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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

高遠町山室の獅子舞へ

2023-12-29 23:18:34 | 民俗学

 伊那市の広報に地域の公民館活動の紹介が掲載されていて、情報源として利用させてもらっている。新年1月号がコンビニに置かれていて、いつも通りいただいてきた。コンビニで各地の広報をいただいてくるのも、最近の習慣である。その1月号に山室地区の獅子舞の情報が掲載されていた。正月の元旦や2日に行われる獅子舞のことが書かれていた。山室は山を隔てれば山梨である。また北側は諏訪に通じる。山梨や諏訪では小正月に道祖神の獅子舞をするところがあちこちにある。以前「牧丘町道祖神祭りや、櫛形町の道祖神の獅子舞について触れている。諏訪の山の向こう側、旧和田村や旧長門町では、正月元旦を中心に、やはり道祖神の獅子舞が行われていた。このことも「和田村中組の獅子舞「長門町長久保の獅子舞などで以前触れている。ようは北や東の隣接地域に道祖神の獅子舞が盛んに分布しており、そうした地域の影響を受けている地域と、山室川の谷を捉えていた。記録ではこうした獅子舞は、旧長谷村あたりまで分布していたようだ。しかし、現在はほとんど実施されていないのだろうと思っていたら、広報の記事では山室の那木沢、宮原、新井、川辺で今も行われていると記されていた。

 ということで、今日長野まで葬儀に出向いた帰り道に、寄り道をして獅子舞の実施日時を確認して回ってみた。

 

 

 ところで、こうした道祖神にかかわらず、正月に獅子舞が行われる事例を『長野県史民俗編』からデータ収集してみた。ところが、県史から拾えるデータからできた分布状況は分布図の通り。ようは東信のみに分布が見られ、ほかの地域には記号が落とせない。今回は急いで作成したため、刊行された県史から抽出したもの。最近になってようやく始まった県史を編纂する過程の生データから抽出したものではない。そもそも「正月に獅子舞が行われますか」という質問がされたわけではない。したがってどこにそのデータがあるか、探すのにコツがいる。今回の分布図のほとんどのデータは、民俗芸能の章の「獅子舞」から抽出したもの。東信のみ正月の戸ごと舞として項目があり、そこから記号がたくさん落とすことができた。そのうえで、信仰の章の道祖神の祭りに記載されているものから「正月」と「二月八日」の祭りを抽出したわけである。あらためて県史のデータで確認して、補完する必要があるのだろうが、こうしてテーマに沿って図化しようとすることによって、県史では捉えられていない点が明らかになり、またまだまだ解明されていないことが多いことを知らされるわけである。

 いずれにしても、わたしの日記の中でも触れてきていることであるが、諏訪の道祖神獅子舞については、亡くなられた平出一治さんからいくつも報告を受けているし、山室から長谷にかけての獅子舞については、『長野県上伊那史』などに竹入先生によって報告されていた。こうした県史以外の情報も加えていかないと、実際の姿は見えてこない例を、ここにもひとつ見つけたわけである。

 さて、日時確認をしていたら、那木沢の獅子舞はYouTubeの「加農屋風田」さんのページに投稿されているという。

令和5年元旦の獅子舞い

令和3年元旦の獅子舞(獅子舞が復活した年のもの)

 

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富士見町の道祖神⑲

2020-06-05 23:13:04 | 民俗学

富士見町の道祖神⑱より

富士見町葛窪の道祖神

 

 甲六川の上流域には別荘地が展開する。そうした開発地を除くと、葛窪が集落としては最上流の集落にあたる。葛窪集落の上方に神明社がある。参道となっている階段の上り口に道祖神が祀られている。

 葛窪は以前触れた平出一治さんの暮らした集落である。“どんど火”で紹介したものは、平出さんが葛窪の行事を紹介されたものだ。昭和63年1月15日の夜に行われた同名行事のレポートで、復活されたものと言うが、復活以前の行事を知る人がいないため、もともとの行事名はわからないという。

 石祠型の道祖神が1基祀られているもので、銘文はなく建立年は不祥だ。しかし、比較的新しい(江戸後期か)ものかもしれない。側面には桐や菊花が彫られ、装飾が多い。屋根を支える支柱が左右どらも損傷しており、向かって右側は欠損している。正面には逆卍が上部に彫られ、左右には酒樽を意図しているのだろうか、装飾がある。そして、ここの石祠内にも双体像が内包されている。背丈はともに同じで、向かって左側の神像が徳利を持ち、右側の像に向かってお酌しようとしている。どちらが女でどちらが男かはっきりしないが、服装から、やはりお酌しようとしている左側が女神だろうか。風化による磨耗で表情ははっきりしないが、ふくよかでにこやかな雰囲気が漂う。

続く

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原村判の木の双体道祖神

2018-06-15 23:02:10 | 民俗学

道祖神祭りの幟より

 平出一治氏は昭和63年5月1日発行の『遙北通信』60号へ原村判の木の道祖神いて報告している。諏訪の昭和の道祖神の報告から見えるのは、戦後に開拓された村で盛んに道祖神が新たに祀られていることである。知る限りでは、戦後に開拓されたような村で、道祖神を新たに祀った事例を、ほかの地域ではあまり目にしない。諏訪らしい道祖神の動きと捉えられるだろうか。

 

昭和の道祖神4
原村判の木の双体像 (『遙北通信』第60号 昭和63年5月1日発行) 平出一冶

 諏訪那原村の判の木は戦後に開拓された地区で、道祖神は公民館の庭に祀られている。安山岩の自然石に二神をレリーフしたもので、同質の台石上に鎮座している。二神の右には「道祖神」と刻まれているが、古い双体像にはみられない手法である。
 二神の造形は、当地方に見られる古い双体像と同じで、新田開発村の道祖神とも言える。伝統が引き継がれたことは喜ばしいことである。
 大きさは高さ112cm、幅113cm、厚さ73cm、像高は男神43cm、女神42.5cmである。台石の高さは23cmを計る。

   銘文 (表面)道 祖 神
            昭和六十年十二月吉日

 

 ※「遙北石造文化同好会」のこと 後編に触れた通り、「平出一治氏のこと」について回想録として掲載している。

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道祖神祭りの幟

2018-05-19 23:37:11 | 民俗学

「昭和の道祖神」の始まりより

 平出一治氏は昭和62年2月14日発行の『遙北通信』28号へ道祖神祭りの幟旗について寄稿いただいた。実は『遙北通信』へ寄稿いただいたのは、この記事が最初であった。

 写真では紹介できなかったが、道祖神の獅子舞⑦で紹介した櫛形町下一之瀬の道祖神祭りにおいても、大きな幟があげられていた。やはり山梨県と諏訪地域、とりわけ同じ流域にあたる富士見町や原村といった地域は同じような道祖神祭りが伝わっているようだ。これほど大きくはなくとも、例えば同じ道祖神の獅子舞⑦で紹介した旧臼田町清川の祭りでも幟があがっている。八ヶ岳山麓周辺には道祖神の祭りに幟をあげるところが多いことがわかる。

 

道祖神のまつりの幟 (『遙北通信』第28号 昭和62年2月14発行) 平出一冶

 

 

 今年も1月14日に、八ヶ岳西麓に展開する富士見町・原村茅野市の道祖神まつり(どんど焼きの準備)を見てあるいたが一昨日の大雪のため、車を思うように駐車できなかったこともあり、満足できるものではなかった。

 昭和56年から自分なりに道祖神まつりの写真を撮っているが、年々新しい事実に接し驚いている。

 当地方における道祖神信仰は、古い形態をそのまま伝承しているとは思えないが、やはり一番身近な神であることには変わりないようで、今年は茅野市大塩で、写真でみるような「道祖神」(昭和61年丙寅年春)・「猿田彦大神」「天細め神」(昭和62年正月)と書かれた新しい幟に出会うことができた。写真以外にも新調された幟が建てられている道祖神場もあり、昨年まで見てきた江戸時代後期に作られた幟が見られなくなったことは残念であったが、新しい幟は、道祖神まつりが末長く続くことを物諮るものであり、うれしいことである。

 

 ※「遙北石造文化同好会」のこと 後編に触れた通り、「平出一治氏のこと」について回想録として掲載している。

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「昭和の道祖神」の始まり

2018-05-16 23:08:50 | 信州・信濃・長野県

富士見町御射山神戸の双体道祖神より

 平出一治氏が、「昭和の道祖神」と題して初めて『遙北通信』(遙北石造文化同好会)に報告文を掲載されたのは、わたしが同誌へ何度となく道祖神関係の行事を報告するようになってからの、昭和63年3月20日発行の第57号であった。諏訪地域に昭和建立の道祖神が多いことに気づかれて報告いただいたもので、以後平成6年5月1日発行の第141号まで、48回に渡って諏訪地域の昭和の道祖神を紹介いただいた。最初に投稿いただいたものが、下記のものであった。

 

昭和の道祖神1
富士見町富原の双体像 (『遙北通信』第57号 昭和63年3月20発行) 平出一冶

 諏訪地方の道祖神を見て歩き、昭和建立の道祖神の多いことに驚いている。それらを順次紹介してみたい。

 諏訪那富士見町の富原は戦後に開拓された地区で、道祖神は公民館の庭に祀られている。安山岩の前面を平らに研磨し、二神をレリーフしたもので、同質の台石上に鎮座している。二神の上には横書きで「道祖神」と刻まれている。古い双体像にはみられない手法である。

 大きさは高さ105cm、幅32cm、厚さ38cm。男女二神とも同じ大きさで像高は46cm。台石の高さは62cmを計る。

  銘文 (表面)  道祖神
             昭和五十七年十月吉日
                    富原区建之

 

 次いで「昭和の道祖神2」は前回の「富士見町御射山神戸の双体道祖神」で紹介したもので、第3回は第59号へ投稿いただいた下記のものであった。

 

昭和の道祖神3
富士見町南原山の双体像 (『遙北通信』第59号 昭和63年4月17日発行) 平出一冶

 諏訪那富士見町の南原山は戦後に開拓された地区で、道祖神は公民館近くの県道払沢-富士見線の路傍に祀られている。鉄平石(平板状)の自然石に二神をレリーフしたもので、安山岩の台石上に鎮座している。二神の彫りは極めて良いものである。二神の下には横書きで「道祖神」と刻まれているが、古い双体像にはみられない手法である。なお、女神の唇には紅がみられる。

 昭和五十五年に庚申塔建立に関する調査の折に、富士見町の植松石材店を訪れたとき、この道祖神を建てた話を聞いている。

 大きさは高さ130cm、幅126cm、厚さ38cm。像高は男神が43cm、女神が41cmである。台石の高さは58cmを計る。

 銘文(表面) 道祖神 (横書き)
    (裏面) 昭和五十三年十二月吉日
                南原山区建之

 

 これら昭和の道祖神のうち、とりわけ戦後に建立されたものは、いわゆる各市町村などが発行した石造文化財調査報告書には、未掲載のものが多い。もちろん報告書の調査がされた以降に建立されたものが未掲載のことは当然のことだが、そもそも「文化財」と銘打った報告書に、こうした新しいものを掲載することの是非も問われたのだろう。しかしながら前回も触れたように、すでに戦後半世紀以上を経過しており、気がつけば世の中は大きく変わり、建立後100年を迎えるのもそう遠くないことになる。「現代」であってもその変化は著しく、またその時々の人々の建立への思いは異なっていく。そう遠くない過去の時代のことであっても、実際の建立動機や、建立時の様子は、記録されていたとしても忘れられてしまう傾向がある。こうした報告が、後に意味あるものとして捉えられればありがたいことである。

 ※「遙北石造文化同好会」のこと 後編に触れた通り、「平出一治氏のこと」について回想録として掲載している。

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道祖神の獅子舞⑦

2018-05-13 19:39:26 | 民俗学

道祖神の獅子舞⑥より

 

 昭和63年2月7日に発行した『遙北通信』54号の「近況」にわたしは次のようなことを記した。

 小正月14日には山梨県中巨摩郡櫛形町と東山梨郡牧丘町を訪れ、道祖神の祭りを見学した。牧丘町は昨年に続き2度目であった。午後3時ころ塩平で当屋の家よりの獅子練りが始まる。今年は山梨文化財研究所の道祖神祭日ソシンポジウムの団体がバス3台ではいり、あまりの賑わいで祭りどころではなかった。鼓川一帯で行なわれる「やまたて」の中では最も手のこんだ飾りがされているのが、塩平のものである。前述の大文字の中で「きんちゃく」と称する財布を象ったものを、ここでは「とんぷくろ」と称している。練りの後、やまのたつ道祖神の前では獅子舞いが行なわれる。

 櫛形町では下市之瀬の道祖神祭りを中心に見学した。ここの獅子舞いは享保年間に始まるといわれ、町内では曲輪田(まぐわだ)にも道祖神の祭りに獅子舞いが奉納されている。下市之瀬のものは「八百屋お七」「梅川忠兵衛」などの演芸が獅子によって行なわれるという珍しいもので、長野県でも9月5日に木曽郡上松町若宮八幡社で行なわれる、芸ざらいで女形を獅子が舞うなど同様のものが見られるが、道祖神の祭りで見ることができるとは思ってもみなかった。

以上、櫛形町下市之瀬(昭和63年1月14日撮影)

 

 この近況から始まった「道祖神の獅子舞」の一連の記事だが、次号56号に平出一治氏は次のような報告をしてくださった。

 

原村柳沢の道祖神祭りどんど焼き (『遙北通信』第56号 昭和63年3月6日発行) 平出一冶

 諏訪郡原村では、昭和63年も道祖神祭りどんど焼きが、区単位で1月14日と15日の夜に行なわれた。この14日と15日の違いについては、古老たちは「昔は14日から16日の3日間行っていたものを、1日にしたとき、大久保・柳沢・八ッ手・柏木・菖蒲沢・室内・払択区は初日の14日に、中新田区だけが中日の15日にどんど焼きをするようになった。」と、話してくれた。

 なお、戦後に開拓された判の木・南原・上里の3地区、団地として誕生したやつがね区、また、観光開発の一環として誕生したペンション区は14日に行なわれた。

 3日間続けたどんど焼きを1日にしたこともあり、だるまやしめ飾りを山にして焼く古い形態のどんど焼きが伝承している地区もあり、他市町村のように円錐形の飾り付けをする地区はまだ少ないようである。

 さて、柳沢区のどんど焼きは、以前は道祖神場で行われていたが、南を流れる弓振川の川岸工事と道路拡張工事によって、道祖神場が狭められてからは、公民館の広場で行なわれるようになった。数年前から円錐形の飾り付けが作られているが、これといった呼び名はないようである。

 14日の夜7時前には子供達が集りはじめ、どんど焼きに火が付けられた。風のない静かな夜で、火と煙は真っ直ぐに上っていった。「パチ パチ」と、松葉の燃える音が、どんど焼きのムードを盛り上げていた。どんど焼きの火によって真っ赤に染められた子供たちの顔には興奮がみられた。

 火が一段落すると、手にした赤・白・青の繭玉を火にかざし繭玉焼きが行なわれた。どんど焼きの火で焼いた繭玉を食べると、1年間病気をしないといわれている。原村では養蚕農家がなくなってしまったが、豊量を願った繭玉が依然として作られている。これは信仰に違いが生じていることになろうか。

 どんど焼きのクライマックスは厄払いで、厄年の男女が広場にとめたトラックの荷台から、みかんや福銭などを投げた。それを追う子供たちの歓声でにぎわっていた。

 年々その方法に若干の違いはみられるが、道祖神祭りどんど焼きは受けつがれている。伝統の良さ、尊さを末長く続けてもらいたいものである。

 


 また、同じ56号にわたしは、次の報告を行っている。

 

正月の道祖神獅子舞 (「遙北通信」第56号 昭和63年3月6日発行) HP管理者

 正月に獅子舞いがやってくることは、昔はあったようで、舞うことにより御祝儀を乞う旅の者がいたという。

 現在、伊那谷で正月に獅子舞いが行なわれるのは、湯立神楽の中で舞われるものを除くと、伊那市羽広の獅子舞いぐらいで、特に獅子舞いといえば正月というイメージもない。

 ところが「遙北通信」46号で平出一治氏が、原村菖蒲沢の道祖神祭りに獅子舞いが行なわれていると報告があった。今まで「遙北」で八ヶ岳北麓の獅子舞いを紹介しているように、この辺りでは獅子舞いというと正月に訪れるものという感覚がある。村祭りに獅子舞いが舞われるかというとそうでもない。佐久から上田方面にかけての道祖神の祭りでは、そのほとんどが子供達による獅子舞いであった。

 長野県から山梨県に目を移すと、長野県八ヶ岳北麓ほどの獅子舞い分布はないが、各所に道祖神祭りの獅子舞いが行なわれている。東山梨那牧丘町に分布する獅子舞いは著名なものであり、また中巨摩那櫛形町下市之瀬や曲輪田などの獅子舞いも知られている。ただ山梨の方では大人が舞う場合がおおく、長野県でいう子供組習俗の行事とは異なっている。

 長野・山梨近辺の祭りを更に見学していく予定であるが、道祖神の祭りには種々様々なものがあり、各地にその特色を現わしたものが残っている。いずれにせよ、獅子舞いを道祖神の祭りに取り入れているのは、八ヶ岳から秩父山地にかけた周辺に多いといえる。

以上、旧臼田町清川(昭和63年1月1日撮影)

 


 『遙北通信』56号に平出氏は「会員通信」として次のような近況を寄せている。

 小正月の道祖神まつり、低迷状態の時であり、思うような調査ができませんでした。1月14日の午前中は、原村・菖蒲沢の患魔払い。夜は柳沢と南原のどんど焼を見学。15日の午後はPTA役員のため富士見町・葛窪のどんど焼準備、夜はどんど焼に参加しました。16日午前1時10分から富士見町歴史民俗資料館の道祖神御魂入れ祭に参列し、17日の午後は原村・中新田のきんちゃきりを見学しました。自分なりに感じたことを書いてみたいと思っていますので、よろしくお願いします。

 

というものだ。近況にある平出氏地元の菖蒲沢の悪魔払いは、道祖神の獅子舞②で紹介したように平出氏によって報告されており、また、富士見町歴史民俗資料館の道祖神御魂入れ祭についても富士見町御射山神戸の双体道祖神に記したように平出氏によって報告されている。

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富士見町御射山神戸の双体道祖神

2018-05-10 23:07:42 | 民俗学

“どんど火”より

 平出一治氏は、平成4年10月1日発行の『遙北通信』124号に、富士見町御射山神戸の双体道祖神について報告をされた。これまで諏訪地域の昭和の道祖神を平出氏報告から扱ってみたが、諏訪地域特有の新しい道祖神の建立のあり方のようなものがうかがえる。昭和の道祖神というものの、昭和は64年まで続いた。この道祖神が59年建立と言うから、すでに30年以上前の建立。いわゆる道祖神信仰という捉え方でいうのなら、戦前の信仰を捉えがちであるが、戦後のこうした新たに建てられた道祖神は、もちろん信仰を有しながらも、多様な建立意識が根底に見え興味深い。

 

富士見町御射山神戸の双体道祖神(その2) (『遙北通信』124号 平成4年10月1日発行) 平出一冶

 諏訪郡富士見町御射山神戸は、古村でこれまでにも双体道祖神2基(「昭和の道祖神2 富士見町御射山神戸の双体像」『遙北通信』58号を含む)・石祠道祖神5基・道祖神文字碑1基が祀られていたが、森田養鱒場の庭に双体道祖神が新たに祀られた。

 富士見町境池袋の平出征夫氏が刻んだもので、以前に紹介した富士見町歴史民俗資料館の双体像(『遙北通信』72号)が、やはり平出征夫氏の手によるものであるが、本資料の方が彫りは深い。自然石に円形区画を施し、その中に2神をレリーフした造形は、基本的には同じであるし、面長な作りは特徴的でもある。

 男神は右で盃を持ち、女神は左で瓢箪を持っている添立の祝言像である。男神は正面を、女神は斜め前方を見ている。

 台石の上に鎮座しているが、大きさは高さ80cm、幅85cm、厚さ40cm、像高は足の位置(高さ)が若干違っているが男神が大きく56cm、女神は54cmを計る。台石の高さは51cmである。

  銘文 (碑面) 森田屋
            水房会講中
      (碑陰) 昭和五十九子年十一月吉日建之

 なお、建立した水房溝は、有志が集まったもので「水房」の名は、森田養鱒場の庭にある樹木から取ったとのことである。水神さまも祀っているとのことで、講(お祭り)は年2回行ない、1回目は水神、2回目は道祖神のお祭りとしているとのことであった。


 文中にある平出氏報告「昭和の道祖神2 富士見町御射山神戸の双体像」は下記のようなものだった。

昭和の道祖神2
富士見町御射山神戸の双体像 (『遙北通信』58号 昭和63年4月3日発行) 平出一冶

 諏訪郡富士見町の御射山神戸は古村で、これまでにも双体像1・石祠5・文字碑1の道祖神が祀られていたが、JR中央東線すずらんの里駅近くの三差路に、双体像が新たに祀られた。安山岩の自然石の2神をレリーブしたもので、同質の台石の上に鎮座している。それは「二十三夜」の文字碑・万延元年と昭和55年建立の「庚申」文字碑と並んでいる。

 大きさは高さ47cm、幅35cm、厚さ25cmとそれほど大きくない。像高は男神が19cm、女神が18cmである。台石の高さは30cmを計る。

 碑文(裏面) 昭和五十六年十月吉日


 同じく文中にある富士見町歴史民俗資料館の双体像の紹介文は、下記のようなものだった。

昭和の道祖神10
富士見町歴史民族資料館の道祖神場 (『遙北通信』72号 昭和63年11月27日発行) 平出一冶

 諏訪郡富士見町の歴史民俗資料館が、井戸尻考古館に隣接して建設され、昭和61年7月に開館された。庭に、、富士見町堺池袋の平出征夫氏が刻んだ道祖神双体像が祀られた。その後、武藤雄六・樋口誠司両氏によって高さ165cmの男根も作られ、自然石の女陰、男根、丸石、コンホータ石が一緒に祀られたことにより、立派な道祖神場が誕生した。

 その御魂入れ祭が、昭和63年1月16日の夜中に、富士修行道の行者富行哲心の手で厳かの中にも力強く執行された。1時から3時は緒天善神降臨の時(しょてんぜんじんこうりんのとき)で、魔の神が不在である。零士30分に準備を始め、50分からは塩水で双体像・男根等を藁タワシで洗いきよめた。1時10分に神事が始められ2時5分に終了した。

 道祖神は安山岩の自然石に2神をレリーフしたもので、同質の台石の上に鎮座している。大きさは高さ85cm、幅115cm、厚さ27cm。像高は男神が41cm、女神が41.5cmで、やや大きい。台石の高さは53cmを計る。

銘文(左側面) 昭和六十一丙寅年水無月吉日

 

 ※「遙北石造文化同好会」のこと 後編に触れた通り、「平出一治氏のこと」について回想録として掲載している。

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道祖神の獅子舞⑤

2018-04-29 23:57:54 | 民俗学

道祖神の獅子舞④より

 山梨県の道祖神の祭りを訪れた後、仕事で異動した伊那の地で南佐久郡小海町の同僚と一緒になった。縁もあって平成5年の正月明けに小海町の彼の家を訪ね、2箇所の道祖神の獅子舞を見る機会を得た。

 

長野県南佐久郡小海町宿戸 道祖神の獅子舞 (「遙北通信」第128号 平成5年2月1日発行) HP管理者

 1月7日に南佐久郡小海町を訪れ、道祖神の獅子舞を見学した。今までにも同郡臼田町清川の獅子舞や、山を越えると山梨県ということで、割合近接している牧丘町などの獅子舞を紹介してきたので、この八ヶ岳山麓一帯には道祖神の獅子舞が多いことは御存知の通りである。今回訪れた小海町は、臼田町よりは山梨に近い位置にあり、以前にも紹介した南相木村や北相木村の入口にあたる。町内では本村上、本村下、市の沢、宿戸、本間、宮下、五箇、芦平、以上8箇所で獅子舞が行なわれていたことが、『子供組の習俗-南佐久地方における年令階梯制の記録』(長野県教育委員会 昭和35年)に報告されている。このうち今回は宿戸(しゅくど)と芦平(あしだいら)を訪れた。他の地区で現在も行なわれているかどうかについては、確認してないが、日程などの変更があっても現在まで続けられている所がほとんどのようである。

 『子供組の習俗』によると、小海町における獅子舞の日程は本村上、本村下、市の沢、宿戸が1月2日、本間、宮下、五箇、芦平は1月1日であり、各所とも夜に行なわれていた。南佐久郡内には川上村、南牧村、小海町、南相木相、北相木村、八千穂村、佐久町、臼田町の8町村と佐久市がある。これらの市町村における日程をみると、南牧・小海・南北相木・佐久・臼田・佐久市においては、ほぼ2日を中心に行なわれており、川上や臼田の青沼では小正月を中心に行っている。本来は各所とも同一の日程で行われていたのであろうが、明治維新後の太陽暦に改められた時点において、このような日程の乱れが生じたものであろう。

 今回訪れた宿戸や芦平では、『子供組の習俗』に報告されている日程と少し違っている。宿戸では2日・7日・14日の3日行われておリ、芦平では7日に行われている。

 

 撮影 平成5年1月7日 HP管理者


 宿戸では小学6年までの子供組によっておこなわれている。ただ過疎地域ということもあり、近年どこでもそうであるが、女の子が加わる。ただし、ここではたまたま女の子がいないために、今年は男の子のみであった。人数は7人で喪中の家の子は参加しない。獅子は普段は公民館に納めてあり、獅子が使われるのは、1年中でもこの時だけである。7人と子供の数が少ないため、今年は14日には舞わないということであった。獅子舞は午後4時から道祖神の碑の前から始める。獅子を被る者が1人、その幌持ちに1人付く。道祖神の前では、碑に噛み付く所作をする。これら以前に諏訪の平出一治氏が報告してくださった獅子舞と共通している。道祖神の前でひと舞すると、集落の下の方から各一軒ごとに獅子を舞って歩く。宿戸は比較的集落がまとまっており、ほとんど屋敷場は隣へつながっているような状態で、約30軒ほどある。小学6年生が親方であり、かつては舞が元気がなかったり、上手でなかったりするとかなり怒られたようである。

 頭1人と幌持ちが用意できると、

 「悪魔っぱらい、悪魔っぱらい」

を3回繰り返し、家の中に獅子と幌持ちが上る。この時各家では玄関あるいは座敷の戸を開けて獅子を迎える。戸が開いていないと、「あけとくれー」と子供たちはさけぴ、催促をする。家め中に上りこむと、外で待つ子供たちは「悪魔っばらい」のはやし方となる。家族全員が座敷に座り頭を噛んでもらうまではやしを繰りかえす。舞が終ると「御苦労さん」といってお金をくれる。2・7・14日の3日やるのでかなりお金たまるという。

 回る時、獅子や幌持ち以外の者は笹を持って回り、舞をしている問、この笹をざわざわと揺するのである。この笹は各家で14日に舞が終わると処理をするという。喪中の家は回らないが、留守の家も舞いをしない。

 配役としては、獅子・幌持ち・おんべい持ち・下足番袋持ち・太鼓といったものである。先程からも述べているが、今年は子供が少ないということもあり、中学生が手伝っていた。集ったお金は最後に分配されるが、かつては年齢によってかなり差がつけられていたようである。各家すべて回ると、最後の家の近くにいつも宿になってくれる家があり、そこで夕飯を食べるという。

 舞そのものは簡単であり、時間も短いため、おそらく他の地区の獅子舞と比較してもかなり簡略化されたものだと予想される。次回に同町芦平の獅子舞を報告する。

 

 宿戸は同僚の生家がある集落で、小海町の中心部より東の山手に入った山間の集落だった。興味深いのは笹を持って回るところだろうか。

 

道祖神の獅子舞⑥

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道祖神の獅子舞④

2018-04-26 23:35:35 | 民俗学

道祖神の獅子舞③より

 わたしは「遙北」第75号に引き続き同76号へ「道祖神の獅子舞」其の3として、山梨県東山梨郡牧丘町の祭りについて報告している。「遙北」は76号を最後に、以後発行されていない。平出一治氏の報告にも感化されて、道祖神の獅子舞についてこの時期大変興味を持っていたと記憶する。牧丘町は現在の山梨市に新設合併された町である。北側に長野県南佐久郡川上村とわずかながら接している。報告文中にもあるように昭和62年と63年と、2年続きに小正月に訪れている。何度も足を運びたいと思うほど興味をそそられたが、以後足を踏み入れたことは現在までない。あれから30年以上を経ているから、ずいぶん様子は変わっているのだろう。

 

道祖神の獅子舞

其の3 山梨県東山梨郡牧丘町の祭り (「遙北」第76号 平成元年4月1日発行) HP管理者

 

 1. はじめに

 

 道祖神の獅子舞について「遙北」第74号において、長野県南佐久那南相木(みなみあいき)村について述べ、第75号においては、同県小県(ちいさがた)郡長門(ながと)町のものについて述べてきた。八ツケ岳の北側に位置するこれらの地域において、今も多く残されている道祖神祭りの獅子舞が、八ツケ岳の南東である山梨県内でも、各地に残されている。静岡県に近い南巨摩那南部町。そのすぐ近く西八代郡下部町や市川大門町。そして、中巨摩那櫛形町や東八代郡牧丘(まきおか)町でも行なわれている。長野県に比較すると、面積の小さい山梨県には、どの地方に多いという表現よりも、全県に分布しているという述べ方になるだろうか。

 私は昭和62年と63年に、牧丘町と櫛形町の道祖神祭りを見る機会を得た。ここでは、牧丘町の祭りについて紹介し、山梨県の特色を述べてみたい。

 牧丘町は、位置図(省略)に示すように甲府盆地の北東部に位置し、西に甲府市、南に山梨市、東に塩山市と接する。これだけ市部に接しながらも地形的には秩父山地の麓に展開する山深い地域である。注目したいところは、北に長野県南佐久郡川上村がある点である。後述するが、西接する甲府市の山間地、黒平地区より獅子舞が伝えられた、と牧丘町塩平に伝えられている。この地域もまた、川上村と接している。川上村といえば、私はまだ見てないが、ここにも道祖神の獅子舞が残されている。特に川上村には「おかたぶち」という行事もあり、道祖神の祭りが盛んに行なわれている地域であり、ここと隣接している牧丘町に、一層興味が湧くのである。ちなみに川上村の北隣には、南相木村が位置する。

 さて、位置的説明を頭の中に入れて、牧丘町の祭りを紹介し、再び地域全体的なものを述べていきたい。

 

 

 2. 牧丘町鼓川周辺の祭り

 

 牧丘町では笛吹川が南側の塩山市境にあり、その支流である琴川と鼓川を大きな谷として大きく分けると、笛吹川筋、琴川筋、鼓川筋という集落の広がりがある。現在道祖神の祭りを中心として、小正月に行なわれる行事を、よく残している地域は鼓川周辺にある。

 

① 塩平

 鼓川の最も奥の集落が塩平である。ここは公卿(くげ)の落人により開拓されたといわれる所で、公卿平、公卿の墓などの遺跡がある。

 集落の入口に道祖神があり、そこには石神型の道祖神と双体道祖神が並んでいる。石神型の中には双体の小像が納められている。とはいっても、道祖神の上には藁で作られた「オカリヤ」があり、道祖神は隙間からのぞかないと見えない。オカリヤについては、呼称がさまざまだが、「コヤ」、あるいは「オカリヤン」などと言う。この「カリ」は、男根の亀頭雁首の呼称で、その形も男根そのものである。「お仮屋」が本来の意味を持つ呼び方であり、この地で行なわれる男根を作る形になったのは、どういう意味があるのだろうか。

 その形については、写真に示す通りで、仮屋の方は藁で作られる場合が多いが、塩平では杉の枝で覆われている。元々は男根がない仮屋だったところへ、後につけられたものだろうか。ここの男根は、2メートル近くある長いもので、直径は50cm程度である。大きな藁束を丸くたばね、その一端を堅く縛り、反転させると丸く坊主頭型になる。そして、その頭にはみかんが付けられ、首は縄で縛られ、男根亀頭とすぐわかる。

 オカリヤの前には「オヤマ」といわれる神木が立てられている。小正月に来臨する神の依り代として作られるものといわれ、華やかに誰の目から見ても美しく目を引くもの、神が寄りつくにふさわしいものとして作るという。甲府盆地東部においては「ヤマ」という呼称が通常であるが他ではヤナギ・オシンポクなどの呼称にもなる。(神木分布図参照)

 私が見た、オヤマの数はわずかでその全てを見てからでないと、とても語れることではないが、ここのヤマはなかなか見事で、牧丘町周辺では代表的なものといえよう。その形については写真のようであるが、丸太を職立てに立て、やなぎが12本つき、その上のあたりから細く割った竹が付けられ、そこには色紙を折ったものや、「トンプクロ」と呼ばれる飾りが吊されており、その上には幣束が付く。ヤナギのあたりから綱が何本か張られている。西の山を越えた甲府市黒平では、神木から全戸の家の自在鈎へ綱を縛り付ける習俗があり、この綱のことを「ヨバイヅナ(夜這綱)と称しているという。また、同じ鼓川から支流赤芝川をさかのぼった膝立では、昔、神木から年頃の娘のある家や、最近結婚した人の家まで綱を張ったという。場所によっては、やなぎを全戸分作った所もあるようで、特に綱のことを注目する著書はないが、山梨文化財研究所の堀内真氏によると、やなぎとこの綱は、同様のものだったのではないかという。

 やなぎに吊される「トンプクロ」は、「コンプクロ」ともいい、オテングサマ(天狗)の巾着だといわれる。トンブクロは、一軒でいくつか作るといい、昔は布で作られたもので、針仕事上達の俗信がある。

 塩平では、オヤマもオカリヤも、十四日の午前に作られる。かつては、11日に作られたというが、14日に作りオカリヤは夕方に焼かれてしまうということで、惜しむ声もあった。

 

塩平オカリヤ

 

塩平のオヤマ

 

塩平の獅子舞

 

 祭りは午後3時頃、宿の家で獅子舞が行なわれ、始まる。宿の家は、前年嫁を迎えた家を選ぶという。私は、宿の家の舞を見学してないが、御幣の舞で始まるという。昔は小正月に、式三番(しきさんば)、獅子舞、鳥刺し踊り、地芝居など多くの芸能を行なっており、かなり盛んな小正月行事が見られたという。現在は三番叟(さんばそう)と獅子舞が伝統を伝えている(甲斐路4号・1962年…山梨郷土研究会…「塩平の小正月」より)というが、三番叟について現在、直面の「揉の段」の一部分のみを伝えている(まつり通信335号・山梨県の小正月の芸能…高山茂著…まつり同好会)という。

 ちなみに三番叟は、式三番(しきさんば)の中の一演目である。式三番は猿楽の能に古くから伝わる祭儀的な演目で、千歳(せんざい)・翁(おきな・三番叟の3人の舞を組み合わせたものをいう。これが能・歌舞伎・人形芝居や神楽・田楽などにも普及し伝承されている。

 この三番叟も宿の家で舞われるというが、前述したように拝見していない。宿を出た獅子舞の行列が道中を練り、道祖神場へ向かう。さすがに塩平の祭りは地名度が高く、村外からの見学者が多く、さながら郷土芸能の最近の顕著な姿を見る思いがする。道祖神場に着くと、獅子舞がオカリヤの前で一舞される。舞そのものは、獅子頭を一人がかぶり、鈴と幣(のさ)を持って舞うものと、鈴と剣を持って舞う2種のもので、後方が幌を扱う大神楽獅子の典型的な形を見せる。種類には「幕の舞」「ご幣の舞」「剣の舞」「狂の舞」などがある。獅子舞は15日に、各家を回るという。道祖神の祭りに獅子舞が行なわれている理由について堀内真氏は、道祖神祭りに厄除けの要素があり、厄年の者や新婚夫婦のお拭いの形を獅子舞に託したものだという。かつては盛大に行なわれた小正月の一連の行事が、1年で最も大きな祭りと考えられ、獅子舞による悪魔払いの要素が、厄払いの意味も含め、取り入れられていったのだろう。私の住む伊那谷に多く分布する獅子舞が、神社祭礼で悪魔払いの要素を強くするのと同様で、この地域では小正月にその形が現われたといえる。長野県東部の小県(ちいさがた)や佐久地方において、同様に小正月に盛大に獅子舞を行なうように、神社祭礼よりも身近な民間信仰へ導入されていったと見られる。私から思うと、自分の育った地域の獅子舞というと、神社祭礼が通例で、小正月の獅子舞は異例にも見えた。しかし、かつては私の地方でも、正月に外来の者が獅子を舞いに訪れたということで、山村には正月の獅子舞の方が通例であったのかもしれない。

 塩平においては、この一連の民俗芸能(式三番や獅子舞)の伝承先を、甲府市黒平と見ている。黒平は山一つ越えた所に位置し、かつては塩平との縁組も多かったという。この黒平においても式三番と獅子舞が伝承されており、よく知られている。宝永4年(1707)に塩平村中惣百姓連判で出された「西保村入会山に関する文書」に、

 

一 西保北原村枝郷塩平村之儀、先祖は北山筋黒平村之者に而御座候、往昔御富士鷹守に被仰付西保山中拾八ケ村入組の之内塩平と申所に居住仕刃候

 

とある(甲斐路4号・1962年…「塩平の小正月」所載)。黒平との関りのあることを証明している。このように黒平からの伝播を伝えているが、明確な資料はなく、また、始められた年代も定かでない。しかし、350年ほど前からという伝えもあり、かなり古い時代より行なわれていたことは確かなようである。

 さて、獅子舞がオカリヤの前で終わると、オカリヤが石祠型道祖神からはずされ「オドンドン焼き」となる。付近の人々は針金の太いものに餅を刺して持ち寄り、餅を火であぶり焼く。これはどこでも見られる風景なので、特に説明はいらないだろう。なお、オヤマは21日に倒されるという。

 

② 北原

 塩平から少し下ると漆川のが対岸に広がり、さらに下ると北原下道(しもみち)の集落がある。道端に立つオヤマが目立つのですぐわかる。

 ここのオカリヤは、やはり石祠の上に藁で四角に小屋を作ったものである。前方の中央に男根を象り藁棒が突出している。1メートル余ある棒の先端は、亀頭を思わせるように作られ、頭にみかんが付けられ、棒にはりんごが二つ吊されている。これらはおもしろおかしく知恵を見せたのだろうが、他のの人々は品が無いなどと評したりしており、各とも個性を見せている。

 オヤマは10メートル近いもので、先に竹竿が付けられ、色紙やトンプクロが吊されている。やなぎは七本付けられており、やはり塩平のものに比べると簡略になっていることがうかがわれる。ここでも21日の朝倒され、花は各戸で持って行くという。

 北原下道の道祖神場は集会所の前で、この日は集会所に人々が集まり、余興をして酒と肴で小正月の1日を楽しむ。カラオケの声も聞こえ、子供達も加わり一年中で最も楽しみな日のようである。この日を「お天神様」の祭りともいい、子供達の祭りも同時に行なっているようである。15日に獅子舞を子供達が行なうということで、14日、集会所では舞い始めともいえるのだろうか、余興の中で子供達により獅子舞が行なわれるようである。

 午後4時半過ぎ、すぐそばにある火の見櫓の鐘がたたかれる。これがドンドン焼きの合図となり、人々は餅を持ち集まって来る。オカリヤが道祖神から取り除かれ、下の広場に集められ火が付けられる。今ひとつ人寄りが少ないところをみると、ここではドンドン焼きに対する意識が薄いことを感じた。

 15日に子供達が獅子舞をして各戸を回るということだが、ここでは青年衆ではなく、子供の手によって行なわれている。

北原のオヤマ

 

北原のオカリヤ

 

③ 牧平(まきだいら)

 北原を少し下ると牧平である。鼓川と赤芝川が合流する所で、ここでも道端に大きなオヤマが立っていてすぐわかる。

 ここのオカリヤは、長さ1.8メートル、幅も1.8メートル、高さ1.6メートルと大きく、中に道祖神が祀られている。前方に突出した男根は長さ0.7メートルのもので、男根の根元には藁で作られた玉が二つ付けられている。

 オヤマは11日に作られるという。上伊那那辰野町によく見られる大文字(デーモンジ)の行事においても、道祖神の近くに同様の神木を立てているが、これらが全て幟竿専用の竿立てを有していることについて、以前長野県民俗の会の例会に参加した折、話題になったことを思い出す。考えてみると、神社祭礼の折に、神社参道に立つ幟旗は竿立てに固定されているが、これと同様の竿立てが、道祖神の近くにあることについて、やはり道祖神の祭り専用に作られたものなのだろうか、と疑問にも思った。牧平においても石祠型の道祖神の横に、この竿立てがあり、ここにオヤマが立てられており、同様に考えさせられる点で、付近でも同じようなことが見られる。

 午後8時頃、人々が集まって来る。ここ1年の間に夫婦となった者が、オカリヤの中にある道祖神にお参りし、みかんや酒が奉納される。そして、この夫婦が紹介されると獅子舞となる。「牧平若衆」のはっぴを付けた若者が、頭をかぶり、後方に幌持ちがつく大神楽獅子である。笛と太鼓に囃され舞が始まるが、なかなか本格的なものである。鈴と幣を持ち舞う「幣の舞」に始まり、「剣の舞」「狂の舞」と続く。「ノミ取り」といわれる舞は、道に寝転んでノミを取る所作をするものである。また、ここの舞は途中オカリヤの男根とふざけ合う所作があり、おもしろい。

 獅子舞が終わるとオカリヤを壊し、200メートルほど下の川端まで引きずって行き、そこで焼かれる。

牧平の獅子舞

 

牧平 新婚夫婦がオカリヤに祈願

 

厄を投げる

 

⑧ 中野

 牧平からまた鼓川を下って行くと、中野という集落があり、道端に突出したオカリヤが目立つ。

 ここのオカリヤは、杉の枝で石祠の上にオカリヤを作っており、近隣では他と少し形式が異なる。しかし男根は他と同じように藁を束ねて作ったもので、その姿は陰毛の中に突出した男根を思わせている。前に「道祖神」の燈篭が二つおかれ、しめ縄が張られている。オカリヤ・オヤマ共に11日に作られ、オヤマを倒すのは21日ということである。

 午後6時に道祖神の前に集合すると、行列らしきものをつくり、の下の方から一軒一軒22戸を回って行く。先頭で悪魔払いの笹を持った区長さんが先導し、子供が燈篭を持ち、獅子頭が続く。かつては獅子舞をしたというが、もう50年ほど前から舞わなくなり、舞そのものも忘れられている。したがって獅子頭は持って歩くだけというなさけないものであった。

 このように家々を回る時、唄がある。これも最近は歌わないというが、たまたま私がカセットレコーダーを持っており、歌ってくれないかとお願いしたところ、次のように歌ってくれた。

 

 お祝い申せ

 オッカッサはうちにかー

 なんど(納戸)のすみで

 ポボの毛を三十三本そろえて

 もう一本たりんぞー

 

 子供に良くないということで歌わなくなったということらしいが、昔は他にも色々唄があったようである。したがって現在では「お祝い申せ」を繰り返しているという。この日は「年に一度だ」といって終わるまで歌っていた。

 近くのでは15日に獅子舞をして各戸を回るということも話していた。

 写真は、たまたま「オメイダンゴ」がきれいに飾ってある家があったので、写真を撮らせてほしいと上がり込んだら、獅子頭をつけてくれたもので、普段はこういう恰好はしていない。区長さんは笹を持ち、神棚を払う。

中野 家々を回る

 

中野 各家の神棚を祓う

 

 

 3. 山梨県における道祖神の祭りと牧丘町の位置づけ

 

 私が訪れた山梨県の道祖神の数は、わずかで、道祖神そのものについての紹介はさほどできないが、ここ2年ほどに訪れた祭りから見た山梨県における特徴を、中間報告として紹介し、私としてもまとめておき、これからの課題としておきたい。

 ここで手元にある昭和63年1月14日に行なわれた山梨文化財研究所主催の第1回民俗学シンポジウムの資料を元に、全体的なもめを紹介する。

 山梨県下においての道祖神の祭りは、正月を中心に行なわれるが、他に4月・7月・9月などに行なう所もある。しかし、祭りの内容は小屋を作り、神木を立て、火祭りをするということが中心のようで、大差はないようである。

 道祖神そのものの呼称として「ドウソジン」「ドウソウジン」などが一般的なようである。また形態については、よく知られているように、山梨県といえば、丸石神が中心的である。また、石祠型も多く、双体石像もかなり見られる。

 また、この資料より目を引く祭りを紹介しておく。

・北巨摩耶白州町「ワラ馬引き」

・南巨摩郡南部町上佐野「獅子舞」

・西八代郡市川大門町山家「獅子舞」

・西八代郡下部町「獅子舞とオカタプチ」

・南都留那川口湖町小立「オンベエ渡し」

・富士吉田市向原

・南都留郡西桂町   石合戦

・南都留郡道志村

 

 火祭りの呼称については図のようである。また、牧丘町で作られているようなオカリヤの分布は、あまり一般的ではなく、作らない所の方が多いようである。その呼び方も「コヤ」「ヤグラ」「オチョウヤ」などがある。火祭りによる俗信については、全国的に分布するものと同様で、病気、風邪にならない・虫歯にならない・字が上達する・養蚕があたる・虫よけなどである。

 山梨県における道祖神信仰の特徴を物語る地域に、富士山麓がある。遙北通信で紹介してきたように、この地域では性神的要素が強くあり、これが道祖神の祭りに姿を見せている。私は、この地域の道祖神行事を訪れていないので定かでないが、これらの習俗が現在では衰退しているようである。

 牧丘町に見るオカリヤのような男根を飾らない所でも、かつては男根石や石棒など男根形の祭具を御神体としていたという。前述した中野の囃し言葉が卑猥に語られる点、また、塩平において嫁をとった家を宿として扱っているように、新婚の家を回り道祖神が祝い込むことが、祭りの本来だったのだろうか。特に新婚の家の祝いとして行なわれる祭りが、「オカタプチ」や「オンベエ渡し」などと称し、富士山麓に見られる。そして、男根形の祭具を新婚の家を回る時持参する習俗は、山梨県のみに限らず、全国的にも伝承されており、これらと関わりオカリヤとして、残るようになったのだろうか。いずれにしても、牧丘町に限らず道祖神の小屋を作る所があり、「仮屋」としての傾向が強い。そこへ男根を取り付けることにより、男根の亀頭雁首の称をとり、「オカリヤ」が派生したのだろう。

 このような小屋に男根を飾る例が、この地域だけでなく他にもあるだろうと考えられるが、私はよく知らない。ただ、最近気づいたのだが、私の住む飯島町の近く、下伊那郡大鹿村の上蔵(わぞう)から奥にかけて「オカリヤ」というものが作られ、男根が飾られている(「大河原の民俗」大鹿村教育委員会)ことを知った。平成元年の小正月に訪れてみたが、「オカリヤ」の呼称は聞かれなかったが、男根を象ったものが「セーノカミ」などと称し作られていた。

 オカリヤについては以上として、次に獅子舞について少し述べることにする。昭和63年の小正月に中巨摩那櫛形町を訪れた。ここの下市之瀬で獅子舞が道祖神の祭りとして行なわれているが、夜、寺で行なわれる余興の中で、獅子狂言も行なわれている。塩平などでも、かつては小正月の行事として地芝居なども含め、かなり盛大な余興が行なわれていたと前述した。これらから考えると、村人が寄り集まり、一晩を盛大に楽しむ風習が、広く分布していたことがうかがえ

る。

 櫛形町や牧丘町に見る祭りは芸能を現在まで残しているため特に注目を浴びているが、私がこれらの地域を回っている時に近隣においても十四日の夜は「道祖神」の提燈が吊され、火が点され、老若男女が道祖神にお参りする姿が見られ、信仰の深さを感じたものである。私もあちこちの祭りを見ているが、村人こぞってお参りする風景が民間信仰に見られる事例は、そうあるものではなかった。8月、関西方面で行なわれる地蔵盆が、同じように風流な趣を見せていたことを思い出すが山梨県下に見る道祖神の祭りも、同様に親しみを感じた。こういうものは何度見てもよいものである。

 以上思うままに書き綴ってきたが、祭りも含め、道祖神の姿を山梨に追っていきたいと思っている。

 

 

1988.1.14~15 山梨文化財研究所 第1回民俗学シンポジウム資料より引用

 

道祖神の獅子舞⑤

 

 

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“どんど火”

2018-04-24 23:14:22 | 民俗学

こんぼった石」より

 平出一治氏は、平成元年1月15日発行の『遙北』76号に、自ら住む地域の松焼き行事について報告をされた。

 

富士見町境葛窪のどんど火 (『遙北』76号 平成元年4月1日発行) 平出一冶

 諏訪那富士見町の旧境村葛窪では、昭和六十三年一月十五日の夜にどんど火が行なわれたが、その歴史は新しく、数十年前に村起こしの一環として復活したものである。

 明治四十三年生まれの父の子供の頃には、すでに廃止されていた事から、この習俗を葛窪でどう呼んでいたかについては不明である。まだ筆者が子供の頃、祖父から葛窪は火災が多かったので、どんど火が廃止されてしまったと聞いた記憶がある。その時、どんど火と言ったのかどんど焼きと言ったのかは覚えていない。ここで、「どんど焼き」ではなく「どんど火」にしたのは、旧境村でこの習俗が続いてきている池袋で「どんど火」と呼び、また、富士見町の中でも「どんど火」と呼ぶ地区があることから「どんど火」と呼ぶことにした。

 どんど火は、円錐形の飾り付けが作られるが、これといった呼び名はない。今年の準備は一月一日に、区の役員が区有林で松の木を切り、どんど火を行なう水田に運んだことに始まり、十五日の午後一時に児童会(五・六年)、生徒会、区の役員、PTA役員が集まり、小雨の降る中を児童会とPTA役員は、正月飾りやだるまを全戸から車で集める。事前に木戸先に出してもらうようにお願いしてあったこともあり、短時間で集めることができた。現地では区の役員と生徒会の人たちが、円錐形の飾り付けを作っている。最後は全員で飾り付けを行ない三時には準備が完了した。

 夜五時三十分前には子供たちが集まりはじめ、円錐形の飾り付けに児童会長と区長の手で火がつけられた。児童たちは、クラッカーを鳴らし、また、火力が強くなると「パアン」「パチパチ」と、青竹と松葉の燃える音が、どんど火のムードを盛りあげていた。

 どんど火と同時に厄払いも行なわれ、厄年の男女が、みかんや菓子などを投げた。それを追う子供たちの歓声でにぎわっていた。火が一段落すると、手にした赤・自・青の繭玉を火にかざし、繭玉焼きがはじまり、楽しい時を過ごしていた。どんど火の歴史は新しいが、ここでもどんど火で焼いた繭玉を食べると、一年間病気をしないと言われていた。繭玉は、どんど火と関係なしに小正月に作られていた。それをどんど火に持ち出すようになったが、葛窪では養蚕農家がなくなってもう久しい、豊量を願った繭玉が依然として作られている。これは繭玉の持つ信仰に違いが生じていることになろうか。現に繭の畳量ではなく、無病息災を願っている。

 葛窪のどんど火は道祖神とは関係なしに行なわれているが、これからも受け継がれていってほしいものである。

 

 「火災が多かったので、どんど火が廃止されてしまった」と言われている。ずいぶん以前に廃止されてしまったため、周囲の「どんど火」に倣って再開されたということなのだろう。もし廃止された理由が火事だったとしたら、あらためて始める際に葛藤はなかったのだろうか。単純に村起こしで始める、とはいかないようにも思う。時代を経たことによってそれは許されたのだろうか。また、廃止されていた間の飾り処理はどうされていたのだろう、などと考えたりする。

 

 ※「遙北石造文化同好会」のこと 後編に触れた通り、「平出一治氏のこと」について回想録として掲載している。

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こんぼった石

2018-04-18 23:13:19 | 民俗学

埋まっていた「庚申」より

 平出一治氏は、平成3年10月1日発行の『遙北通信』114号に「昭和の道祖神」30回目として次のような報告をされた。

諏訪市武津の双体像 (『遙北通信』114号 平成3年10月1日発行) 平出一冶


 諏訪市四賀武津は、武津公民館の庭に双体像が祀られている。自然石に二神をレリーフしたもので、台石の上に鎮座している。
 男神が右、女神が左の抱肩握手像で、女神は首をかしげているが、二神は正面を見ている。
 大きさは高さ103cm、幅102cm、厚さ52cm、像高は男神が大きく五十聖女神は四十六皿を計る。台石の高さは56cmである。

 

撮影 1990.1.12 平出一治

 

 銘文(碑陰) 昭和五十三年四月吉日建之

 双体像に隣接して銘石「こんぼった石」がある。その凹穴は当地方の道祖神場でみられる凹穴と同様のもので、古老たちが「こんぼった」とか「こんぼうめ」と言っている盃状穴である。
 説明板(金石文)が道祖神と同じ昭和53年に設置されている。長くなるが全文を紹介したい。

    銘 石  こ ん ぼ っ た 石

 昔この付近が湖水であった頃鷹津と呼び入江であったその後竹津と呼び何時の間にか武津と呼ぶ様になった我々の祖先が漁に出てこの石を舫石にした現地より北三十米山の手に有った夜這い時には秋葉神社の灯火を頼りに帰舟した区民一同廻り番で毎夜燈火したもので有るこの石は我々の祖先が漁に出て帰りを待った子供達が淋しい思をしながら青草を石でつきつき遊び乍ら父母の無事な帰りを待ったと云ふこの石は村人達には通称こんぼった石と呼ばれ親しまれて来た子供達の真心のこもった銘石である

   昭和五十三年四月二十三日  武津区建之
             諏訪市長岩本節治書

 

後ろにある石が「こんぼった石」(撮影1997.1 HP管理者)

 

 この双体道祖神の後ろに隠れるようにして、こんぼった石が置かれている。双体道祖神の台石よりは小ぶりな石である。その上面には、凹んだ穴がある。刻銘にあるように、「青草を石でつきつき遊」んだ痕跡であり、かつては子どもたちの遊び場となったところでよく見られた窪みである。今もなお、そうした窪みを見ることはよくある。ただし、これを「こんぼった」石と呼んだことは、さすがになかった。

 

 ※「遙北石造文化同好会」のこと 後編に触れた通り、「平出一治氏のこと」について回想録として掲載している。

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 “どんど火”
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明治温泉へ誘う観音

2018-04-11 23:14:28 | 歴史から学ぶ

 平出一治氏が「埋まっていた「庚申」」を報告した『遙北通信』110号へ、わたしは茅野市の湯道観音のことについて報告している。写真を撮影した平成2年3月9日は、前日より京都市の高木英夫氏とともに八ヶ岳山麓に入り、前日は明治温泉に宿泊したと記憶する。文中にあるよあに、「右作場 左明治温泉」と刻まれるように、まさに湯地場へ誘うために造られた観音であることがわかる。

茅野市湯道観 (『遙北通信』110号 平成3年5月1日発行) HP管理者

 観世音菩薩は三十三種の変化身でこの世に示現すると『法華経普門晶』(『観音経』)に説かれるところから、観世音菩薩を本尊として祀る三十三力寺を巡礼する者は功徳が得られると信じられた。こうした観音倍仰から、紀州那智山・青岸渡寺を第一番とする西国三十三カ所の巡礼が平安時代未ごろから始まった。その後、巡礼の盛行に伴って坂東三十三カ所や秩父三十三カ所(のちに三十四カ所になる)などが開かれた。地方にも西国三十三カ所や板東・秩父になぞらえた三十三カ所観音や西国・板東・秩父をあわせた百番観音も作られるようになった。
 長野県茅野市の蓼科高原一帯の温泉地には渋温泉道・滝の湯道・明治温泉道の三通りの三十三番観音が作られている。温泉への案内役といったところで、「湯道観音」などと呼ばれ親しまれている。古くより湯治場として栄えた温泉に行く道筋の松の木の根元や、大きな自然石の上、あるいは適当な石や木が無いと石を四角に刻んだ台座を設け、ほぼ等間隔に安置されている。
 これら三つの湯道観音は江戸後期に最も栄えた西国三十三カ所のお寺の本尊を刻んでいる。当時、仏教興隆に併せたように湯治客も多くなり、その様子について渋之湯では1日4、500人も来て、泊まる所が無く、止むを得ず日帰りをしたと、高島藩の郡方日記にしるされている。
 当時の里謡に次のように唄われている。

  飲んで見たかえ 渋沢入りの
    親は諸白 子は清水
  一の坂越し 二の坂越して
    三の坂越しや 強清水
  渋の湯の湯壷の中で
    話し置いた事 忘れない
  蚕あがれば 渋湯か滝へ
    連れて行くから 辛抱しろ

 このように、三十三番の観音を拝むことで三十三カ所の霊場を巡ったと同じ功徳があると信じられていたわけで、それと同時に温泉への道案内と旅の安全祈願までしてくれたわけである

・渋温泉道三十三番観音
 三つの温泉道三十三番観音の中では渋温泉道のものが古く、文政年間(1810~30)、当時渋之湯の揚請人(註1)をしていた糸萱新田の条左工門、惣五郎が施主となり、笹原新田の有力者堀内磯右工門が世話人となって、5、6年間にわたり寄進者を募り建立したものである。甲州・武州・遠州など全国各地の篤志家の寄進により建立されており、この頃にはすでに渋之湯は薬湯として全国に知れわたっていた。
 当時の渋之湯道は現在の茅野市湖東、中村、山口、北芹ケ択糸萱を経て、一之坂、二之坂、三之坂、強清水を通り渋之湯まで通じていた。一番観音は一之坂の合流した所に安置され、三十三観音は渋の湯の入口に建立された。なお、一番観音は現在笹原の辻の公園に移されている。
 建立された当時の観音の製作者は不明であるが、彫りの違い等から者えて4、5人ぐらいの石工によって彫られたものであり、また観音の材料の石質から、おそらく近くにあった石を使い現地で制作されたものと推定される(註2)。
 なお渋之湯は天文5(1536)年にすでに存在し、相当に名が知られていた(註3)。信玄のかくし湯ともいわれている。

 

 

・明治温泉道三十三番観音
 明治之湯は天保年間に両角与市右工門が発見して開湯したが中絶しており、明治元年に再開揚して、明治12年に「明治之湯」と命名した。
 明治35年(1902)頃、明治温泉の道案内として、当時の経営者であった南大塩の宮坂宗作が施主となり、笹原区、南大塩区等地元の人達がおもに現茅野市内の篤志家の寄進により建立された。
 一番観音は「右白井出 左明治温泉」と刻まれており、笹原の辻に安置されている。写真の三番観音には「右作場 左明治温泉」と刻まれており、三十三番観音は明治温泉前に建立されている。石工は不明であるが彫り具合等から同じ石工の制作と考えられる(註4)。

・保存復元
 渋温泉道や明治温泉道の観音は仏教の衰退に伴い、欠損紛失にあい昭和56年、奥蓼科観光協会によって保護復元された。復元にあたって当初同様篤志家の寄進により、岡崎市の石工戸松甚五郎の手により製作された。復元された観音は、渋温泉道が15体、明治温泉道が11体であった。

  註1.江戸時代には渋之湯は領主の直轄地であったので、高島藩は希望者を募り、入札により湯請人を定めて運上(営業税)をとって経営させていた。
  註2.『湯みち観音』北沢栄一著 草原社 昭和59年刊
  註3.『諏訪史料叢書』巻14
  註4.註2に同じ

 

 

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埋まっていた「庚申」

2018-04-10 23:55:46 | 歴史から学ぶ

繭玉か、陽石か」より

 平出一治氏は、平成3年5月1日発行の『遙北通信』110号に「資料紹介」として次のような報告をされた。

原村で「庚申」文字碑を発掘 (『遙北通信』110号 平成3年5月1日発行) 平出一冶

 

 

