昭和63年7月24日発行の「遙北通信」第65号にも、平出一治氏は「昭和の道祖神」建立の現場を報告いただいた。原村南原で新たに建立された道祖神を扱ったもので、1メートル50センチ近くあるものは、確かに大きい部類に入る。何より専門の石工に頼んだのではなく、個人が彫ったというあたりが特徴的だ。報告内で注目されるのは、「像形を決めるのに、原村から富士見町の道祖神を幾度も見に行」ったということ。そもそもどういう像にするかについては、よそのものを参考にするのは当たり前のことだろう。そういう意味では、古い時代に造られた道祖神も、おそらく周囲のものを見に行ってはイメージしていったはず。今回の南原の例では本も参考にしたようだが、昔はそういうものはなかっただろう。周囲の事例を参考にすれば、結果的に地域性を生む。そのうえで独自性を表そうとする。現代の道祖神造塔の背景から、過去の造塔を想像できるというわけだ。
平出氏の報告は下記のようなものだった。
昭和の道祖神5 原村南原の双体像 (『遙北通信』65 昭和63年7月24日)
諏訪郡原村の南原は戦後に開拓された地区で、道祖神は公民館の庭に祀られている。安山岩の自然石に二神をレリーフしたもので、同質の台石上に鎮座している。二神の下に横書きで「道祖神」とレリーフされているが、古い双体像にはみられない手法である。
この双体像を知ったのは昭和五十九年三月に、同じ職場の平林とし美さんが、南原の森山勝さんが自宅で、道祖神を彫っている話をしてくれたことによるが、五月に森山さん宅で実見する機会に恵まれ、その大きさに驚かされた。六月四日に再び、森山さん宅を訪れ、聞きとり調査をさせていただいた。
森山さんは農業が主な仕事で、ブリキ屋もするとのことである。以前に餅臼を彫ったことがあるが、石工の技術は見様見真似で会得したとのことである。
像形を決めるのに、原村から富士見町の道祖神を幾度も見に行き、また、本を見ながら下絵を何枚も書いてみたとのことである。そして森山さんは、八ヶ岳山麓に祀られている双体像は皆同じで面白味にかけるが、富士見町南原山の双体像は現代風で良いと思い、それを参考にしたとのことである。
双体像を彫りあげるのに、どれくらいの時間を必要とするのか一切分からないまま、昭和五十八年一月に手をつけ、冬の間だけ作業をしたとのことである。タガネだけで彫っているが、タガネの焼き入れも自分で行ない、はじめは適度なタガネの硬さが分からなかったこともあり、作業は思うようにはかどらなかったようである。そして、完成まで後どれくらいかかるのかも分からないとのことであった。
道祖神の除幕入魂の儀は、昭和六十年十月十三日に、富士見町御狩野在住の伊藤次郎氏の手で執り行なわれた。
大きさは高さ百四十六センチ、厚さ四十八センチ。像高は男神が六十センチ、女神が五十三センチ。台石の高さは三十二センチを計る。
(写真撮影1986.12.29 平出一治氏)
※「遙北石造文化同好会」のこと 後編に触れた通り、「平出一治氏のこと」について回想録として掲載している。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます