目が覚めたのはアラームが鳴る少し前だったが、まだ真っ暗で星が出ていた。それほど寒くはないが、またシュラフを被ってもう少し時間を待った。この駐車場に到着したときは一台も車は無かったが、今もやはり車は来ていなかった。4時半を少し回り、周囲がほんの少し明るくなり、もはや暗闇ではなくなった。カレーパンとクリームデニッシュパンを少し食べて支度をし、出発することにした。今回、春頃ネットで買ったデイパックに靴は先月買ったモントレイルという会社の軽ハイキングシューズ(おニューだけど…)で必要最小限の荷物と軽い靴で万全。

 登山道に入ります

5時04分に「西駒登山道入口」という小さな看板のところから山道に入る。登山道入口の向こう側に四阿があったのは見たが、まだ暗かったのでそこへは行かなかった。帰ってきてから良く見たら、その四阿に登山者カード入れがあった。

「西駒」という名称だが、甲斐駒を東駒ヶ岳というのに対して、地元では木曽駒を西駒ヶ岳というようです。最後まで西駒ヶ岳というのは将棊頭山辺りの別名かと思っていたが、考えてみれば将棊頭山や西駒山荘は木曽駒の東にあるのだから、理屈にあわないのだった。下山してから知った。そういえば去年登った甲斐駒を登山口の長谷村では東駒ヶ岳と呼んでいたのに、どうしてそれに気づかなかったのかな?西駒山荘付近をきょろきょろして「西駒ヶ岳」という山を探してしまった…アホだぁ。

山の名前について考えさせられる、特に地域や地方を限る大きな山の場合、山のこっちと向こうでは違う名前で呼んでいたりすることも多いものだ。その名前も、例えば甲斐駒とか木曾駒とか地方の名前がその頭についている様な場合、甲斐(山梨)の人は納得しても反対側の長野の人たちは「甲斐の駒ヶ岳」では面白くない、山の半分は長野県の敷地で信濃の国なのだから。そして、一般には木曽駒ヶ岳と呼ばれているもう一方の駒ヶ岳は木曾地方の人たちには良いとしても、同じ長野県とはいえ伊那地方の人たちには受け入れられない名称なのだろう。つまり、一般的には(国土地理院が採用している)甲斐駒ヶ岳と木曾駒ヶ岳は、伊那地方の人たちには「東駒ヶ岳」と「西駒ヶ岳」と、何が何でも呼ばなくてはならないアイデンティティがあるのだろう。

あまり人が歩いていない気配の、やや下草が被さり気味の道を少し登ると、直ぐに水路式発電所の金属製の大きな配水管が出てきて、おやっと思ったが、そこにまたあった標識の西駒登山道の矢印に従って再び樹林の細道になり、今度はジグザグを切って登るようになった。登山道は概ね緩い登りでジグザグを繰り返している。大分明るくなり足元もよく見える様になったので、ヘッドランプは消してザックにしまった。「ぶどうの泉」という札が下がった水場でペットボトル1本給水した。もう1本は途中のコンビニで買ったレモン紅茶(ちょっと甘過ぎ!)を半分入れてきたから、これが空っぽになったら上の水場で入れることにした。空気はひんやりして登りの身体には心地よいが、緩いとはいえ登りっぱなしの道を続けると、やはり汗もかくし心臓の鼓動も早くなるのだった。 

足元に梨の実?と思って転がっている沢山の木の実を見た。薄暗い森の中の道で拾い上げたが、大きさこそピンポン球ほどの、それはまさしく梨の実だった。ヤマナシなのだろうか?アオナシの方が甲信地方には多いとか?食べても不味いそうでカラスもかえりみないらしい。どうでもいいけれど、こんなに沢山自然に落ちてきたのだろうか?手に取ってみたところでは、まだ完全に熟している様には見えなかった。

緩いとはいえ、いつまでもいつまでも登り続ける道に少しへたばってくる頃。誰が付けたかしれないが、さっき登りだして直ぐから50㍍高くなるごとに標高を表示したプレートがある、それが1,600㍍を越えた頃に次の水場(野田場という名前)があった。ここはぶどうの泉に比べて水量が乏しい(帰りにはちょろちょろになっていた)が、ワンカップのコップがあったので一杯、旨かった。野田場からも、急な登りは無くむしろ緩くなったような道が上に向かっていた。雑木から檜の植林を過ぎ、いつの間にかブナにシラビソが混じりだし、下生えは笹に変わった。樹間から上の稜線が見える、森林限界を超えている雰囲気なのであそこは将棊頭山かなあ?と見上げるがよく分からない。

あまり急な登りもない変わりに、休むのに適当な場所もなく(横山分岐と権兵衛峠分岐があったが、ただの分岐地点)惰性で登り続けているとやや広い斜面の上に赤いトタン屋根が見え、そこが大樽避難小屋だった。避難小屋そのものはいくらか前に建て直したようだが、中を覗くと湿った空気がよどんだ狭い板の間があるだけで、快適にはほど遠い。とても好きこのんでコンナ所に泊まる気にはならない。手前にあった丸太造りの便所は覗くのもおぞましかった。2つの建物は半ば笹藪に埋もれ気味で、最悪の緊急事態用と言うところだろうか?たぶんこのコースの行程から考えてもここに泊まる必然性はなさそうであった。親切にもポップな書体で水場を案内する看板が、にょっきりと笹の間から出ていた。

 樹林帯をどんどん登ります

さて、ガイドブックにあるようにここからがこのコースの正念場、「胸突き八丁」の始まりで、やや急な登りの始まる笹の切り開きに大樽小屋と書かれた標柱には「胸突き八丁」と行く手を指した矢印が付いていた。休まずにその胸突き八丁を行く。でも、名前ほどの急な登りはいくら行っても現れなかった。先日の台風で洗い流されたのか、登山道は表土が無くなって滑りやすくなっていたが、しまいには花崗岩の風化した砂に変わりざくざくという感触になった。六合目という看板とベンチがある小平地に着いて、登りだしてから初めての休憩を取った。ケータイが繋がったので家に電話をする。クリームパンの残りとチョコレートひとかけ、揚げおかきを食べた。水を飲んだら少し元気になった。

概ね歩きやすい登りで、一向に胸を突く様な急登にはならない。それはそれで、却ってペースが速くなりがちで、いつもの「ゆっくり休まず」のどこまでも登っていけるマイペースを崩し気味になっているのだった。ついつい息が上がり、脈拍も速くなり、汗でびっしょりになってしまう。ガイドブックの写しと地図を見ると、まだまだこの先がありそうだが、次のポイントである「ヒカリゴケ・津島神社」を過ぎれば稜線まで目星が付きそうだ。

まだ胸突き八丁の登りが続いているようだが、やはり胸を突くような急登は最後まで現れず、ハイマツが出てきたなと思ったらいきなり目の前に「胸突きの頭」という標柱が立っていた。この場所はまだ見晴らしのないハイマツや、ミヤマハンノキにぐるりと囲まれている。右手に行者岩への道が分かれているが、ここには×マークがあり、木を横にして通せんぼしてあった。その茂みを一段上がると青空の下、一気に展望が広がった。本当にわーっという歓声を上げたくなる様な一瞬だった。広い谷の空間の向こうには、木曽駒ヶ岳が大きくわだかまり、大様な山容を見せていた。

 中央アルプスの稜線に立った

ここには分水嶺の標識があって、将棊頭山山頂への道と西駒山荘への道、そして反対側に大変魅力的に見えるハイマツの海に聳えるオベリスク・行者岩への道の三叉路になっていた。行者岩は円錐状に盛り上がったハイマツの頂上部分に、花崗岩の岩塔をいくつも鶏冠のように並べ立てていて、こうしてここから見ていると、どうしてもあの上に行ってみたいと思う様なピークだった。白砂青松の光景がこのなだらかな稜線に続いている。鳳凰三山や燕岳周辺を思わせる、風化した花崗岩が露出した独特の造形をあちこちに見せていた。行者岩は、ここに来て実際に見て「いいなあ」と思った。「なんとか山」とか「なんとか岳」とかの名前が無いと何となく山という雰囲気ではないのだが、地図で見ても実際にこうして眺めても立派に一つの山だ。今回目的の山の一つにしていた茶臼山は、中央アルプスの最北端(経ヶ岳を起点にする場合もある)の2,500㍍超えの一峰だけれど、実際に見た感じでは茶臼山と行者岩は一つの山であり双耳峰ともいえる。標高は行者岩の方が若干高いのだった。今回もし木曽駒までは無理としても、ここは絶対はずせない。

稜線に出たとたんに、写真を撮るものが沢山あって、当然足は遅くなった。遙かに見える木曽駒の、その山頂部には早くもガスが湧き出してきて、もう何時間もしないうちにその頂上を覆ってしまうだろうことが予想される。遠くに見えるはずの南アルプスや御嶽山も雲に隠れて見えなかった。上空は抜けるような青空だし、下界も陽が差して明るく見えているが、こういう天気の時は昼前から山の頂上部だけが雲の中に没することが多い、この日も実際にそうなってしまった。

分水嶺(後で地図を見て調べたら、天竜川支流の源と犀川支流の源が、この山稜の東と西から始まるので確かに分水嶺だった)から将棊頭山へは思ったよりも距離があって、緩やかにいくつもの小さなコブを越えていった最後の花崗岩の小山が頂上だった。将棊頭山の山名とその説明が書かれた白い標柱が立っていた。ややうす茶色の花崗岩が風化した砂の周りをハイマツが囲み、そこここに花崗岩のオブジェがあった。直ぐ下に西駒山荘が見え、そこから南の方にもなだらかな支稜が続き、一番端のピークの上に幾つものポールが立っている様子が見えた。西には木曽駒山群が大きいが、木曽駒と中岳・宝剣岳は既に湧き出したガスに覆われて隠れ気味で、伊那前岳と馬の背はまだどうにか全部が見えていた。

時間を確認したら9時を回っている、分水嶺まではかなりハイペースだったが、稜線に出てからガクッとペースが落ちて遅くなってしまった。展望がいいのでデジカメで写真を撮りまくっていたせいだが、状況を考えれば、いつまでも見えていそうもない景色を記録に残しておきたかった。この将棊頭山周辺は喧噪の木曽駒とは別世界のようだ。登山道も余り人に歩かれていないようだし、まだこの時期平日とは言え朝から全く人に会わない。足で登るという当たり前のことが、楽な方法ができると、こうして歩く人も希な静寂境になってしまうのだろうか?このまま先へ進めば、木曽駒に近づけば、直ぐにそんなものは霧散して喧噪のアルプス観光地が現れるのだろう。緩やかに繋がる馬の背の稜線は将棊頭山から一度たわんで再び盛り上がるが、それはそれは遙か遠くに見えるのだった。別にそんなことを考えていたわけではないが、遙か彼方に見える木曽駒を見ていたら、気持ちが萎えてきて、あそこまで行かなくてもいいや、という思いが強くなった。そこで、この将棊頭山の頂上で、のんびりゆっくりしようと思った。ここでゆっくりした後、茶臼山を往復しても大分余裕を持って帰途につける。この時はそう思って、取りあえずしゃけおむすびを食べたのだ。

 気持ちの良いプロムナードだ

木曽駒はいいとしても、有名な遭難慰霊碑くらいは見ておこうと思った。先を見透かすが、頂上を下った直ぐ下にヘリポート?(ヘリコプターに付ける荷物と思われるものがブルーシートにくるまれ青くみえている)みたいなものは見えるが、その先にあるのか、遭難碑は見えなかった。9時23分だった。頂上を駆け下り、緩やかな稜線をしばらく辿ると、花崗岩のあちこちに宗教登山のなごりの石碑や何かがあった。花崗岩の上面に水盤のようにきれいに丸く穴が開いて、そこに澄んだ水が湛えられた珍しい岩があった。これはおもしろいなと思ったら、その岩はちゃんと名前が付けられた名所らしかった(天水岩という名前)。平らな広い稜線をなおも進み、「なんだ、結構将棊頭山から遠いな…」と思う頃、大きな岩が横たわったそこが遭難慰霊碑だった。木曽駒側に回り込むと大きな岩に遭難記念碑と大きく彫ってあり、隣の小さな岩に謂われが詳しく書かれてあった。大正時代に地元の中学校の生徒と教員11人が遭難死した事を悼んで作られたもので、この話が新田次郎の「聖職の碑」のモデルだそうだ。映画化もされたので名前は知っているが、不幸にしてその作品は読んでいない。将棊頭山と馬の背の鞍部に当たるここは広く平らな稜線が白砂青松に彩られ、木曽駒ヶ岳を大きく望む景観の優れた地点だった。それにしても、そんな風に遭難事故があっても、今だに地元の中学校では「西駒ヶ岳登山」が、当たり前のように行事として受け継がれているのだ。その方が凄いことだな、と感心した。また、地元で木曽駒ヶ岳(西駒)がそれだけ郷土の山として愛され、信仰されている事の証拠だろうか。地元で西駒という場合、木曽駒ヶ岳一峰を指すのではなく、木曽駒山群とも言うべき木曽駒ヶ岳・中岳・宝剣岳・伊那前岳などを引っくるめて呼んでいるようだ、確かに将棊頭山あたりから眺めたこれらの山はいくつかのピークを持つ一つの大きな山に見える。

聖職の碑まで来たら、もうそこからは緩い登りが馬の背まで伸び、今そこをゆっくりと登っている一人の人が見えた。朝から初めて見る登山者だ。何となく行くともなく、緩く広い稜線をそのまま進むと、将棊頭山の頂上部も随分遠くに見えるようになり、馬の背の尾根は小山のように盛り上がって既にここが最低鞍部であることを知った。すぐ先に濃ヶ池に下る分岐の標識が見えてきた。ここから木曽駒の山頂部はもう見えない。でも、ここまで来て木曽駒を登らずに引き返したのでは何だかもったいないような気もしてきた。ここから登り1時間半も掛からないだろう。この後何時登る機会が来るかは分からない、折角登っても今の状況では、頂上からの展望はもう望めそうもなかったが…。時間を確認すると、もし木曽駒まで行くとすれば、ギリギリタイムリミットと言って良い。最初の予定では10時半に山頂に着ければいいな、と思っていたが既にそれは無理。11時には何とか着けそうだ。どうしても今回登っておきたいと思うようになってきた。そう決めたら、後はスパートをかけた。直ぐそこに見えていた登山者は、明らかにロープウェイで来た年配のハイカーだった。濃ヶ池を周遊するルートを辿って、またこれから木曽駒に戻るようで、大変スローなペースで登っていた。軽くかわし、もうほとんどガスに包まれて周囲が余り見えなくなってきた馬の背から頂上への最後の登りを行く。花崗岩が、がらがら積み重なった岩尾根を息を切らせて登るのだが、次から次から下って来る軽装のハイカーが、ことごとく自分の行き先の確認を尋ねてくるのには閉口した。自分がどこにいてどこを歩いているのかも分からない人たちばかりのようで、いくらロープウェイでお気楽ハイキングとはいえ、一応は高山で、危険もある山域なのだからそれはないでしょ…。

 木曽駒に到着です

11時前(10時50分)に山頂に着いた。全くガスに包まれて展望は無い。三角点の回りに石垣囲みの神社が2つ、展望周囲盤と山名の標柱だのいろいろなものがある。もっと沢山の人がいると思ったが、意外に少なくて10人前後の人間しかいない。でも、ちょっとの間にまた人が入れ替わるから、続々とやって来て交代して下っていくような感じだ。この天気で眺めも無いから、山頂でゆっくりしている人はあまりいないようだった。写真を数枚撮り、歩いていないと半袖では少し寒いので、石垣の陰で風をよけて休んだ。チョコレートと揚げおかきを少し食べて、ほんの少し休んだだけでまた下りに掛かった。

馬の背を下ってくると、ガスの固まりを抜け、つまり雲から出て晴れてきた。でも眺めはもう余り良くはなかった。山の頂上部に厚くなってくる雲の先が、稜線全体を包みがちになってきたからだ。濃ヶ池分岐までは観光客プラス程度のハイカーがまだぽつぽつといたが、分岐を過ぎ将棊頭山の下まで来たら、また静寂で美しい無垢のアルプスを独占できるようになった。西駒山荘に寄ってみたが人気はなかった。その小屋の人らしい人影が、ちょうど将棊頭山の上からこちらに向かって大きな荷を背負って下ってくる姿が見えた。荷揚げをしてきたのだろうか?この小屋は伊那市営だが、管理人は何と信州大学の寮生が請け負って居るのだという。小屋の貼り紙を見ると7月中旬から10月の頭まで有人の小屋だそうで、後の期間は無人の避難小屋になるようだ。帰りにこの小屋に立ち寄ったのは水を得るためだ。小屋から将棊頭山の巻き道方向に少し進むと、「天命水」という名の水場がある。しかし、ここの看板は何故か「天山水」となっていた。ガイドブックにも、西駒山荘のホームページにも天命水とあるから、そちらが正しいのだろう。ハイマツの茂みの中から湧きだした水が、一度水槽に貯められて、またそこから塩ビのパイプを伝って流れている、水量は余り多くはない。飲んで特においしいとは感じなかった。水を汲んで、巻き道を分水嶺に向かった。

 行者岩と茶臼岳も登りたい…

あまり歩かれていない風な感じの巻き道を巻き終えると、分水嶺の看板の三叉路にひょっこり出た。時間は既に12時半を回った。今回何が何でも茶臼山のピークを踏んでおきたい。どっちでも良かった木曽駒登頂の代わりにここに登れないのでは本末転倒?(木曽駒が末で、茶臼山が本か?…それも変だが、楽に登れる山は価値も低いかな)だ。ところが、この時天気は悪くなりそうな雰囲気になり、オマケに小雨までぱらついてきたから少しためらった。行く手の行者岩はガスに隠れ気味になって結構遠くに見えている、茶臼山は更にその奥だ。でも、意を決して、やや藪っぽいルートに向かって行った。とにかくもう時間がない、この時点でかなり疲労していたが立ち止まることもなく、ピッチを上げて進んだ。行者岩には分岐から10分ちょっと、茶臼山に25分ほどで到着した。急いだのでさすがに疲れた。

茶臼山の頂上には結構立派な祠があって、消えて読めなくなってはいたが、山名の標柱もあった。この山は中央アルプスの北の起点なのだから、北側から見れば一番里に近い高峰なのだった。残念ながらここも既に雲の中になって、全く眺めはなくなっている。行者岩は側に来ると、大きな花崗岩の固まりが積み重なるようにハイマツの上に散乱している様な所だった。岩と岩の間に人が入り込めるような穴が沢山あって、荒天時にはいいビバーク場所になるだろうな。ここでも残念ながら眺めは得られなかった。

行者岩も茶臼山も、ただでさえ人が少ない桂小場ルートの静寂境にあって、更に訪れる人も少ない「静かなる山」だった。ロープウェイで登れる山をわざわざ下から足で登って、その上更に派生した尾根に取り残されたようなピークにまでやってくる人は少ないのだろう。強行軍で少々バテ気味だけど、ここまで往復できて本当に良かった。懸念した天気も、これ以上悪くなることもなさそうで(下界は晴れているのだから当然か?)行者岩から分水嶺三叉路に戻る手前で、やっと少し安堵して休憩した。まだ残っている、おかかおむすびを食べる。本当のところ、折角持ってきたカップそばを食べたかったが、おむすびを買いすぎて、まだ2つも残っていたからしょうがない。(それにしても、山ではよく食べるなあと呆れる)のどが少し嗄れているせいか、おかかおむすびが少しも旨くなく、やっとこ水で流し込んだ。人心地が付くと、あとは一気に下るのみ。確かに下から胸突の頭まで3時間半登ってきたその登り、下るのもそう楽ではない。でも、行きにも感じたが、この桂小場コースはかつての木曽駒メインルートだけあって傾斜も少ない道が、登り易くて割合楽な印象だ。名前こそ胸突き八丁なんて所もあるが、それほどでもなかった。

 後は降るだけ

文字通り一気に下りまくった。あちこちにキノコが生えていたが、近頃は既知のキノコでも毒茸扱いになる時代だから、自信のない針葉樹林帯のキノコには手が出ない。途中の水場で若い男性が2人がいたから、おやっと思った。身なりからして登山者ではない、その上「登山道は荒れていませんでしたか?」なんて聞いてきます。2,3日前に台風が通過して、この辺りも雨が沢山降ったようだ。でも、なんでそんなこと聞くのかなと思っていたら、駐車場に伊那市役所の車が止まっていたので、ああそういうことか…市役所の職員が見回りにやってきたもののようだ。

結局帰りも、登山者には会わなかった。アルプス日帰りピストンにしては疲労度も低く、標高差の割には案外楽なコースだなと思った。もうすぐで終わりという辺りで気づいたが、このルートは上り下りが一定して、下りなのに登ったり、登りなのに下ったりすることがほとんどなくて、非常に効率のいいルートだ。3時半に登山口に戻ってきた。分水嶺分岐を1時20分に出たから、2時間10分で下った。

帰路は遠いが今回は走行ルートをかなり研究してきたから、時間も思うほど掛からないのだった。高遠で「さくらの湯」に入り、茅野でほか弁を食べ、麦草を越え、混雑を避けるためなぜか田口峠から南牧経由で帰った。どうにか10時少し前に帰宅できた。高速だと変に遠回りになって、ちっとも早くないのにお金ばかりかかる。家からこの方面はやはり遠いなあ。

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