 1年前の平成元年10月23日に、郷土史家中村久太郎さんから払択区で庚申塔が発見されたことを聞き、25日に払択区役所を訪れ区長さんから聞いた経過を紹介してみたい。
 払択区のほぼ中心にある辻には、右から石燈篭・御嶽山(高さ約2m)・駒嶽神社(約3m)・天照皇大神宮(約4.4m)・象頭山(約2.8m)・月山羽黒湯殿山三山大権現(約4.2m)蠶玉神社(約4m)の大きな文字碑が祀られ、その周囲にはしっかりした玉垣が作られている。しかし、長い歳月を経てその痛みも甚だしくなり、主要道路に面していることから安全と美観維持のため、払沢区では平成元年6月に修復工事を茅野市穴山の守屋石材店に依頼した。その工事の折に庚申・駒嶽□(下部を欠損)・□訪大明神(上部を欠損)の文字碑3基が発見された。しかし、それらの石碑を知る人はいなく、かなり古い時期に埋もれたものであろう。
 紹介の資料は、6月28日に玉垣より外の畑地との境に、碑面を下にして埋まっていたものである。御嶽山と駒嶽神社の祀られたが、自然石(碑面を僅かに加工しているか)に「梵字 庚申」と刻まれたもので、高さ43.5cm、幅33cm、厚さ12cmを計る。銘文は次のとうりである。

  銘文 (碑 面)     寛政□
           梵字 庚  申
               仲 冬

 なお、御嶽口と□訪大明神は、7月6日に玉垣内の大きな石碑の間に埋まっていたのを発見した。駒嶽口は御嶽神社との間に、□訪大明神は月山羽黒湯殿山三山大権現と蠶玉神社の間にそれぞれ祀ってある。


以上のようなものであった。そもそも埋まっていた石碑は、なぜ埋まっていたのか、状況がよくわからないが、自然に埋まってしまったということはなかなか考えられないことから、埋められたものなのかどうか。

 

 ※「遙北石造文化同好会」のこと 後編に触れた通り、「平出一治氏のこと」について回想録として掲載している。

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繭玉か、陽石か

2018-04-05 23:01:41 | 民俗学

茅野市茅野町の道祖神より

 平出一治氏は、一連の道祖神祭りに関連して次のような報告もしている。


松本市神沢の繭玉を持つ双体道祖神をみて (『遙北通信』112号 平成3年7月1日発行) 平出一冶

 今までに諏訪地区以外の石神や石仏を見たのは、遺跡(発掘調査)見学に行った折にたまたま近くにあったものを、何の目的もなく覗いた位で印象に残っているものはない。平成2年11月12日に僅か3時間と短かったが、松本の道祖神を見て歩いた。本の写真からイメージしていたものとは、その大きさは違ったし、造形の豊かさに驚かされている。
 小正月のどんど焼き・道祖神祭りにおける繭玉のあり方について、あれやこれやと考えてみたが、未だ何もわからないでいる。何か、糸口がさがせたらと思い松本市神沢の繭玉を持つ道祖神を見てきた。

 

撮影 1990.11.12 平出一治氏


 この双体像は、神沢公民館近くの辻に、石垣を積み上げたしっかりした高さ112cmの台座に、台石をのせその上に祀ってある。
 大きさは高さ96cm、幅57cm、厚さは65cmと厚く、片寄った見方をすれば、繭に見ることもできるが、胡桃沢友男氏は「信州松本・性神あれこれ」(『日本の石仏』45)の中で、碑石の形態が陽石に見えることを述べ、寛政前後の道祖神の碑石には、双体像、文字碑を問わず円筒型で丸い石が多いことを指摘している。
 男神の左手が、繭玉を担ぐ女神の着物を捲ろうとしているユニークな造形で、像高は男神が43cm、女神は43.5cmを計る。銘文は右側面に「寛政七乙卯歳 十一月 神澤村」と3行にわたって刻まれている。
 枝の先に付けた繭玉は、現在のどんど焼きの折に見るものと同じである。それは何でも聞いてくれる一番身近な神様に、農家の収益の中で、比重が大きかった養蚕を、繭玉という形で取り入れたものであろうし、それが当時の人たちの真の願いであり、蚕神的な要素が極めて強いと言えそうである。
 松本平には、繭玉を持つ道祖神がまだ数多くあるのに、神沢のものだけを見て 「蚕神的要素が強い」とあえて書いてみた。間違っているかもしれない。でもどんど焼きの繭玉信仰が、寛政年間にすでに行なわれていたことを知ることができた1日であった。

 胡桃沢氏が神沢の道祖神の形態そのものを性神的イメージで捉えられた理由は、そもそもの男神が女神の裾をめくるようなしぐさをしているからのこと。そう言われないと裾をめくろうとしているかはわからないが、二神でまゆ玉を持っているようにも見える。平出氏の言うように、形態そのものを繭玉と捉えられもし、いずれにしても言われれば「陽石」にも見えるし「繭玉」にも見える。

 『日本の石仏』45号は「性神特集」だった。このところ『長野県道祖神碑一覧』に関連して自然石や陰陽石のことについて触れている。確かに道祖神の祀られている場所に陰陽石が置かれている例は多く、どのような意味をもってそれらがここに置かれたかは今は聞く術もない。「性神」特集と言うくらいだから道祖神に関連した論考が多く掲載されている同書の中で、菊田清一氏は「おそらく、男根状の石にルーツを持つ系統は、近世に入って、近世道祖神、つまり双体のものにとってかわられたものと思われる」と指摘し、「陽石型の道祖神塔は、古代から中世型の道祖神塔ということができよう」と言う。あくまでも仮定であって、断言はできないだろうが、加工された陽石と、自然石の道祖神碑、そして自然石に彫り込まれた双体像、いずれも形態として陽石を象っていると言われればそうとも見られる。

 ただし明らかに道祖神とは別に陰陽形の祭祀物は存在する。たとえば長野県内では上田市殿城にある男石神社の奉斎物はよく知られている。本尊はまさに「男石」。奉納された絵馬が特徴的で、「男石神社絵馬」として71点が上田市の有形民俗文化財に指定されている。元禄のころのものから明治のころまでの絵馬があり、ほとんどに男根が描かれていたり、絵馬に男根が添えられていたりする。田口光一氏は、長野県民俗の会76回例会(平成2年1月28日 男石神社)において、「男根崇拝と習俗」と題して発表され、その中で男根崇拝は悪霊払いの意味を持っていると述べられている。

 

 

 

以上男石神社で(平成2年1月28日HP管理者撮影)

 

 ※「遙北石造文化同好会」のこと 後編に触れた通り、「平出一治氏のこと」について回想録として掲載している。

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茅野市茅野町の道祖神

2018-04-02 22:18:32 | 民俗学

原村南原の道祖神より

 平出一治氏は、平成3年2月1日発行の「遙北通信」107号へ、茅野市茅野町にある木像道祖神について報告された。石垣の洞窟のような祭祀場に通常道祖神は祀られていない。報告によると「別の所に奉納されていて」とあり、その場所について触れられていない。わざわざ造られた祭祀場は、1月14日のどんど焼きの時だけ利用される。よそでも道祖神祭りの際にだけ造られる祭祀場はある。しかし、そうした習俗を模倣してこうした祭祀場が造られたとも思えない。発想の原点にはどのようなものがあったものか。また、道祖神本体が木像というところも、他には例を聞かないもの(実際には松本市などに存在するが、この例とは主旨が違うだろう)。なぜこうした道祖神が祀られたのか、興味深いというか、世の中には多様な視点があるのだと気づかされる。

 

昭和の道祖神25
茅野市茅野町の木製双体像

 茅野市茅野町は、中央東線の茅野駅の開駅で誕生発展してきた地区で、駅前とも呼ばれている。ここの道祖神場(祭祀場)は茅野町公会所の石垣内に設けられているが、道祖神は別の所に奉納されていて、普段はここに祀られていない。道祖神が祀られるのは1日だけで、それは1月14日の道祖神祭りどんど焼きの日である。
 木製の丸彫りで男神が右、女神が左の並立握手像で、二神はややうつむきかげんで内側を向いている。像高は男神が大きく42cm、女神は41cmを計る。

  銘文 (台 陰)  小川由加里刻

 制作年月日は刻まれていないが、北原昭「路傍の神々 諏訪の道祖神五 山浦の道祖神(2)」(『オール諏訪』5)に、昭和23年制作と記載されている。
 制作者の小川由加里氏は『一九九〇年版 美術家名鑑』(美術倶楽部)に、木彫、塑像、日展会友、日彫会員、元三部会員、師池田勇八、昭和56年投、享年71才とある。

 なお、訪れたのが1月14日のどんど焼きの日で、「奉獻道祖神 昭和二十三年十二月吉辰 茅野町氏子中 神朝臣守家眞拝書(落款)」の幟が立てられていた。これからみると幟の制作は昭和23年12月であり、道祖神も昭和23年の制作で同じ年である。
 準備をしていた若い奥さんが「ほかの地区の道祖神は、石で作られているのに、どうして、ここの道祖神は木で作られているのか。」と首をかしげていた。

 

祭祀場(撮影1990.1.14 平出一治氏)

 

木像双体像(撮影1990.1.14 平出一治氏)

 

 ※「遙北石造文化同好会」のこと 後編に触れた通り、「平出一治氏のこと」について回想録として掲載している。

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